第三十二話 帰還
しんとした闇夜に、少しずつ虫の声が戻り始めていた。
ユキノの傍に戻ってみると、ユキノはゆっくり顔を上げて訪ねてくる。
「ヴィヴィアン、怪我してるのか?」
「あー」
思い出したら何だか痛みに意識が向いた。無視していたはずの痛みが急に痛みを取り戻したように感じる。ヴィヴィアンはユキノの肩を支えるようにして教室に繋がるドアの前に立つと、施錠魔法を解いてドアを開けた。
静まり返ったアイアランド家のリビングに、人の姿はない。二階から何か喧嘩するような声が聞こえるのが気になったが、まずはユキノの手当てをしなければ。
ソファにユキノを座らせた。ユキノは着物を脱ぎ、ノースリーブというか首の後ろと背中で結ぶ前掛けのような衣類とレギンスのようなズボンというスタイルでソファに腰掛け直す。
「あーあ。着物も腹掛けも、こんな切れ方したら直らないかも」
ずいぶんと気落ちした様子で呟いたユキノに、傷の方はいいのかと突っ込みたくなる。
「随分派手な怪我だ」
「でも、この傷受けてからは、怪我してないんだ」
「よく避け続けたな」
感心すると同時に、ひやりとした。もしもユキノが弟子入りを志願してきた普通の男だったら、すぐに殺されていただろう。剣の才能があったからこそこうして生き延びているのであり、魔法はもっと教育してやらないと身を助けるレベルにまで達しない。自分すら守れないのだから、村を守るなんて無謀だ。
そして、自分も。人に何かを教えるのだから、少なくとも自分の身は守れるようにしておかなければいけないのに。自分もやられているのだから本当にどうしようもない。痛む肩を握り締めるようにして、感じる不快さをごまかす。
「これは完全に予想外だったんだ、魔物ってこんな攻撃もしてくるんだな」
「もっと厄介なのだと、エストルのやどりぎまがいのことしてくるからな」
「怖っ、そんなのと急に戦えって言われたら今度は死ぬよ俺。ありがとう。ヴィヴィアンが壁つくってくれたおかげで、手負いでもなんとかなった」
「死なれたら困るんだよ。規約にも書いただろ、勝手に死ぬなって」
「うん。大丈夫、まだ生きてる」
明るく笑うユキノの顔色が紙のように真っ白であることに気づき、ヴィヴィアンは小さな魔法陣を空中に描いた。そして、治癒の呪文を唱える。この状態のユキノにあまり強い治癒魔法はかけたくなかったが、仕方ない。たぶん腹の傷は塞がるだろうが、そのあとユキノが歩いて店まで帰れるかどうかは怪しい。
治癒の魔法をかけ終り、ヴィヴィアンは疲れきってソファに深く座り込んだ。ユキノも喋る気力すらないのか、二人で黙り込んでいた。すると、二階の階段からウィルフレッドが降りてくる。
「ヴィヴィアン! ユキノ!」
ユキノがぴくりと反応した。たぶんウィルフレッドに名前を呼ばれことに驚いたのだろう。ヴィヴィアンは顔をあげる気力も起きなくて、視線だけでウィルフレッドを見上げて軽く会釈した。
「話は聞いたよ、ヴィヴィアン。すまなかったね、塾生の個人情報をまとめていて、君達がきてくれたのに気づかなかったよ。凄い物音がするから見に行こうとしたら、ロジェに止められて」
「いいえ。挨拶がおくれてすみません、お邪魔してます。さっき、教室なおしておきました。あと掃除がまだ残ってるんですけど、もう授業は再開できると思います」
「助かるよ、ありがとう。……ひどい怪我じゃないか、ヴィヴィアン」
ウィルフレッドはヴィヴィアンの左肩に手を伸ばした。激しい痛みに襲われ、思わず体ごとウィルフレッドから逃れる。
「あ、ああ、すまない」
「いえ、気にしないで下さい。あれ、奥さんは?」
