第三十五話 帰り道
夜道は静まり返っていて、虫の声すらしなかった。ロジェに肩を借りたユキノがゆっくりと前を歩いているので、ヴィヴィアンもゆっくりと歩きながら肩を気にしていた。塞がってはいるが治ってはいない状態で、血こそ出ないものの激痛は治まらない。ナタリアが心配そうにヴィヴィアンの横顔を見上げ、肩に手を差し伸べようとしてやめ、俯いて隣を歩く。
「本当に何も出来ないのね、あたし」
「だから、良いってそんなの。何か出来る奴のほうが稀なんだし」
「でも、痛がってるのに」
ナタリアはまた泣きそうな目をしてヴィヴィアンを見上げる。いつもそうだが、彼女の若草色をした澄んだ瞳にまっすぐ見つめられると、なんだか気まずくなる。ヴィヴィアンは小さくため息をつく。
「お前色んな事が大げさ。腕もぎ取れたわけでもないのに」
「大げさなんかじゃないわ。あたしが同じような怪我したら、あんただってきっと心配するでしょ」
そんな現場に直面したら、まず彼女を安全なところに避難させるだろうから怪我はしないだろうと思う。それでも怪我をしたら、悪態をつきつつも真っ先に治癒してやるに違いない。ナタリアではなくローザやロジェが怪我をしたとしてもそうするだろうし、現にユキノがやられた時のヴィヴィアンの反応は、自分で思い返して呆れたくなるぐらい過保護なものだった。エストルがやられたら放っておくかもしれないが、それは相手の強さを信頼しているからだ。
「即なんとかするから心配とかしない」
「……あたしにはそれができないの」
「あー」
もしも魔法をもたないただの人間だったら、ヴィヴィアンはどうするだろう。歯がゆい思いをするだろうし、大事な人たちが傷ついている時に何も出来ない自分を呪うだろう。
夜の闇に吸い込まれて消える足音を聞きながら、ヴィヴィアンとナタリアはしばらく無言になった。
「あー、のさ。ヴィヴィアン」
しばらくすると、ロジェが話しかけづらそうに軽くこちらを振り返り、声をかけてきた。視線だけで応じると、ロジェは変色した灰色の髪をがしがし掻きながら前を向き直る。
「やっぱ何でもない。あ、あとさ、この道暗いよな」
彼が言おうとしていたことなんてすぐ解った。どうせまた、ヴィヴィアンとナタリアが恋人同士のようだと言いたかったのだろう。言葉を濁す様子からして、そういう話題だということは読み取れる。
「一個かせ、そのマグネ弾」
あえて後半の言葉にだけ反応し、ロジェに手を伸ばす。ロジェは途端に明るい笑顔を浮かべると、先ほどの話しかけづらそうな様子が嘘のように身体ごとこちらを振り返る。
「よっしゃ! ユキノ、しばらく目ぇ瞑ってろよ! はい、マグネ弾」
ロジェとユキノが再び正面を向いたところを確認すると、ヴィヴィアンはロジェから受け取ったマグネ弾の導火線に魔法で火をつけた。ほんの一瞬火花を起こすだけでも眩暈がひどくなり、本格的に自分が衰弱しているのだと再認識する。
しかし眩暈がひどいからといってそのまま持っているわけにもいかない。ヴィヴィアンは導火線に火をつけたマグネ弾を、上に放り投げる。そして呆けたようにその仕草を眺めていたナタリアの目を、腕で抱きすくめるようにして覆い隠して自分も目を閉じた。その一連の動作が終わるのとほとんど同時に、軽い破裂音がして頭上で閃光が炸裂する。
まぶたの裏にまで焼きつく白い光に感嘆しながら、ヴィヴィアンはナタリアの目を覆っていた腕を外す。目が眩んでいたので表情は読み取れなかったが、ナタリアはいきなりヴィヴィアンに引き寄せられたことに驚いたのか固まっていた。
「どう? すごくない?」
ロジェは楽しげに振り返って飛び跳ねようとしたが、ユキノを支えなおしてその場に留まる。ヴィヴィアンは辺りを見回し、何の危険もないことを確認するとロジェに親指を立ててみせる。
「完璧だ。魔物の気配がしなくなった」
その声に反応するように、ナタリアがようやく動きを取り戻す。大きな瞳を何度かしばたかせ深く息を吐く姿に、ナタリアがもしかしたら炸裂の瞬間を怖がっていたのかもしれないという考えに思い至る。
「びっくりしたわ! 本当に明るいのね、その爆弾。ヴィヴィアン、ガードありがと」
