第三十四話 そして帰路へと
ロジェはヴィヴィアンの近くで気まずそうにおろおろしていたが、ナタリアに二人分の血に汚れた服を押し付けられて固まる。
「あ、えっと、ナタリア、さっきは……」
「それ、お風呂場に持っていって。出来たら水につけておいてちょうだい。たぶんもう汚れは取れないけど、何もしないよりマシでしょ?」
「おう、とりあえず水に入れるんだな?」
「それとも、新開発の洗剤とか持ってたりするのかしら」
「開発段階なら。使ってみる?」
「そうね、それじゃお願い」
ナタリアは全くいつもどおりの対応でロジェに話しかけ、ロジェも最初こそいくらかぎこちなかったが、いつもどおりに応じた。ナタリアとロジェは時々こうして喧嘩になったりなりかけたりするが、いつもこうして自然にいつもどおりに戻っている。
少しすっきりした様子で、ナタリアはユキノの正面に立膝で座った。
「ユキノ、それ何ていうのかしら。あんたもその黒い服、脱いで」
「背中紐になってるんだ。ごめん、解いて。体動かすの辛い」
「わかったわ、ちょっと前かがみになってちょうだい」
てきぱきとユキノの腹掛けを外し、ナタリアはユキノにも濡れタオルを渡した。
「ありがと」
「……あたしがやろうか?」
「いい。汚れるよ、手」
ユキノは血を拭い、真っ赤にそまったタオルを見て小さくため息をつく。
「ごめんな、色々ありがとう、助かるよ」
「ううん、そんなこと言わないで。あんたたち、全然自分のこと考えないんだもの。いつもあたしたちのために無茶してくれてありがと、ヴィヴィアン。ユキノも、昨日あったばかりなのに」
ナタリアがそう言って、ユキノとヴィヴィアンの方をそれぞれ見て笑みを投げかける。ヴィヴィアンは疲れきっていたので、反応は少し口角を上げる程度に留まった。
「昨日あったばかりの俺に、こんなに優しくしてくれるだろ。俺はそれが素直に嬉しいよ」
「ありがと! きっとあんたとは一生いい友達でいられるわ」
嬉しそうに笑いながら、ナタリアはユキノにシャツを着せる。色は濃い臙脂で、袖が七分丈になっているものだ。何年か前、まだ身長がここまで高くなかった頃にヴィヴィアンが好んで着ていた服である。
「はい、袖通して」
ぱりっとしたエンカンタリア流のシャツ(ユキノの体型には微妙に合わず、ややゆったりとしている)に、イリナギのタイトなズボン。ちょっとアンバランスな格好かもしれないが、ユキノはとりあえず着替えを終えた。ヴィヴィアンもローザに取ってもらった服を着て、ソファに浅く腰掛けた。
「悪いな、血まみれだ」
凄惨たる光景にぞっとした。今座っているアイボリーのソファには、ユキノと自分が寝たり座ったりしていたところにべったりとその痕跡がついていたし、居間の絨毯は教室の入り口からソファまでの間が酷いことになっている。
「いいのよ、こんなこと気にしなくて」
ナタリアはそういうが、絶対にこれはまずい。これは明日になってアイアランド夫人が帰ってきたとき、間違いなく気を失うレベルだとヴィヴィアンは思う。今は頑張って目を向けないようにしているローザが、ふと視界にこの光景を入れてしまったら同じようなことになるのは明白だ。
「明日復活してたら、早めに染み消しにくるから」
「なんなら泊まっていけばいいじゃない、帰るの大変でしょう?」
「それは遠慮しとく。これ以上世話になりたくないし、たぶんこのまま家からずっと離れてたら施錠の効果が薄くなる」
そんな会話をしているところに、ロジェとウィルフレッドがやってくる。自分の娘に猛烈なアタックをしかけているロジェに対して、ウィルフレッドの目が厳しいかというとそうでもない。
