第三十七話 夜明け
翌朝、肩の痛みで目覚めた。窓からは薄明るい朝の景色が見える。早朝だからか、歩いている人の姿は見えない。静かな夜明けだった。
体を起こしてみると、貧血の方は大分改善されていた。歩いてもあまりふらつかない。睡眠はやはり重要だ。
壁に備え付けた棚を探り、瓶をいくつか見繕う。透明なガラスの瓶に閉じ込めた種子は、それぞれ鎮痛用と貧血用、疲労回復用の用途に分けられている。ベッドの上にとりあえず撒いてみた。今なら魔法が使えると思う。そっと指先に魔力を伝わせてみれば、ちゃんと魔法陣が描けた。安心して、植物を生成するための魔法陣を描いていく。
呪文を唱えれば、種子が芽吹いた。芽吹いたがそれ以上成長はせず、そのまま止まってしまう。どうやら、長いこと出してもらえなかったことで拗ねているようだ。エストルに言わせると、種子がいうことを聞かない場合は大体術者が悪いらしい。
呪文を変えてみる。いくつかためしてみた。ようやく薬として効果がある大きさに成長したので、ヴィヴィアンは薬草を摘み取った。エストル流に接しなければまた拗ねられるかもしれないと思い、植物たちに礼を言ってから階段を降りる。
「ヴィヴィアン、おはよう」
ソファにゆったりと凭れかかっていたユキノが、顔を上げてこちらに走ってこようとする。寝起きでぼんやりしていたところにヴィヴィアンがやってきたのだろう。ユキノは髪も結っていなかった。
ヴィヴィアンは来るなというジェスチャーをして、階段を下りきってユキノのそばを通り過ぎる。
「まだ疲れてるだろ。寝てろ」
「ヴィヴィアン、何すんの?」
キッチンへ向かうヴィヴィアンを呼び止めるユキノに、半分だけ振り返って返事をする。
「薬草煎じる。出がらしは湿布にすると傷が早く治るらしい」
肩の傷に貼り付けておけば、少しは効果があるだろう。今日は一日大人しくしているつもりだから、その間に回復してくれれば非常にありがたい。
「多分、そういうのって俺のほうが得意だと思う」
声をかけられ、確かにそうだろうと思って肩越しにユキノを振り返る。
「……そんな気がする。やったことある?」
「どれくらい煎じるの?」
「色が透明な緑になるまで」
「んー、わかった。効きそうなタイミングで止める」
髪をさっと結い上げ、かんざしを一本だけ使って留めると、ユキノは袖をたくしあげながらキッチンへ向かった。その背中に向かって、ヴィヴィアンは少し迷ってから声をかける。
「昨日は悪かったな」
「謝らなきゃならないのは俺のほうだよ、色々迷惑かけたし、全然役に立てなかった」
肩越しに振り返って笑うユキノを見て、何故だか少し安心する。ユキノがヴィヴィアンの発言に対して冷たい反応をとることなど、絶対にないと解っていたのに。
「薬煎じてる間にナタリアたちと連絡取る。……今何時?」
「五時すぎだよ」
「まあ、おきてるだろ」
本当ならあと数時間寝ていたいところだが、眠れないので仕方ない。ユキノが腰掛けていたソファに腰を下ろし、正面のテーブルに魔法陣を描いた。呪文を唱えれば、誰かの話し声がする。
「ナタリア?」
「ヴィヴィアン! 早かったじゃない、起きて平気なの?」
「ああ」
「よかった、ヴィヴィアン」
ローザのほっとしたような声が聞こえて、ヴィヴィアンは安堵すると同時に少し不可解さを感じた。
「お前ら、いつ起きたんだ?」
二人の声から全く眠そうな気配を感じない。起きたばかりというわけでもないのだろう。
「実は眠れなかったわ」
ぽつりとそう呟くナタリアの声に、罪悪感が湧いてくる。魔物の恐怖から救ってやりたくて戦ったのに、余計怖がらせてどうするのだろう。
「ごめんな、怖い思いさせて」
「いいのよそんなこと! 怖い思いしたことより、あんたがどうにかなっちゃうことのほうが心配だったのよ」
「……そっか」
心配をかけたことについては謝りたいが、少し過保護なのではないか。ヴィヴィアンを心配するあまりナタリアまで不眠で倒れたりしたら、後の対応が面倒くさい。
