第三十八話 プレゼント
ノッカーを叩く音がする。音が軽くてあまり響かないので、おそらくローザが到着したのだとヴィヴィアンは思った。
「ローザかな」
「だろうな。……何か着てないとまずいか」
相手がナタリアだったら別に向こうが全く気にしないので半裸でもよかったが、ローザとなると話は別だ。ローザは血が極端にだめだが、同じぐらい異性にも苦手意識を持っているらしい。幼馴染であるヴィヴィアンやその他数名とは話をするが、知らない男性には絶対に近寄らない。そして友達であっても、ヴィヴィアンがタンクトップなどの露出の多い服を着ていると絶対に目を合わせてくれないのだ。昨日は血塗れでそれどころではなかったから例外だったが、普通に何の怪我も無い状態で半裸でいたら確実に近寄ってこなかっただろうと思う。
ヴィヴィアンは面倒くさいと思いつつも脱いだシャツを再び羽織ると、適当にボタンをかけてドアを開ける。澄んだ朝の涼しい空気が家の中に流れ込んできた。
「おはよう、ヴィヴィアン。具合どう?」
手に小さな籠を提げたローザが、心配そうにヴィヴィアンを見上げていた。睡眠不足で疲れているのだろう、なんとなくやつれた印象を受ける。
「昨日に比べたら楽。あがれよ」
ローザを招きいれ、ドアを閉める。どこからか蝉の鳴き声が聞こえ始め、本格的に朝になったのだなとヴィヴィアンは感慨深く思った。卒業以来、こんなに早起きしたことはほぼ無いと言っていい。この時間まで起きていることなら多々あるが。
「ユキノさん、おはよう」
「おはよ、ローザ」
ソファに寝た状態のユキノを、上から覗き込むようにしてローザが挨拶しているのを見る。ユキノは中途半端な高さに上げた右手をひらひら振って応える。
「疲れてるの?」
「ちょっとね。貧血がひどい」
「あ、あのね。貧血の薬持ってきたよ。私ね、家の裏で薬草を育ててるの。時々薬にしてしまっておくんだよ」
そういって、飴色の籠から瓶を取り出すローザ。ユキノはソファに仰向けに寝たまま天井を見上げた姿勢で、やわらかい微笑みをローザに向ける。
「そうなんだ。ローザは植物育てるの上手そうだもんな」
「そうかな」
少し照れた様子のローザだが、手を止めることはない。瓶をいくつか見比べ、二本だけテーブルに置く。恐らくその色を判別していたのだろう。傍目には大した違いのない無印の瓶を、その微妙な色の差だけで判別できるのだから凄い。
「栄養剤と貧血の薬。これは飲んだらすぐに効くの」
「本当か? ありがと!」
「早く元気になってね」
二人の会話を聞きながら、依頼書を纏めておく引き出しを開けてみた。隅の方に丸まった包帯をみつけ、ため息をつきながらそれを手に取る。何故こんな場所にあるのだろう。
「ヴィヴィアン、どうかしたの?」
「包帯探してた。こんなとこにあった」
「ヴィヴィアンの分も持ってきたよ。鎮痛薬と貧血の薬」
「ありがと」
ソファの近くに歩み寄ると、ヴィヴィアンに近いテーブルの上にローザは瓶を二つ置いた。そして心配そうにこちらを見上げる。
「傷、また痛む?」
「痛みで目え覚めた」
「そっか…… ごめんね」
「違う、お前らが悪いって言いたいんじゃない。気を抜いてたんだ、魔物相手にしてるのに真剣みが足りなかった」
一歩間違えたら命を奪われかねない危険な闘いだったというのに、ヴィヴィアンの意識は大量の雑魚たちを相手にしたときと殆ど変わりなかった。それがまずかったのだ。
一人前の剣士が隣で戦っているからといって安全なはずがない。魔物は物理的攻撃で致命傷を与えるのが困難なのだと、言っていたのは自分の方だったはずなのに。隣に共に戦える人材がいるということで、どこか安心していたのだと思う。つくづく自分の間抜けさに呆れる。
「依頼受け見てきてくれる? 全部キャンセルしないとだから。できたら張り紙か何か作ってもらえると嬉しい。都合により今日は依頼を受けられませんって」
言いながら、ヴィヴィアンは適当にかけて掛け違えていた一番下のボタンから外し始める。ローザはさっとヴィヴィアンから目をそらし、軽く頷いて玄関まで走っていく。ヴィヴィアンはシャツを脱ぎ、ソファに座ると鍋の底に残った薬草を搾ってガーゼに包む。そして、ひんやりと冷たい薬草を傷に乗せると、包帯で適当に巻いた。
「ヴィヴィアン、それちょっと適当すぎると思う」
今まで挙動を冷静に見守っていたユキノが、重々しく口を開く。ヴィヴィアンは頷いた。
「やっぱ? 腕動かせなくなった」