むしろウィルフレッドは、発明家としてのロジェにはいたく関心を持っている。ロジェもローザに対する感情を、上手にウィルフレッドに伝えているらしいので、この二人は意外と仲が良いのが現状だ。
「ヴィヴィアン! ウィル先生がフローズンドリンクつくってくれたよ!」
駆け足で寄ってくるロジェは、大きめのグラスを手に持っている。
「ありがとうございます」
ウィルフレッドに向かっていうと、彼はにこりと微笑んだ。微笑んだ時に目じりや口許に寄る皺は、最近になって少し増えた気がする。
「君はリンゴが好きだったね? シャーベットにしてあるから、溶けないうちに飲みなさい」
ロジェに渡されたグラスには、すり下ろしたリンゴと砕けた氷の欠片が入っていた。ヴィヴィアンはそれを一口あおり、冷たい液体が喉を流れてく感触に目を閉じた。やはり冷たい飲み物は良い。しかし、冷たいものを一気に飲み込んだおかげで頭が痛くなった。
「ユキノ、君は少し鉄分を取ったほうがいい。クイリの実には昔から貧血予防の効果があるといわれているんだ、飲みなさい」
「すみません、ありがとうございます」
思わず頭に手をやって無言で悶えていたヴィヴィアンだが、そんなやりとりを聞いてユキノを振り返る。ユキノは恐る恐るといった様子でグラスに口をつけ、それから少しずつ中に入った飲み物を飲み始めた。クイリの実は毒々しい赤なので、飲むのを躊躇う気持ちはよくわかる。
「明日の朝一番でそっちに行くわ。ご飯つくってあげる」
意気込むナタリアだが、ヴィヴィアンは頷こうとしてやめた。パン屋の依頼を思い出したのだ。
「それなら、アルラッド・ベーカリーに行ってくれ。今日の依頼料として二人分の朝食つけてもらったから。ユキノに取りに行かそうと思ってたけど、無理そうだし」
「一晩寝れば治るよ」
そう口を挟んでくるユキノだが、無理をされて体調不良が長引いたらヴィヴィアンの生活(主に炊事)に支障が出る。教えなければいけないこともたくさんあるのだし、休めるときに休んでおくのが一番だ。
「バカ、安静にしとけ」
叱ればしょげたように目を伏せ、ユキノは無言でグラスの中身を飲む。ナタリアがそんなユキノの隣に座り、ぽんぽんと彼の頭をなでながらしょうがないなという風に微笑む。
「わかったわ、パン屋さんね。ユキノ、ヴィヴィアンはあんたのこと心配してるのよ。大事な弟子なんだもの」
「何もできないのって歯がゆいからさ」
「今あんたが師匠のためにできることは、ゆっくり休んで元気になることよ」
顔を上げるユキノに、ナタリアはとびきりの笑顔で応じる。ユキノも頷いて、嬉しそうに笑った。
「ナタリア、悪いな。助かったよ、色々」
彼女がいてくれたおかげで本当に色々助かった。こうして服を着替えさせてもらったり、魔法陣を発動させるのを手伝ってもらったりしたおかげで、最悪のコンディションだがなんとか生きているのだ。
「ヴィヴィアン、お願いがあるんだけど」
神妙に切り出され、何を言われるのかと身構える。
「多少無茶なことぐらいだったら聞く。何だ? 傷が治ったら家を改装して欲しいとか?」
「違うわ。今年のパーティー、絶対あたしと踊って」
「……そんなことでいいのか」
ヴィヴィアンの方はとっくにナタリアと踊るつもりでいたのだが、そういえばまだ今年は誘われていなかった。
これで先約ができたから、ご令嬢とのダンスは無しになる。依頼はいつもおいしいが、甘えた声でねだられたり、過度にくっつかれたりして疲れる。それがないとなると結構気が楽だ。相手がナタリアなら、甘えられてもくっつかれても慣れているので全く平気である。
「そんなことって! 去年すっぽかしたじゃない!」
「あー、悪い。あれは本当に悪かった」
「服、あたしが選んでいいかしら」
「礼装一着持ってるけど」