「どういたしまして。これを直視したら冗談抜きで目が潰れる」
ヴィヴィアンとナタリアの会話を聞いてロジェはにやにや笑いながら、ユキノの肩を支えたまま飛び跳ねるようなステップで前に進む。
「はっはっは! やったね。発明王ロジェ様と呼んでくれたまえ」
本当にわかりやすい奴だと心から思う。揺られるユキノが少し青ざめていたから、静止させるために視線で訴える。
「ユキノが死ぬぞお前」
「あっ! ごめんユキノ、大丈夫?」
「うえ。なんか酔った……」
「ぎゃああ! ごめん! 本当ごめん!」
こんなに騒がしかったら魔物も寄り付かないかもしれない。ヴィヴィアンはそう思って笑った。声を上げて笑うと肩の傷が痛んだが、それでも笑いが止まらない。
「ちょっと、ヴィヴィアン?」
「ごめ、なんか、ツボ…… ロジェ、ガキみたい」
神経が磨耗しすぎておかしな感情回路が組み立てられてしまったのかもしれない。何が可笑しいわけでもないのに笑いが止まらず、ヴィヴィアンはナタリアの肩にもたれて歩きながらひとしきり笑う。
「あんた笑ってる時の方がいいわよ。いつもむっつりしてるじゃない」
「やめろよ人をスケベみたいに」
「だってそうじゃない、あんたの周りってロジェみたいな一途かエストルみたいなプレイボーイしかいないでしょ? あとは普通の男の子だけ。なのにどうしてあんたは女の子に興味ないのよ。あるのに隠してるならむっつりじゃない。あんた十八歳の健全な男の子なんだから、もうちょっとがっつきなさいよ。折角顔も体格も申し分ないんだから、モテようと思えばエストルだって目指せるわ」
ちょっと待って欲しい。それは十八歳の健全な女の子が口にすべきセリフではない。ヴィヴィアンはこめかみに痛みを感じ、無意識にナタリアの肩に回していない方の左手をそこへやりかけて呻いた。
「誰が目指すかよあんな種馬! お前やっぱり変態なんじゃないのか?」
「誰が変態よバカ! あたしはあんたのこと心配してるの! このモテ期を逃しちゃったら、一生ひとりかもしれないじゃない!」
いや、その前に今はモテ期なのだろうか。コモディンの利用者は半分くらい男性だし、若い女の子は一握りだ。色々気を遣わなければいけないのが面倒くさくて、彼女はずいぶん長い間いない。
「一生ひとりの何がいけないんだ、理由を列挙してみろよ」
「はあっ!? 理由、あんたそれもわからないの? あんたひとりじゃ何にもできないじゃないっ! 炊事洗濯掃除整頓、裁縫も庭仕事も買い物も、あんた何ひとつまともにできないでしょ! このままずっとユキノにやらせるつもり? ユキノだっていずれは、母国に帰って村を護らなきゃならない、じゃない……」
最後のほうは尻すぼまりの勢いで、ナタリアは前を歩くユキノの方を見た。篭っていた力が抜け、行き場のない両手を胸の前で重ねるようにしてナタリアは俯く。自分で言ってしまった言葉に自分でダメージを受けたようだ。
「そうよ、ユキノはイリナギに帰ってしまうんだわ」
「うん、そうだよ。いつかはここを出ないと」
ナタリアを振り返ることなく、落ち着いた声でユキノは言った。
「……ユキノ、なるべく成長しないでね。できるだけ長く一緒にいたいわ」
「あはは、それはどうだろう」
「折角仲良くなれたんじゃない!」
「一日や二日で完成した魔道士にはなれないよ。大丈夫、まだずっとここにいるから」
「よかったわ! ヴィヴィアン、ユキノを大事にしてあげてね」
どうしてそこで自分に話を振るのかと思いながら、ヴィヴィアンはとりあえず頷く。
「はいはい」
「絶対よ。ここからイリナギまで、どう軽く見積もったとしても五ヶ月はかかるわ。そんな長い旅をしてここにきてくれたんじゃない」
「……そんな遠かったっけ」
「お父さんに聞いたわ」
教師という職業上、地理に強いウィルフレッドの言うことなら間違いないだろう。確認を取るようにユキノを見てみると、ユキノはちらりと振り返って邪気のない笑みを口許に浮かべる。
「びっくりしたでしょ」
「実際どれぐらいかかったんだ?」
というロジェの問いに、ユキノは前を向き直りながら呟くように告げる。
「八ヶ月」
