第二十九話 違和
薄暗い教室には、生ぬるい夜風が通っている。この広い教室に、窓ガラスが一枚も残っていない状態というのはやはりちょっと奇妙だ。おまけに机や椅子もばらばらで、『誰かさん』がつけた刀傷や『誰かさん』がつけた焦げ痕が非常によく目についた。
一瞬だけ何か不可解なものを感じた気がしたが、おそらく雑然とした教室の光景が脳内にあるいつもの教室の風景からかけ離れすぎているせいだろう。教室の姿は、ヴィヴィアンとユキノが暴れた時からあまり変わっていない。
「……うん。後始末って大事だよな」
「この年でようやく理解したか」
思わず呟いた言葉にロジェのきつい突っ込みが入り、憮然として前方を見やるとユキノが一人で教室の真ん中に突っ立っているのが見える。
「おい、ユキノ」
声をかけると、ユキノはぴくりと反応して首だけ振り返ってこちらを向いた。
「おかしいな、さっきまで聞こえたんだけど」
ユキノは少し眉をひそめ、気味悪そうに何度も黒板の辺りを睨んでいる。
「聞こえたって、何が?」
ロジェがそう尋ねると、ユキノはこちらに歩み寄ってくる。刀から手を離さないところをみると、かなり警戒しているようだ。
「さっき皆でわいわいやってたろ? で、あの空間には明らかにロジェとヴィヴィアンと俺しか男はいなかったはずだろ。いたとしても先生くらいなもので。でも、おっさんの声が聞こえたんだ」
「おっさん?」
「うん。聞いたことないおっさんの声。『空腹だ』『血が欲しい』『若い娘の血が欲しい』って、どう考えても尋常じゃないこと言ってたから、浮浪者でも迷い込んだのかと思って。こっちの方から聞こえたんだ。さっきまで、似たようなこと繰り返し言ってた」
険を帯びた表情で辺りをちらちらと警戒しながら、ユキノは心持ち落としたトーンの声でそう言った。
「それ、幻聴じゃないの? ユキノ、疲れてるんだよ」
心配そうなロジェに、ユキノは首を横に振って強い調子で続ける。
「でも絶対聞こえた。それと、なんか…… なんていうんだろう、蛇が舌出す時にする音。シュー…… っていうの。あれも」
「蛇に擬態した魔物が近くにいるのかもしれない。ロジェ、お前も警戒は怠るな」
「ラジャー」
この闇に、本当に男が潜んでいるのなら大変な事態だ。儀式に動物の血を使うのはよくあることだし、前に読んだ本では実際に若い娘の血を使った魔術のやりかたも紹介していた。闇属性の魔法ばかり取り扱った本で、その儀式も悪魔を身の内に宿すとか、そういうちょっと狂った感じの魔法を使うためのものだったと記憶している。
そんな思考を持った魔道士が、ナタリアやローザをみつけたらどうなるか。生贄まっしぐらだ。
「ユキノ、他に何かあったか」
「ううん、特に」
一瞬迷ってから首を横に振るユキノに、ヴィヴィアンは頷いて窓枠の方を向いた。すると、ロジェが机の上に座りながらヴィヴィアンの袖を引っ張った。
「何だよ」
「ヴィヴィアン、明かりつけない? 暗いと作業しにくい」
「あー。そっか」
ヴィヴィアンは机の上に立ち、危なっかしい足元を気にしながら上を見る。天井に直接魔法陣を書くのは難しそうなので、天井より十数メートル下の空間に魔法陣を描く。この魔法陣を光らせれば、部屋全体が明るくなるようになるはずだ。
教室はとても天井が高く、どうやっても手が届かない場所に採光用の大きな窓がある。年に一度、高いはしごをいくつか使ってアイアランド家の親族が命がけで掃除するらしい。幸い、その窓は割れてはいなかったが、当然のことながら夜なので明かりは入ってこない。今夜の月明かりはとてもおぼろげなのだ。
ヴィヴィアンは魔法陣を描き終わると、両手をかざして目を閉じる。いくらなんでもこれではライトの位置が低い。魔法陣を上に上げて、高度をとろうと考えたのだ。
少しずつ、描いた魔法陣がふわふわと上に上がっていく感じがして、制御できるぎりぎりのところまで高度をあげていった。目を開けると、綺麗に描いた魔法陣がばらけかけている。内心で舌打ちしながら人差し指ですっと弧を描けば、魔法陣は描いた時のように綺麗になった。
「すげえ! さすが師匠!」
「へんっ、魔法に頼らなくたって生きていけるもんね! ……でもすげえや」
