第三十一話 乱舞
手早く魔法陣を完成させると、ヴィヴィアンは長い呪文を唱え始める。左の肩がずきずきと痛んだ。無意識に目をやってしまってから後悔した。見ないようにしていたのに、裂けた外套と抉れた肩の傷、そこから溢れ出る鮮血を目にしてしまう。目をそらしたが、そらしてどうにかなる問題でもない。
「ジェギ・リクサ・ノア・ロウェ……ッ」
痛みに気が遠くなる。良く見るとまだ血が止まっていなかった。痛すぎて血が出ている感覚がわからないが、相当深く傷を負ったらしい。鼓動が打つたび血が抜けていく。
どうにか呪文を紡ぐが、視界がひどく揺れている。次第に魔法陣を捉えるのすら困難になってきた。
「苦戦してるね、おにーさん?」
からかうような調子の軽い声が後ろでしたと思ったとたん、背後からふわりと花の香りがした。呪文を紡ぎながら横目で見れば、壁を這う植物から伸びた枝にぶらさがったエストルがすぐ隣にいた。いつもどおりの軽い笑み。それを見た途端、なぜか急に安心した。
「エストル」
呪文は途中で打ち切ってしまった。どのみち、もう集中力がきれかけていたので最後の単語までこぎつけられなかったと思う。エストルはひらりと外套をはためかせながら、伸びてきたもう一本の枝に足をかけて優雅に笑ってみせた。
「なんか強烈に嫌な感じがしたから、来てみたらこれだろ? 俺って女の子相手じゃなくても鋭い勘使えるんだな。超クール」
この状況でも軽口を叩けるエストルに少し感心した。どうでもいいと思われているからこんな態度をとられるわけではなくて、彼なりにヴィヴィアンを気遣っているからこんな発言が出るのだ。
「あいつの…… ユキノの方を手伝ってやって。あいつまだ無理してる」
「ずいぶんボロボロにみえるけど、こっちの人は平気なのか?」
声と同時にするすると伸びてきたエストルのつる草が、ヴィヴィアンの肩に絡みつく。
「っ、痛てえよ」
「圧迫止血。ないよりマシだろ」
肩の傷口の少し上を、つる草はじわじわとしめつけていく。眼下でユキノがすっかりいつもの動きを取り戻しているのが見えたが、痛みのせいで視点をそこに留めておくのが困難だった。すぐに目を伏せ、ヴィヴィアンは絡みつくつる草に指を添える。
「それくらいにしといてやれ、サンキュ」
エストルの一言で、ぴたりとつる草の動きが止まった。
「ずいぶん乱暴だな、その『可愛い子ちゃん』ってのは」
軽口を叩いた瞬間、膝から力が抜ける。エストルの背後の方から伸びてきたつる草が肩に絡み付いているおかげで自分が作った足場から落ちずに済んだが、もしそのまま落ちていたらと思うとぞっとした。
「残念、こいつは可愛い子ちゃんじゃなくて頼れる相棒」
「植物にも性別ってあるのかよ」
「当然だろ? 学校の理科で習わなかったか、雄株と雌株。雄花と雌花。美しけりゃみんな女の子だし、力強けりゃ相棒だよ」
エストルは笑いながらヴィヴィアンに手を貸し、どんどん成長を続けて巨大な樹になりつつある植物の枝に軽く腰をかけた。エストルは動かなくても、樹が生長に合わせて枝を伸ばしてくれるので移動ができる仕組みだ。彼は完全に植物を操っていた。
「……で、他は? ご要望とあれば、鎮痛薬にも活躍してもらうけど」
「ここやられただけ。時間さえ稼いでくれれば、何とかできる」
左肩を指して言えば、エストルは目を細めて楽しげに笑った。
「オーライ。そんじゃ、準備運動からいきますか」
「早くあいつを手伝ってやってくれ」
「はいはい、っと。そいつの肩、頼んだぞ」
エストルがそう言った瞬間、つる草は自分の生えている元を断ってヴィヴィアンの肩にきゅるきゅると巻きついた。止血はされているが支えはなくなった状態になって、ヴィヴィアンはよろめきながらそこに留まる。
そんなヴィヴィアンをしばらく心配そうに見ていたが、やがてエストルは背後を振り返り、樹の根元の方に何か囁き声を投げかけた。途端に凄い勢いで枝が増殖しはじめ、目にも留まらぬ速さで成長する樹の波のような枝に乗ってエストルは魔物の方に突っ込んでいく。