「すぐそっちに行くね」
ローザが明るい声で言い、続けてユキノの安否を気遣った。
「あいつならいま、薬煎じてる」
「もう動けるの?」
「あんまり万全じゃないけど」
そんな会話をしていると、草の青っぽい匂いが漂ってくる。草刈をした直後の畑でするような匂いだ。
「ヴィヴィアン! ちょっと底が見えてきた」
声がする方を見れば、鍋を覗き込んでいたユキノが振り返って笑う。
「完全な半透明になるまでだ、頼むぞ」
「はーい」
ユキノの声色がだんだんいつものトーンに戻りつつある。ヴィヴィアンはそれに少しだけ安心し、魔法陣に向き直った。
「じゃ、ナタリアはパン屋寄ってきてくれ。ローザはそのまま来い」
「わかった。じゃあ先に行くね、ナタリア」
ローザの軽い足音が聞こえ、部屋のドアが開閉する音がした。
「早くあんたに会いたいわ」
「石畳でコケんなよ」
「平気よ!」
「待ってる」
そういって魔法陣の繋がりを断ち、ヴィヴィアンは肩を押さえながらソファに横になった。このまま眠ってしまいたいが、痛みが煩わしくて眠れもしない。
「ヴィヴィアン! 出来たみたい!」
「それ鍋ごと持ってこっち来い」
ユキノはヴィヴィアンの言うとおり、鍋ごと薬草を持ってきた。鍋を持って塞がった両手の、僅かな指だけを器用に使って濡れ布巾を敷くユキノを手伝いながら、ヴィヴィアンはちらりと鍋の中身をのぞく。綺麗に澄んだ濃緑の液体の底に、しなびた薬草が漂っているのが見えた。
「グラス…… もってくるの面倒だな」
「俺がいく!」
「いい」
ヴィヴィアンはユキノを制して右手を挙げ、軽く背後を振り返って指を振った。人差し指の軌跡は、食器棚からテーブルまでのゆるやかな放物線を描く。すると、その指につられるようにして、食器棚の扉が開いてグラスが二つ飛んできた。ユキノが目を丸くしてそれを見ている。
「す、げえ」
「あー、疲れた」
「なんかすっげえ魔法っぽかった」
「当たり前だろ、魔法なんだから。解けない氷でグラス作ったり、水を固めてグラスにしたり、面倒くさいときはそうする。けど今、そこまで魔法使う気力はなかった」
「十分だよ! これ、二等分すればいい?」
「おう」
ユキノが薬を綺麗に二等分し、グラスに注ぐ。ヴィヴィアンは小声で呪文を囁き、凍る寸前のところで止めてグラスの中身を冷やしてからグラスを手に持ってみる。ひんやりとした感触が気持ち良い。
「これって何の薬草?」
「鎮痛剤と貧血防止と疲労回復。面倒くさかったから混ぜた」
そう言いながら、グラスに注がれた緑の液体を眺める。透明度が高いので、緑のステンドグラスを通したように向こう側がしっかり見える。
「鎮痛剤、俺の分は無くてもよかったのに。傷は治ったよ、疲れたけど」
「いいよ、まだ種あるし」
芽吹かせるのは面倒だが。
「あちっ」
ヴィヴィアンに倣ってグラスを取ったユキノだが、熱さが想定外だったらしく、驚いて乱暴にグラスを置く。中身は大きく揺れたが、零れることは無かった。
「冷やせよ馬鹿」
「だって俺が冷やそうとすると全部凍るもん」
「あー」
そういえば彼の魔法はまだ制御不能なのだった。寝癖がついた(いまついていることに気がついた)赤毛をぼさぼさとかき回しながら、ヴィヴィアンは呪文を唱えてグラスの中身を冷やす。ついでに鍋の底に残っていた薬草の残骸も冷やしておいた。
「ほら」
グラスを差し出してやれば、彼は頷いて受け取った。そして、一気にグラスの中身を呷る。どんな味がするのかは匂いでだいたい解っていたが、それでもユキノの反応が気になってヴィヴィアンは彼の挙動を窺う。
「どうだ」
「……草の味。超ー効果ありそう」
非常に苦そうな表情でユキノは眉をしかめ、空のグラスをテーブルに置いた。ヴィヴィアンはあまり気乗りしなかったが、息を止めてグラスの中身を飲み干す。
「っげ、まんま草じゃん」
「しばらく口に残るよね」
二人でげんなりしながら乾いた笑い声を上げる。