喉の辺りに何か張り付くような感覚を覚えた。その八ヶ月間の苦労も努力も我慢もすべて、冷酷に跳ね除けた自分を呪いたくなる。こんな感情が芽生えたということは、いよいよ自分がこの弟子を信頼し始めてしまった証拠だろう。
出会ってまだ数日のこの弟子が、どこまでも自分に尽くして身を削り戦う男であることをヴィヴィアンは知ってしまった。誰よりも人の痛みに敏感で、心優しい弟子が、これからどう育っていくかは自分次第なのだ。
だから師匠になんてなりたくなかった。自分がこの弟子の持っている輝かんばかりの素質を、一つ残らず潰してしまう可能性だってあるのに。
そうならないために、精一杯できるだけのことはしよう。ヴィヴィアンはそう固く胸に誓う。血塗れになっても身を引き裂かれてもヴィヴィアンを守るために戦ってくれたこの男に、最低限の忠義は尽くしたい。
「だからね。最初にヴィヴィアンに会えたときは、本当に嬉しくって腰抜けるかと思ったんだけど案外そうでもなかった。だって倒れてたもんね俺」
思わず笑い合うユキノとヴィヴィアンだったが、ナタリアが彼の言葉に反応してヴィヴィアンの袖を引っ張る。
「ヴィヴィアン? あんたユキノに何したのよ」
「術かけて体動かなくした」
「ちょっと!」
「だってこいつ、未来の師匠の性別も知らなかったんだぞ」
一瞬、四人の間に沈黙が流れた。次いでロジェがげらげら笑い始める。
「あはは! そっか! 性別間違えたのか! ユキノ、そりゃ駄目だ」
「だってほんと、赤毛で綺麗な緑の目をしてるなんて言われたら女の子しか想像できなかったんだよ! それに、弟子入りの話を持ちかけられたときは色々混乱してて、長老の話なんかまともに聞いてなかったし。とりあえず友達にどう別れを切り出そうか、そればっかり考えてて。俺がいなくなったら家事は弟の中の誰が担当するんだろうとか、もう熊汁食わせてやることもできなくなるなとか」
蹴りを食らわせてやろうかと思ったが、相手が真っ青な顔色をした重症患者であることを思い出してやめた。ロジェは頷きながら、『帰ってくるなら別れなんて要らないじゃん、そこまで強迫観念を持った原理がわからない』などとユキノに疑問符を投げかける。
「だってまず、エンカンタリアに着けるかどうかもわからないだろ。船なんか乗ったことなかったし。港町ではよく商船が嵐に飲まれて沈没した話を聞くし…… もしかしたら、一生の別れになるかもしれないって、そう思ったら」
旅客船などという豪華なものには乗れず、商船で手伝いをしながら港まで運んでもらうことになったというユキノにとっては絶望的なニュースだっただろう。もしかしたら魔道士になる以前の問題で、イリナギを出てそのまま行方知れずになった可能性すらある。
本当に、死と隣り合わせの危険な旅をしてきたのだろう。旅費も十分に持たず、魔法も使えず、気の遠くなるような道のりをひたすら歩いて彼はここにやってきた。ただひたすら、ヴィヴィアンに弟子入りをするためだけに。
「よく生きてたな」
色々迷った挙句、発することができたのはこの一言だけだった。ユキノは前を向いたまま、小さく笑い声を上げた。
「幸運なんだよ、俺。生まれたときからずっと、色んなことに恵まれてる。優しくて真っ直ぐな両親がいて、二人がいなくなってからは暖かい家族に迎え入れてもらって。村のみんなは冷たいけど、それでも俺を追い出さずにいてくれたから。ちゃんと恩返ししなくちゃな」
「それじゃ、早く安否知らせてやらないとな! 待っててくれる人がいるんだろ? 八ヶ月も連絡なかったら、今頃心配してるよ。毎日お祈りしてるかも」
ロジェには割と信心深いところがある。無神論者のエストルに馬鹿にされてもめげず、自分の発明が成功すると教会に祈りを捧げに行ったりする。清い心を持つのはいいことだと思うが、その理知的な頭脳が神の存在をどう論理的に紐解いたのか気になるところだ。
「でも俺、どうやって生きてるって伝えたらいいかわかんない。国外への手紙の書き方なんか知らないし、向こうもそうだろうから返事返ってこないかも」
「魔法で飛ばせばいいだろ」
「あ。そっか」
紙飛行機を思い出したのだろう。ユキノの目が輝いた。