「さて、俺のほうも仕事しないとな」
消えかかっている魔法陣に魔力を送り込み、深呼吸してから呪文を紡ぐ。ちょっと頭がふらふらする。それでも、意識の力だけで自分の足場となっている空気の塊を保ちながら、ヴィヴィアンは長い呪文を唱え続けた。
「エクタ・フィリカータ・クェリル・スタウ……」
眼下の魔物はエストルのつる草に巻かれて身動きを取れなくされていたが、それでも口から真空の刃を吐いたりべっとりした炎を吐いたりしていた。それでもヴィヴィアンの方に攻撃がこないということは、あの二人の攻撃を防ぐことで手一杯なのだろう。
ユキノが器用につる草からはみ出た部位だけを斬るところや、エストルが奥の手のやどりぎを使うのを見ながら、ヴィヴィアンは少しずつ呪文を完成させていく。
呪文を唱え終わる瞬間というのは、並みの魔道士や魔法使いにならすぐ判別できる。魔法陣または魔道士へ集まった魔力が、一気にはじける瞬間がわかるのだ。少しランクがあがってそこそこ強い魔道士になると、呪文を唱えている間に膨れ上がる魔力の気配を感じ取ることが出来る。そろそろ終わるなというのを、予知できるのだ。
エストルにはその力があるはずだったが、疲れているのか集中したいのか、なかなかこちらに気づかない。心の中で必死にエストルを呼ぶ。(おい気づけ、ユキノを連れて魔物から離れてくれ!)
とうとう呪文は最後の段落にさしかかり、魔法陣は強く白い光を放ち始める。あと四つ、単語を口にしたら呪文は終わる。二人がうまく避けてくれることを祈り、ヴィヴィアンは小さく息継ぎをした。
「シルマ・ヴェスパイア・サン・サンドレ」
とたんに目の前が真っ白に塗りつぶされる。空間ごと裂くように轟く大きな雷鳴を伴い、雷撃が魔物を直撃した。と、思う。視界が焼け付いて辺りを確認できない。
自分とした事が、自分の目を眩まないようにする呪文をすっかり忘れていた。外套の魔力を使って飛び上がり、空気の塊を蹴って床に着地した。
「ユキノ! エストル!」
まだ目が眩んでいるが、視界に映る机の残像を頼りにして二人のもとへ急ぐ。すると、ぽんと肩を叩かれた。
「ずいぶん派手にやってくれたな。耳いてえよ」
「無事か」
よく見えないが、エストルはたぶんいつもの快活な笑みでヴィヴィアンを見ているのだろう。
「まあ、なんとかな。ちょっと頑張ったと思わない? お前が雷撃を炸裂させる瞬間、こいつらをみんな種子に戻したんだ」
ポケットを指すエストルに、ヴィヴィアンは頷いた。彼は自分が扱う種子を非常に大切にする。植物は彼の武器というより仲間であり、極めて友達や恋人に近いのだ。
「考えたな。じゃあ、呪文が終わる瞬間にはちゃんと気づいてたのか」
「当たり前だろ? お前の魔力の動かし方なんて、ガキの頃から知ってんだから。呪文聞かなくてもどこで発動されるかすぐ解るよ」
「ん。そっか」
魔力には個人差があり、感じる温度や雰囲気も違う。人によっては色がついて見えたり、香りとなっていることもある。魔法が使える者同士なら、それを見分ける事が可能だ。
とくに古くからの友人の魔力は、ちゃんと注意していればすぐに判別できる。エストルがこの街に戻ってくるときも、ヴィヴィアンが面倒くさいから家に篭りっぱなしでいることが多いだけであり、街を歩いていればちゃんと解る。
そうだ、それを利用すればいい。やわらかく流れる水のようでいて、冷たく硬い氷のような、力強さと繊細さを兼ね備えた魔力を辿る。その持ち主が、すぐ近くにいるはずだ。……生きていれば。
「ユキノ!」
感じる魔力を頼りに走ると、机に膝をぶつけて痛かった。少し呻きつつも、彼がいる場所へと向かう。ようやく目が慣れてきた。ユキノは地面にうつぶせになり、氷のような青い瞳を伏せて小さく息をしている。
「おいユキノ、大丈夫か」
「……傷、開いた」
「お前、刀は?」
「あっち」