「なんでこう、薬ってまずいんだろ」
「薬飲むのいやで、もう怪我とか病気とかしたくなくなるだろ。塗り薬にしても、しみるの嫌だし。だからじゃないかな。治る時気持ち良いならみんな怪我したがるよ」
「あー」
納得してしまうのもどうかと思ったが、本当にそうだったりしたら面白い。実際には単に有効成分が苦味になっているだけなのだろうし、他にもロジェに言わせるところの『原理』の部分がたくさんあるはずだ。しかし、考え方はユキノのほうが柔軟性があって楽しいとヴィヴィアンは思う。
「で、効き目は即効?」
「そうでもないかも。単なる薬であって魔法じゃないからな。ちょっと休んでろ」
「そうする」
ユキノがソファの肘掛に頭を乗っけて寝るのを見て、ヴィヴィアンは場所を空けてやった。そして、自分はテーブルを挟んで正面にある二人掛けソファの方にうつる。
ヴィヴィアンは二人掛けのほうに座り、客人を広いほうのソファに座らせるのが依頼を受ける時のスタイルだ。そんなことを思いながら、ヴィヴィアンは昨夜ナタリアに借りたシャツを脱ぐ。浅いとはいえ、左肩に抉れた跡が見えて吐き気がした。
「傷跡残っちゃったな」
「ああ」
「まだ痛むんだろ」
「ああ」
ユキノの問いに答えながら、ヴィヴィアンは玄関近くの引き出しの中からガーゼをいくつか持ってきた。包帯もあったはずだと思って、リビングの隅にある引き出しや、壁際の本棚のすみにある木箱の中を探した。
「村を守るどころか、自分の師すら守れないなんて」
ぽつりとユキノが呟いた。見るとユキノはソファの肘掛に頭を預けた姿勢のまま、その澄んだ深い青色の目でこちらをじっと見つめていた。
「これは俺の不注意だ。それに、元々お前に守られるつもりもなかった」
「怒ってないの?」
「何を怒るんだよ」
純粋に疑問でそう問い返すと、ユキノはしばし黙り込んだ。そして、唐突に何か閃いたような表情を浮かべる。清々しいぐらいの笑みだ。
「よかった! これからも師匠の役に立てるように頑張るから」
何と答えていいか解らなくて、ヴィヴィアンは軽く頷く程度に留まった。ユキノに真っ直ぐな眼差しで師匠と呼ばれるたびに、胸の奥が疼く。
ここまで自信がないことを自覚したのは初めてだった。ユキノと関わり始めてから、自分がそこまで凄くないことをヴィヴィアンは痛感していた。今まで大体のことは完全にできたし、魔法が強いと言われることを肯定できていた。何でも屋の人気も上々だったし、常連客たちが毎回褒めてくれるのが素直に嬉しかった。凄いといわれるのが当たり前だった。だから適当にでも、毎日生活していることに何の疑問ももたなかった。
それが今では、以前とまるで違った状況に立たされている。自分はちっとも凄くなんてないという現実を、ユキノと自分の大怪我という目に見える形で突きつけられてしまった。今まで自分が無意識に持っていた自信の根拠になる部分を、粉々にされたのだ。
このままでは自分がどんどんわからなくなる。今まで当たり前だと思っていたことの全てがなくなってしまった今、このまま呆然としていては元の形を失くしてしまう。それが怖かった。だからもっと強くならねばならない。
責任感とかそういう格好の良い言葉で今の自分の感情を表現するのは難しい。これは責任というより保身や逃げに近い。
「あー、面倒くさい」
呟いて髪をがしがし掻きまわし、ヴィヴィアンはため息をつく。要は力をつければいいのだ。そうすれば自分は、町一番の魔道士の名に恥じない、それに見合ったスケールの師匠になれる。
凄くなる事が目的ではない。ユキノに村ひとつ守るだけの魔法を教えてやれれば、あとはもう今までどおり適当に過ごせるのだから。それだけ頑張ってみよう。
「……俺なんか迷惑なこと言った?」
「べつに。単にお前の教育が面倒くさいだけ」
包帯はどこにしまっただろう。ヴィヴィアンはまだ探していない棚のほうへ歩き出す。すると、玄関の方で物音がした。