何も考えずに巻いたら脇を閉じることすらできなくなっていた。腕を少し体から離した状態のまま、ユキノに視線を返す。ユキノが表情をやわらげ、ソファから腰を浮かした。
「俺やるよ、そういうのやりなれてる」
「頼む」
包帯すら自分で巻けないなんて子供じゃあるまいし、と思いながらも結局任せてしまう。ユキノに巻きなおしてもらうと、きちんと腕が動くようになったので助かった。
「ありがと」
「どういたしまして。俺ちょっと着替えてくるね」
「おう」
「やっぱ、先に風呂借りてもいい? 血の臭いが気になるから」
そういわれたが、ヴィヴィアンは全く気づかなかった。多分拭いただけに留めたのだから、自分も血の臭いがするはずだが、草の臭いしか感じない。
「勝手にしろ。魔法陣触れば程よく暖かい水が出てくるから」
「便利!」
「あんまり長湯するとナタリアに覗かれるからとっとと出てこいよ」
「大丈夫、足音ですぐ解る」
本当に彼は色々な神経が研ぎ澄まされていると思う。聴力も嗅覚も良いし、アイアランド家での一度目の魔物退治のときに、視力だって良いことが実証されている。色々なものに反応しすぎて疲れないのだろうか。家の中にずっといれば目なんて見えなくていい場合があるから、ヴィヴィアンは時々眼鏡を外してわざと視力を使わずに過ごすことだってあるのに。
「タオルは洗面台の下の棚だ。石鹸も同じところにおいてあるから、新しいの一個やる。あー、それから、洗濯物あふれてたら適当に樽んなか突っ込んどけ。お前のも洗うなら一緒に」
「全部一緒に洗って干すから心配しなくていいよ。じゃ、お先」
手に風呂敷というらしい布の包みを持ち、ユキノは二階へ上がっていった。バスルームは二階なのだ。
「ローザ?」
そういえばローザが戻ってこないので、ヴィヴィアンは気になって玄関の方へ行ってみた。ローザは玄関にいたが、どこか一点を向いて固まっている。
「おい、ローザ」
「あ、ヴィヴィアン」
真後ろまできてやっと反応したローザだが、ヴィヴィアンの半裸を目にして慌てて下を向いた。
「何見て……」
言いながらローザが見ていた場所に目を移せば、ヴィヴィアンも言葉を失った。
「ヴィヴィアン!」
視線の先にはナタリアがいたのだが、どうも様子がおかしい。ナタリアは半袖のワンピースを着ているはずなのに、どうしてその二の腕から先が真っ赤なのだろう。
手にはバスケットと、何故か真っ赤な花束が抱えられていた。花束に巻かれた包装紙も真っ赤でぐしょぐしょになっていて、ナタリアは泣きそうな顔でヴィヴィアンに駆け寄ってくる。その姿で駆け寄られるといささか怖い。
「な、なんだよその格好!」
思わず逃げ腰になると、ナタリアは本当に泣く寸前のように顔を歪ませて項垂れる。
「知らないわよ! わかんないわよっ…… 急に溶けたの!」
ローザが後ずさり、ヴィヴィアンの背中に隠れるようにして小さく悲鳴を上げる。
「溶けたぁ?」
「うちをでるとき、玄関に置いてあって…… 気味悪かったから、そのままにしていこうと思ったの、でも、メッセージが」
「わかった、わかったから落ち着いて話せ」
ナタリアは頷き、救いを求めるようにヴィヴィアンを見上げた。ヴィヴィアンはとりあえずナタリアに荷物を置いて目をつぶるよう指示し、鮮血に似た赤い液体を洗い流して乾かした。そうしてから、その真っ赤な液体の元凶となっているらしい花束を見下ろす。
「これが、溶けた?」
「そう、そうなの、近づいたら」
「だから、落ち着けって」
真っ赤な液体は生臭く、どう考えても血にしか見えなかった。ためしに人差し指にとってみればねっとりと絡みつく、その粘性の液体に少し吐き気がする。おまけに生暖かい。
さすがに舐めてみる気にはなれなかったが、舐めたらきっと鉄錆のような味がするのだろう。こんな液体は血以外に知らないし、血ではないとしても不快なことこの上ない。
赤い薔薇のようなものは、玄関の敷石の上でどんどん溶けていった。やがて茎も葉も全て溶け、血塗れの包装紙と凄惨たる血溜りだけが残る。後ろでばたりと軽い音がして、何かと思って振り返るとローザが真っ白い顔色で倒れていた。しまった、見入っていないで真っ先に彼女の目を塞ぐべきだった。
「とりあえず、お前はローザを連れて中に行け。話はちゃんと聞くから」
そう言ってナタリアを押しやれば、彼女はバスケットを抱えて家の敷居をまたぐ。そして中にユキノがいないことに気づき、唇を震わせながら振り返る。
「ユキノは? ユキノはどうしたの?」