下のほうで二人が騒いでいるのを聞きながら、ヴィヴィアンは魔法陣を光源にするための呪文を唱えた。呪文が終われば、白い光が昼間のように教室を包み込む。それを見届けてから、ヴィヴィアンは机から飛び降りた。
「それじゃ、始めるか。ユキノ、窓の修復から。お前はあっち半分、俺こっち半分」
「了解!」
「ロジェは机を直…… せなかったっけ。とりあえず元あったように並べといて。魔物入ってきそうになったらそれで撃退しろ」
マグネ弾を指して言えば、ロジェは頷いた。ユキノは早速黙々といびつな魔法陣を描き始め、ロジェも机を動かし始める。ヴィヴィアンも呪文を唱え、歪んだ窓枠を元に戻していく。
教室の入り口のあたりから良い匂いが漂っている。入り口は二つあって、一つはアイアランド家内部に繋がっているが、もう一つは直接庭に繋がっていた。匂いはもちろん家の方からする。庭側の入り口は半壊していて、ささくれた木にべっとりと魔物の血がついているのが見えた。
「あれ直さないことにはな……」
欄間のような感覚の、開かない飾り窓を含めて四つの窓を直していったが、窓はあと六つある。面倒になってきた。舌打ち交じりに呪文を呟いて、一気に六つとも修復した。
肩が重くなり、どっと疲れる。あまり一気に大量の魔力を使うべきではないが、面倒だから仕方ない。ヴィヴィアンは両腕をぐっと伸ばして伸びをし、首を鳴らしながら半壊したドアの前に立った。
そこまではよかった。
なぜかそこで、妙な感覚が頭をよぎった。前にもこんなことがあった気がする。いや、ドアを直すという行為ではなく、その先に。
今から起こることを自分は知っている。一瞬そんなことを思い、ヴィヴィアンは首を傾げた。何を考えているのだろう、自分は。疲れているのだろうか、きっとそうだと思う。
ゆっくりとドアに触れて、繊維のむき出しになった木片に魔力を流す。そうして、呪文を紡ごうとした刹那。
きん、と耳元で金属音が聞こえた。一拍遅れてぞわりと鳥肌が立つ。
ひやりとした金属の感覚が首のすぐ近くにある。しかも自分の赤毛が数本、切られて宙を舞うのを見た。
驚いて声もだせなかったが、強い力で後ろに引かれてようやく体のほうは動きを取り戻す。衣類に染み付いた嗅ぎなれない香りから、ヴィヴィアンを引っ張ったのはユキノらしいと解る。中途半端に首を回し、振り返るとユキノの怜悧な横顔がすぐ近くにあった。
「どいて。じゃないとヴィヴィアンまで殺っちゃう」
ユキノのその声は、いつものそれではない。聞いただけで喉元に刀を突きつけられている気分になるような、重く鋭いものだった。明らかな殺気が感じられる。
冷や汗が頬を伝った。正面を向いたところでようやく状況を理解した。
ユキノは意味もなくヴィヴィアンの首すれすれのところを切ったのではなかった。
ヴィヴィアンの肩越しに、正面にいた得体の知れない生物を突き刺したのだ。
ぐるる、と黒い生物が鳴いた。ヒトと猿の間をとったような顔をしていて、ごつごつした骨の形がはっきりわかるような首は、頭三つ分ぐらいの長さをしている。その顔をまともにみた瞬間、ヴィヴィアンは吐き気を感じた。瞳孔が開ききった黄色い眼は、白目であるはずの部分が真っ黒になっている。歪んだ口許からは垂れ下がった真っ黒いグロテスクな舌と鋭い牙が見えていた。その口の端から、数秒ごとに黄ばんだ唾液が糸を引いて垂れ落ちる。
その生物は首からべとべとした黒い血を滴らせ、クモのような長い複数の脚をドアの入り口にかけて蠢いていた。
「っ……」
目をそらさなければ。ヴィヴィアンは目を合わせず、相手の首から下に意識を集中させた。こういうとき、決して目を合わせてはいけない。自分の焦りや恐れ、それから戦略もすべて相手に悟られてしまう。
相手の首から下を見ながら、ヴィヴィアンは思考を停止して対策を考えていた。真っ黒なごわついた頭髪は長いが、首は分厚く硬そうな皮膚がむき出しになっている。そして、爪の先で破れそうな薄い皮膚に覆われた胴体からは、細身の脚が甲殻類や昆虫のそれのように無造作に突き出している。呼吸のたびに柔らかそうな腹部が動き、それに伴ってたくさんある足も不規則な動きをする。どこが急所になるのだろう。腹部は相当大きいので、少し刺した位ではダメージが与えられないかもしれない。
「な、なな、なんだこれ!? どっから出た?」