「本当? じゃ、当日それ持ってここに来て! あ、その前に練習しましょうよ、あんた時々ステップがおかしいから」
「了解。あ、ユキノなんだけど」
最後まで言わなくてもナタリアはヴィヴィアンが言いたいことを理解してくれたようだ。異邦人であるユキノがこの国のダンスパーティーの伝統を知らないだろうということは彼女にも予想がついただろうし、第一、ナタリアの場合はヴィヴィアンを誘った時点でユキノもどうするか考えていたに違いなかった。
ナタリアは何かとヴィヴィアンにくっつきたがるが、かといって他のメンバーそっちのけでヴィヴィアンにだけくっついているようなことはしない。
「一昨年あんたに着せたの、丁度いいんじゃないかしら。服は貸せるわ。相手は…… ローザ、あんたユキノと踊ったら?」
「あ、うん」
ローザは微笑んで頷いた。ユキノも蒼白な顔面に頼りない笑みを浮かべる。
「おい! 待て! ちょっと待てよ!」
ふつうに会話の流れでパートナーが決定しかけていたが、ロジェが慌ててストップをかけた。
「何よ。あんたまだ申し込んでなかったの?」
「誰かさんが俺に門前払い食らわすから」
憮然としてロジェはナタリアにそう言った。そうだったかしらととぼけるナタリアを尻目にローザの前に立つと、彼は真剣な表情で彼女を見つめる。
「ローザ。ユキノじゃなくて俺と踊ってくれませんか」
「えっ」
真剣な誘いにローザは固まる。ナタリアがにやにやしながらこちらを見た。ヴィヴィアンも激痛にたえながら、彼女に向かってにやりと笑ってみせる。
「無理にとは言わない。ローザが嫌なら諦めるし」
真摯に迫るロジェだが、ローザはどんどん後ずさりしていく。ロジェが悲しげな表情でローザとの間合いを詰めると、いよいよローザの表情が困惑し、頬が赤く染まった。
「あの、えっと…… 私、あんまり踊るの得意じゃないし、ロジェなら他の人、すぐ見つかるよ。貴族のお嬢さまとか」
ローザもロジェを扱いにくいのだろう。気恥ずかしいのかもしれないし、本当に困り果てているのかもしれない。きっぱり断らないのはローザの優しさ故なのか、本心では満更でもないと思っているのか。その判別は残念ながらヴィヴィアンにはつかなかった。
「ダンスなら俺がリードするから。一応これでも上流階級だし、ローザに恥ずかしい思いは絶対させないよ。ローザは他の男でもいいかもしれないけど、俺はローザじゃないと嫌なんだ。ローザ、お願い。俺にして」
「……おねがいします」
呆れに近い思いでヴィヴィアンはロジェを見ていた。こうまで言われてしまってはローザも承諾するより他ないだろう。
気弱なローザを利用しているともとれる強引な迫り方だが、誘われた本人が困ったようにナタリアや自分に助けを求めてこないところを見ると、やはり満更でもなかったのか。ヴィヴィアンは友人の恋の進展に、少しだけ期待する。ロジェの一生懸命な恋心が、いつかローザにもわかってもらえればいいと少しだけ思う。
「やったああ! やったよヴィヴィアン、俺、ちゃんとローザ誘えた!」
「あーはいはい、煩い怪我に響く」
応援しようと思っていたことを撤回してやろうかと思いながら、ヴィヴィアンは目を閉じて肩口を押さえる。押さえると余計痛んだのですぐ手を離し、ため息をついた。
「去年もその前も断られっぱなしだったもんな、ナタリアに! やっと誘えた!」
「あら、ローザには先約があったもの」
ロジェは嬉しそうに笑い、ウィルフレッドにも挨拶している。
「ローザのことは、安心して俺に任せてください。絶対離しませんから」
「それじゃ、頼んだよ。だけど君にあげるとはまだ言ってない。調子に乗り過ぎないように。変なことしたら黙っちゃいないよ」