ローザが失神しているので、実質的に家の中に一人になる。それが怖いのだろう。
「残念ながら風呂。出るまで待ってろ。俺はこれを片付ける」
ナタリアは頷くとローザを抱き上げ、ふらついた足取りでソファまで行った。ヴィヴィアンは足元に広がる血溜りを見下ろし、ふと何か白い紙のようなものが沈んでいるのに気づく。非常に気分の悪いことではあったが、その血溜りに手を伸ばして指先で紙を掴み取る。沈んでいたのはメッセージカードらしい。
「……読めねえ」
真っ赤に汚れたメッセージカードには何か黒いインクで文字が記されているようだが、読めなかった。ヴィヴィアンは呪文を唱え、水でカードを洗ってから再び逆呪文を唱えて乾かす。文字は掠れていたが、真っ赤だった時よりは読めた。
「愛しいナタリアへ。……彼氏?」
絶対に違う。そんな男の存在をヴィヴィアンは知らないし、第一ナタリアの彼氏になるような男は、早朝に花束を玄関先に置いて逃亡するなんていう小心者じみたことはしないはずだ。
彼氏ではないなら一方的な求愛だろうかと内心で思いながら、読み進める。
「少し早いけど誕生日おめでとう。歳の数だけ薔薇を贈ります。愛の印として受け取って下さい。次の満月の夜に、貴女をさらいに行きます。それまで他の男に近づいちゃ駄目ですよ? そいつがどうなっても知りません。貴女は僕だけを見ていればいいんですから」
小さいカードに小さい文字でびっしりと書いてあったのは、こんな寒気がする内容だった。寒気と同時に少し苛立った。思い上がりもいいところだ、自分の素性も明かさずに何が『僕だけを』だ。自分を見て欲しいなら、せめてカードに名前ぐらい書けと思う。
しかも、次の満月の夜といったら丁度ナタリアの誕生日の晩にあたる。彼女の誕生日は、今年はダンスパーティーの日に重なったヴィヴィアンの誕生日の四日後なのだ。
差出人の名前を探してみたが、裏面にも見当たらなかった。文字は印刷したもののように見えた。綺麗にどの字も同じ形をしているのだ。印刷機が使えるということは、上流階級なのだろうか。個人単位での印刷なら、文字を彫った石をインクにつけて一文字ずつやるやり方もあるが、それだって一般家庭に普及しているわけではない。
犯人について様々な思想をめぐらせながら、ヴィヴィアンは足元の血溜りも魔法で一掃し、不気味なカードを持って家に入ろうとした。しかし、玄関をくぐって施錠の結界を通った瞬間、カードは火を放って燃えだす。思わず手を放すと、カードは灰すら残さずに燃え尽きた。空中をゆらゆらと漂いながら落ちていった紙は、床に着く前に跡形もなく消える。
「……、魔力か」
施錠の魔法に弾かれるということは、あのカードが何らかの魔力を持っていたか、あるいは悪質な魔術を使って作られたものだったということだ。非常に大きな面倒事の気配を感じる。
ちらりと顔を上げれば、ソファに座って膝に乗せたローザの髪を撫でながら、青白い顔で俯いているナタリアが視界に入る。
「お前、なんか最近身の回りで変なことない? 洗濯物が盗まれるとか、買い物中に後ろから誰かの気配がするとか、知らない男にじっと見られてるとか。俺に会いに来た日は、必ず何か嫌なことが起きるとか」
訊ねながら、正面の二人掛けのソファに乱暴に腰を下ろす。ナタリアは顔をあげ、力なく首を横に振る。
「ないわよそんなこと。町で男の子に声を掛けられるのだっていつもどおりの頻度だし、変な人に絡まれたりもしてないわ。ナンパしてくる人だって、嫌って言えばちゃんといなくなるもの」
ナタリアは非常に人気が高いので、街中に行けば通りを歩いているときによく声を掛けられる。そんな現場にヴィヴィアンが一緒にいると、ヴィヴィアンはナンパ避けの用心棒として利用されたりもする。
悪質な相手に遭遇したことも何度かあって、そのときにはヴィヴィアンが相手をこてんぱんにしたこともあった。もしかすると今回もそういうケースで、しかも相手が魔道士という最悪に厄介なパターンかもしれない。
「そっか。けどお前、やっぱり変な魔道士にストーカーされてるぞ。あのカードも花束も、何か悪質な魔力で作られたものだった」
「こ、怖いこと言わないでよ!」
「事実だからしょうがない。お前はなるべくここを出るな。対策はちゃんと考えるから」
施錠魔法でしっかりと魔力が避けられたこの空間なら、よほど強い魔道士が現れない限り侵入は不可能だ。そんな魔力が近づく気配は空気に感じないし、今のところは大丈夫だと思う。