見れば、魔物に突き刺さって黒焦げになっている刀が目に入る。そして、その刀に貫かれた魔物も焦げて炭化し、ぼろぼろと崩れていく。おそらく金属製の刀を利用して、雷を魔物の心臓辺りにしっかり届くようにしたのだろう。こんな状況下でもユキノは非常に頭が切れる。
あれだけ感じていた強い禍々しい魔力をもう感じない。ヴィヴィアンの目の前で、魔物はどんどん崩れていった。崩れる途中で黒焦げの刀が魔物の腹から抜け、床に落ちて大きな金属音を立てる。黒い山の中へ落ちてしまったので詳細はわからなかったが、割れているように見えた。
やがて甲殻類のような脚も亀のような首も全て崩れ、魔物の死骸は消し炭の山のようになる。外の生ぬるい夜風が、中途半端に原型を残した魔物の死体を更に砂のようにしていった。
「終わった?」
「ああ」
ユキノに頷いてやり、手を掴んで立たせてやった。崩れた死骸はどんどん風に飛ばされ、黒い霧のように窓や壊れたドアから外へ運ばれていく。
何気なく目を留めると、炭のような死骸がもぞりと動いた。ぎょっとして魔力を指に溜め、魔法をかける構えをしていると、崩れていく死骸の中から小さなコウモリが飛び出した。炭を撒き散らしながらふらふらと窓から出て行こうとするコウモリに、ヴィヴィアンは呪文を唱えて火をつけた。コウモリはもがくように滅茶苦茶な飛行をしながら、窓から闇夜へと飛んでいってしまう。
「……なんだったんだ今の」
ユキノは腹部を押さえて机に寄りかかりながら、コウモリが飛んでいった方角をしばらく見つめていた。ヴィヴィアンも同じようにコウモリが出て行った窓を見ていたが、もうその姿を捉えることはなかった。
「あのちっちゃいのが本体だったんだろ。でも大分衰弱してたから、しばらくは襲ってこないと思う」
「そっか」
答えながら頷くユキノがつらそうだったので、ヴィヴィアンはとりあえず窓の修理とドアの修理をひとりでやることにした。幸い、エストルがまだ十分に動ける体だったため、望みは薄いと思いながら声をかけた。
「手伝ってくれる気ない?」
「こないだ借りた魔道書、返せないけどあれチャラにしてくれるなら」
「よし、交渉成立」
あの本けっこう気に入っていたのに、と思わないわけでもなかったが、仕方ない。エストルは木製のドアやドアの枠を呪文も使わずに直し始めたので、ヴィヴィアンはガラスを修復した。数分でその作業は終った。
机の天板は木で出来ているから、エストルにも半分手伝わせた。部屋はちょっと掃除が必要な汚さではあるが、部屋にある物品の修復は完了する。さすがというか、自分と実力が互角に近いエストルがいると仕事が早く済む。
「ユキノ、平気か」
修復が終わってユキノに駆け寄ると、ユキノは虚ろな目をこちらに向ける。
「ご、ごめんヴィヴィアン…… 俺、何もできなくて」
「腹なんとかするぞ。エストル、助かった。お前いてくれて本当によかったよ」
背後からユキノの様子を覗き込んでいたエストルだが、ヴィヴィアンが振り返ると清々しい表情で腰に手を当てた。
「ま、たまには良いことしてみるのもいいかなって感じ? じゃあ俺行くから。姉貴に会わないとな、久々に帰省して俺の帰り待ってるから」
「シスコンめ」
半眼で言ってやれば、エストルは途端に真面目な顔をする。何をいうかと思えばいつものエストル節で、
「だって姉貴可愛いんだもん。俺は全ての可愛い子ちゃんの味方なんだよ、平等に愛してやんないと」
……ヴィヴィアンからすれば、ちょっと寒気がするような発言だった。
「お前、それ家族に対する発言じゃないぞ」
「俺の哲学では、可愛い子ちゃん相手にそういうつまんない壁はないんだよ。それじゃ、そっちの美人ふたりによろしく」
そう言うが早いか、エストルはドアを開け放って軽く地面を蹴って楽しげに呪文を呟いた。途端に強い風が巻き起こり、エストルはその風に乗って飛ぶように闇夜に消えていった。その後姿を見送り、ヴィヴィアンはドアを閉める。