「はーい、先生! 安心してください、ローザが嫌がることは絶対しないんで」
ロジェのはじけるような笑顔に、ウィルフレッドも少し笑う。ヴィヴィアンはグラスの底に溶け残った氷を喉へと流し込むと、重い腰を上げた。
「そろそろ帰ります」
急に立ち上がったことでふらりとよろめいた体を支えたのは、一番近くにいたナタリアだった。しばらくの間目を閉じて、めまいをやりすごす。
「送っていくわ」
ヴィヴィアンが落ち着いたところを見計らい、ナタリアが心配そうにそう言った。
「お前に送らせるのは嫌。危ない。ロジェもいるし平気だ」
即答で断り、彼女の肩を掴んで自分から離れさせた。ロジェがため息をつき、首を横に振る。ナタリアは引き離されてもなお真剣な顔でじっとヴィヴィアンを見上げているから、ヴィヴィアンは目をそらしてため息をつく。
「嫌っていうなよ、ヴィヴィアン。別に危なくないよ、人が多いほうが良いんだしさ。マグネ弾もあるし、いざとなったら俺がなんとかする。ナタリアはお前から離れたくないんだよ」
そんなことを言われても、部屋の隅で縮こまっていたロジェを思い出してヴィヴィアンは承諾を渋る。
「お前に何とかできるのか?」
「できる! だって発明は他にもいくつかあるし。声だって武器になるぐらいだぞ」
ナタリアはできたらここに置いていきたかったが、このままいくら渋り続けてもついてくるという結論は変わらないだろう。だったら、これ以上深夜にならないうちに帰らなければ。時計の短針はすでに十二の位置を越えていた。
「わかった。ローザは置いていけよ。ロジェ、お前は俺んちまできたら、ナタリアをちゃんとここまで送れ」
「言われなくても」
ロジェは笑顔で頷き、ローザの方を振り返る。ローザは心配そうにナタリアとヴィヴィアンを見ていたが、ロジェの視線に気づいて俯く。
「お父さん、ローザを頼んだわよ」
「お前は止めても無駄だろうからな。ローザ、二人でナタリアとロジェを待っていよう」
ウィルフレッドはローザの頭を優しく撫で、説得するようにその顔を覗き込む。
「……うん」
ローザは渋々といった様子で頷いた。本当はついてきたかったのかもしれないが、安全のためには仕方ない。黒衣のポケットに手を突っ込みながら、ロジェはローザの方を向き直ってしばしの別れを告げる。
「すぐ帰ってくるからな。大丈夫だから」
「怪我なんか絶対しないでね。ナタリアも、ロジェも」
ローザはロジェを見上げ、潤んだ目を伏せる。ロジェが一瞬固まり、それから嬉しそうにローザの両肩に手を添える。
「よっしゃ! ローザにそんなこと言われたら絶対怪我できねえし! ローザのためだけに無傷で帰ってくるからな。ローザ、愛してる!」
そのまま抱きしめそうな勢いのロジェをナタリアが引き剥がし、戸口の方まで引っ張っていった。ローザは真っ赤になった頬を覆って立ちすくみ、それから慌てたようにロジェの去っていった方向に背を向ける。ロジェが見たらきっと『可愛い!』と連発する仕草だ。
ヴィヴィアンは背後を振り返り、ソファに深く座ったままのユキノに手を貸す。
「ユキノ、平気か」
「うん。ごちそうさまでした、先生」
ヴィヴィアンの手を借りて体を起こし、ユキノは持っていたグラスをウィルフレッドに渡した。ウィルフレッドは頷き、グラスを適当にその辺りに置いてユキノの肩を支える。
「気をつけて帰るんだよ。ナタリアがわがままを言って悪かったね、ヴィヴィアン。後で私が迎えに行くよ」
「家の中にいてください。ロジェが責任持って送りますから」
引き下がらない彼に何度も大丈夫だと言って、ヴィヴィアンはユキノを連れて玄関を出た。戸口まで送ってきてくれたローザとウィルフレッドに別れを告げると、待っていたロジェとナタリアに続いて家路につく。