マグネ弾を握り締めたロジェが裏返った声を上げる。
「ずっと気配はしてた」
ユキノが短く言い、刀を引いて薙ぎ払う。粘性の強い血液がべちゃりと噴出し、長い首が仰け反って折れるような嫌な音を立てる。ヴィヴィアンは思い出したように後ろに飛んだ。外套のおかげで無意識に跳躍力が働き、知らぬ間に魔法をかける準備すらできていた。我ながらこの外套を作った自分に感心する。
引きつった顔でロジェはユキノを見ていたが、ユキノが動くのにあわせて一目散に部屋の隅に引っ込んだ。
わかっている。おかしな気配はしていた。しかし、その気配はあまりに普通に夜の闇と意識の隅のほうに溶け込んでいた。今になってみて初めて、あれがその異常な気配だったと気づいたのだ。感じていた曖昧な異分子は、急に強大になっていた。
そして、先ほどのデジャヴのような感覚の正体に思い至る。ヴィヴィアンはこのことを知っていた。いや、正確に言うとこのことではなく、もっと前の別の出来事のことだ。
これは、高知能を持った厄介な魔物なのだ。中途半端だがヒトにも擬態するような、相当なレベルの魔物だ。たった一度だけ、ヴィヴィアンはこのタイプの魔物に遭遇した事がある。すぐに親や他の魔道士たちが退けてくれたが、ヴィヴィアンは自分に擬態しようとした魔物が薄気味悪くてしかたなく、何日も眠れなかった。
その魔物に遭遇した時もそうだった。
気づいたら目の前にゆらりと姿を現し、ヴィヴィアンを食らおうとしていたのだ。そいつと目があった瞬間のことは思い出したくない。先ほど経験済みの吐き気がもっと酷くなって襲ってくる。思わず隣の弟子の名前を呼んだ。
「……ユキノ!」
ばんっ!
入りたくても入ってこられない魔物が複数の脚で壁を叩く。体重はゆうにヴィヴィアンの五、六倍ぐらいはありそうな魔物の巨体が、その動きのたびに振動でぶるぶると波打った。
見えているだけでも七本くらいある脚が、ばらばらと不規則に動いてもがくようにドアを破る。半壊していたドアはついに外れ、気管から搾り出すような魔物の鳴き声が壁を叩く音の間から断続的に響いた。
部屋の隅でロジェが息を荒げ、固まっている。ユキノは魔物から目をそらさず、目の前に伸びてきた足を一本切り落とした。粘性の液体が弧を描いて吹き出し、叩きつけるように壁に黒い帯を引いた。
「どこが一番効く?」
尚も魔物から目をそらさず、ユキノが訪ねてくる。魔物は苦しそうに呻き、甲殻類のような脚の先をユキノの着物に引っ掛けようと暴れ、壁をみしみしと軋ませた。
「心臓。脳。どっちも確実にやれば刃物でもいける。けど再生能力が尋常じゃないぞ、おそらく無茶だ」
現にいま切り落とした脚の断面がぼこぼこと膨れ、新しい脚が形成されていっている。ヴィヴィアンは机を蹴り倒し、動けるスペースを作ってからユキノを引っ張って後ろに下がる。教室の入り口にひっかけた魔物の脚から、何か出てくるのを視界の端に捉えたからだった。
「うわっ」
ユキノの袖に火がついた。出てきたものの正体は、粘性の炎だったのだ。即座に水の魔法で消し、自分とユキノの前に水で分厚い防護壁を作る。
水の壁越しに魔物がこちらを向いて口をあけ、火を吐く様子が見えた。見ている場合ではない。防護壁から飛びのいて魔法陣を描き始めると、魔物は動きを止めて静かになった。その優秀な知能を使って、ヴィヴィアンとユキノをどうしとめるか考えているらしい。
「うかつに近寄れない」
苛立ったように吐き捨て、ユキノは刀を握ったまま小さく呪文を唱える。それに呼応し、冷気が部屋を満たし始めた。コントロールの効かない冷気が部屋の壁を凍らせ、水の防護壁を凍らせ、魔物の表面に霜をつけていく。しかし、魔物は自分で溶け出して動き始めた。
「気をつけろ、毒吐いたり地面割ったりする奴もいる。目を合わせるな」
そう言いながら、魔物の動きがおかしいことに気づいた。でたらめに脚をうごかし、執拗に宙を引っかくようなあの動きはもうない。やわらかな胴体を利用し、魔物は脚を一本ずつこちらに引き入れ、壁を足がかりにして少しずつ入ってくるのだ。
その異様な動作に、ぞくりと寒気がする。
今日で一周年を迎えました! ありがとうございます。
一周年がこの話でいいんだろうかと随分自問しました。