「昨日ひとばん商工会の者たちと会議をしている間に、うちがこんな風に荒されただろう。あのまま議事堂に泊まったんだが、なんとなくこんな様子を見せたくなくてね。もう一晩とまって来いといってある」
「そうだったんですか」
とはいえ、三日も四日も議事堂に泊めておくわけにはいかないだろう。できたら全ての状況が整ってから家に帰ってきて欲しいと思うが、今のヴィヴィアンの力では無理だと思う。ろくに動けないこの体で、アイアランド家をすっかり元通りにすることは不可能だ。
「何か冷たいものを持ってくるよ。そのままそこで待っていなさい」
「あ、そんな気を遣わないで下さい、昼にも色々貰ったし」
「今晩のこれは依頼じゃないんだろう。それでは私たちの気が済まんよ」
ウィルフレッドは台所の方へ消えていき、ヴィヴィアンはため息をついた。
「おいユキノ、生きてる?」
「死んでる」
「生きてんだろが」
「気分的には死んでる」
「あー、それは同意」
たったこれだけの会話に疲れた。エストルのつる草がまだしっかり肩を締め付けてくれているおかげで血はあまり流れないが、血の流れがとまりかけている左手が全体的にしびれている。気持ち悪いので早く直したいが、魔法をかける気力も無い。
なんだか疲れて眠い。ここで寝てしまってはいけないと解っていながら、瞼が下りてくるのに逆らえない。しかし、ずっと気になっていた喧嘩の声がどんどん大きくなるので、意識が途切れない。ついに声がはっきり聞こえるようになる。
「だからっ! ここでお前が出てったら、ヴィヴィアンは何のためにお前らを俺に守らせたんだよ! あっち行ってもお前は足手まといなの! なんでそんなことも解んないんだよっ、自覚してるだろお前だって!」
「うるさいわねっ、そういう問題じゃないの! もういいわ、埒が明かないもの。あんたはローザだけ守ってなさい! 何もしないで待ってるなんて、あたし嫌なのよ! 死んじゃったらどうするの!」
びくりとして顔を上げる。それと同時にすごい勢いでドアが叩きつけられ(開いた音なのか閉まった音なのかは判別できない)、階段のあたりにナタリアの姿をみつける。
「おい」
小さく声をかけてみると、ナタリアがその場で動きを止めた。それから、彼女の顔に見る見る絶望の色が広がっていく。
「ヴィヴィアンっ!」
凄い速さで階段を降り、よく転ばないなと感心しているとナタリアが胸に飛び込んできた。思わず両手で受け止めたが、左肩の丁度傷があるあたりにナタリアの細い肩がぶつかって叫び声を上げそうになった。
「っう! 痛っ、痛い、ナタリアどけ、いてえ!」
しかしナタリアは、ヴィヴィアンの胸に顔をうずめて首を横に振った。
「駄目よ。離したら、どっか、行っちゃうじゃないっ。あんたがいなくなったら困るのよ、馬鹿! 馬鹿っ……」
とうとう泣き出すナタリアに、心底困り果ててヴィヴィアンは助けを求めるように隣を見た。救いのはずのユキノは虚ろな目を伏せ、俯いている。これはちょっとまずいんじゃないだろうか。早く家に連れて帰らなければ。
「落ち着けよ、死ぬほどのもんじゃないから」
「死んじゃったらどうするつもりだったのよ! 血、血がっ…… こんなに出てるじゃないっ、顔色真っ青だし、震えてるわ」
顔色や震えについては指摘されるまで気づかなかった。眩暈やふらつきがあるということは貧血になっているだろうとは思ったが、まさか自分も見るからに重傷の風体であるとは。ナタリアも心配するわけだ。
「大丈夫だから。俺、まだちゃんと生きてるから。ほら、血がつくだろ、服汚れるからどけ」
そう言って安心させるために右手で頭を撫でてやると、ナタリアは涙で濡れた目でヴィヴィアンを見上げた。
胃の底が締め付けられるような感覚を覚える。なんだかナタリアに申し訳ないことをした気がした。ヴィヴィアンには、大怪我をした時に自分のことのように泣いてくれる人がいるのだ。怪我をしたヴィヴィアンを見て、ナタリアがこんな風に泣いてしまうことは予測できたはずだったのに。
目をそらせない。何か言わなくては。
「あー。えっと、ごめんな。そんな風に泣かすつもりはなかったんだけど」
彼女の澄んだ新緑色の瞳を見つめたまま、ヴィヴィアンは少し困りながらそう言った。ナタリアは少しの間黙っていたが、思い出したように声を上げた。
「あっ! ……痛いのよね、ごめんなさい」
申し訳なさそうにヴィヴィアンから離れたナタリアの右肩から胸にかけて、べっとりと真っ赤な染みがついているのが見えて頭がくらっとした。なぜ彼女は白い服で抱きついてきたりしたのか。
ナタリアはヴィヴィアンの右隣に座り、心配そうにヴィヴィアンの肩を見る。
「いつものことだろ、お前が飛び掛ってくるなんて」
「飛び掛ってなんかないわよ!」
「……水くれないか」
ナタリアはヴィヴィアンの隣にいたかったようだが、渋々腰を上げて台所の方へ向かっていった。ナタリアのあの服を見たらウィルフレッドが何と言うだろうか。
「ユキノ、生きてる?」
二度目の問い。ユキノの返事がなかなか返ってこなくて、ヴィヴィアンは不安になった。
「血が足りねー」
しばらくしてから答えが返ってくる。少し安心し、ヴィヴィアンは小さくため息をついた。
「俺も」
「家帰ったらさ、レバーとか食べたほうがいいよ俺ら」
「俺レバー嫌い。他に何が効くんだっけ」
話をしていないと、ユキノが眠ってしまう気がする。眠ってしまって、二度と起きないような気がする。彼はそんなに弱い男ではないと知っているが、そう思わずにはいられなかった。
「えっと…… 豆?」
「あー」
「他…… 貧血に効くの、なんだろ」
「手っ取り早いのはエストルの薬草だな」
「そっか、その手が」
「種子のストックならあるから。発芽させる気力はないけど」
「……大人しく寝てろってことか」
「まあそうなるな」
二人で乾いた笑い声を立てているところに、ナタリアがたっぷり水を汲んだグラスを持ってきてくれた。
「ヴィヴィアン、お水持ってきたわ」
「ありがと」
「ユキノも、はい。あんたも大分疲れてるわね」
苦笑して頷くユキノを横目で見ながら、ヴィヴィアンはため息をついた。
「当たり前だろ、こいつ腹に大怪我を」
「……あんたが治したのね?」
「ああ」
ナタリアはため息をついた。無茶をしたヴィヴィアンに呆れているのかもしれない。あるいは、ユキノの方にも呆れているのかもしれない。
「ユキノ、生きてて良かったわ! これ食べてちょうだい、糖分摂った方が良いわよ」
氷飴をひとつぶユキノの口に入れ、ナタリアは小さく微笑んだ。ユキノは一瞬身を強張らせたが、為されるがまま飴をほおばって小さく礼を言う。
「最初、あんたの方は無傷だと思ったのよ」
「割と重傷だったよ。ヴィヴィアンが治してくれたから、いまなんとか生きてる」
ユキノはにこりと笑って見せるが、相変わらず蒼白な顔色にナタリアは余計痛々しさを覚えたようで、俯いてユキノの手を握り締めた。
「ごめんなさい、あたしが頼んだりしたから」
「お前が謝ることじゃない」
横からそう言ってやれば、ユキノもうなずいた。そして、握られている両手のうち右手をすっと引っこ抜いてナタリアの手の上に被せる。驚いて顔を上げるナタリアに、ユキノは少し躊躇ってから腹掛けを摘み上げて見せた。
「できたらこれ、縫って欲しいんだ。着物も」
この状態でも相変わらず気丈なユキノを見て、ナタリアは服の袖で乱暴に目元を拭う。そして、すぐに顔を上げて微笑むと頷いた。