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エンカンタリア  作者: 水島佳頼
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第二十六話  ナイトベーカリー

 ユキノは少しの間、繰り返し指先で魔法陣を描いていた。やがて指の動きを止めると、台所の保冷箱の中からリンゴをひとつ出してきてテーブルの上に置く。

「ちょっと見てて、師匠」

「ああ」

 ヴィヴィアンは頷いて、体を起こしてソファに深く腰掛けなおす。

 軽く衣擦れの音を立て、ユキノは右腕を胸の高さまで上げる。その掌をリンゴへ向け、囁くように呪文を唱えると、リンゴは見る見るうちに凍っていった。表面に霜が張り付き、冷気が白い煙のようにテーブルの下へと流れていく。

「どう?」

 楽しげにユキノはそう問いかけてきた。ヴィヴィアンはソファの縁に頭を乗せ、横になりながらリンゴの下辺りを指差す。

「七十点。テーブルも一緒に凍ってる」

「あっ!」

 こうしている間にも、テーブルに広がった氷の面積が広がりつつあった。ソファに深く埋もれながら、ヴィヴィアンはあくびをする。

 なかなか良い筋をしているとは思うが、ユキノが氷をコントロールできるようになるにはまだ時間がかかりそうだ。

 魔法を使っているときに見せた真剣さと緊張感はどこへやら、ユキノは凍ってテーブルに張り付いてしまったリンゴを引っ張ったり叩いてみたりしている。リンゴはしっかりと凍りつき、びくともしなかった。何だか頭が痛くなってくる。

「……溶かせよちゃんと」

「え、どうやるの?」

「反対呪文だ」

 面倒くさいが起き上がり、呪文のかけ方を教える。ユキノはすぐに反対呪文で氷を溶かし、リンゴを保冷箱に戻してきた。

「食わないのか」

「だってあれ、ヴィヴィアンの好物だろ?」

「あー、まあな。けど、とられて怒るとかそういうことはないから。もともと二つ買っといたうちの一個だし」

 近頃よく思うのだが、ヴィヴィアンには物に対する執着心があまりない気がする。自分の眼鏡や魔道書など、なければ困るもの以外は結構平気で人に与えている気がするのだ。

「そろそろ行こうか。もう既に依頼のこと面倒臭くなってきてるから、このままここに座ってたら本当に寝る気がする」

「よっし!」

 意気込んで仕度をはじめるユキノをみながら、ヴィヴィアンは伸びをする。そして、柔らかいソファの誘惑を絶って立ち上がる。そうすると、ふと壁のカレンダーに目がいった。

「パーティーまであと一週間か…… 面倒だな。六日以内に依頼を全部こなさないといけないのか」

 パーティーの日だけ、魔物避けの結界を町全体に張るというのはどうだろう。もしくは、令嬢の家だけでもいい。とにかく、魔物はどれだけ倒してもすぐに湧いて出てくるのだ。いくら何でも屋といえど、この店のスタッフ(たった二名)だけではどうしようもないと思う。

「そういえば、そのパーティーって、俺はどうするの?」

 そう訊ねられ、ユキノの方を振り返る。ユキノは刀を腰に佩き、例のレギンスのようなズボンと端折った着物という姿で食卓の椅子に座っていた。ヴィヴィアンは真っ暗になった窓の外を見やりながら、また一つあくびをした。

「お前も来い。服はナタリアがなんとかしてくれるだろ」

 相手はどうなるかわからないが。ヴィヴィアンはおそらく、令嬢のボディーガード兼ダンスの相手になることを依頼される。おそらくユキノは、アイアランド姉妹のどちらかと踊ることになるだろう。

「行くぞ」

「はい、師匠」

 楽しげに腰の刀を直し、ユキノはドアを開けた。風が生ぬるく頬を撫でた。

 昼間に比べたら少し落ち着いたが、やはり蒸し暑い。明かりのまばらな薄闇の中で、虫が鳴いている。

「最初の依頼は」

「アルラッド・ベーカリー」

「あー、四番通りか。ちょっと歩くぞ」

 空中に魔法陣を描き、施錠魔法をかけた。そして、少しでも闇を減らすために自宅の門灯と外灯に火を入れる。呪文も魔法陣もなくても、それはヴィヴィアンになら簡単にできることだ。

「すげー。あんなに離れた所にあるのに」

「行くぞ」

「はい、師匠」

 空の低いところにぼんやりと霞む月が見えた。不気味な赤い色をしている。何となく早足になったが、ユキノは文句も言わずについてきた。どうでもいい話をしながら、店から遠ざかる。

 二十分くらい歩いただろうか。目的のアルラッド・ベーカリーに到着した。洒落た看板は半透明のガラスで出来ていて、中で火を焚いて看板を光らせる工夫がしてある。

 依頼主は太ったパン屋の店主で、小麦粉まみれの棍棒を片手に店から出てきて笑顔を見せた。その足元には、五、六歳くらいの少年がまとわりついている。

「こんばんは」

 挨拶すると、少年がくりくりした茶色い目でヴィヴィアンをじっと見つめた。ちらりと彼に視線を送ってやると、彼は依頼主の後ろにさっと隠れた。

「よく来たね、ヴィヴィアン。さっそくとりかかってくれ」

「終了の目安は?」

「今夜の営業が終了するまで。あと三十分くらいかな」

 段取りよく話を進め、依頼書を読んで内容を確認する。太った依頼主の腰の辺りからひょっこり顔を出し、少年が再びヴィヴィアンを窺い始める。何でも屋の外套が、そんなに物珍しい格好なのだろうか。

「場所は庭と店周辺でいいですか?」

「助かるよ」

「報酬はいくらにしますか」

「銀貨二枚と明日の朝飯二人分で頼むよ」

 アルラッド・ベーカリーの朝食二人分は魅力的だとヴィヴィアンは思った。このパン屋は少し遠いので、ヴィヴィアンは朝方に歩いてパンを買いに行ったりはしないのだ。焼きたてのパンを温かいうちに食べる贅沢は、普段はナタリアが買ってきてくれたときに限定されている。

 今回はユキノに取りに行かせれば問題ない。ヴィヴィアンは依頼を快諾した。

「了解です。契約書にサインをお願いします」

 ヴィヴィアンとユキノをじっと見て、少年は父親の足にぎゅっと強く抱きついた。そんな様子を目で追っていると、また少年と目が合った。少年は何か決心したような顔でヴィヴィアンをじっと見つめる。

「ね、お兄ちゃんたち、強い?」

 囁くように少年は言った。ユキノがこちらを見る。ヴィヴィアンも彼と顔を見合わせて、首を捻った。この少年は、唐突に何を言い出すのだろう。

「たぶんな」

「じゃあ、魔物の王様倒せる?」

「何だそれ」

 今度こそ本当に意味がわからなかった。おとぎ話の登場人物か何かだろうか。それとも、王様級に大きい魔物なのだろうか。

 少年はユキノとヴィヴィアンをちらちらと見ながら、父親の足から少し離れて歩み寄ってくる。

「魔物は魔物の王様に操られてるんだ。王様がいなくなれば、また前みたいに戻るんだよ」

「そんな話、どこで聞いたんだ?」

 子供に合わせて屈み、彼の目を見ながらユキノがそう言っている。教会のシスターや、小学校の低学年を教えている先生のようだ。

「理科の先生が言ってた。『ませいぶつがくしゃ』って人たちが考えた『かせつ』なんだって」

 たどたどしくなれない単語を紡ぎながら少年がユキノを見上げる。不安げな表情だ。

 魔生物学者の仮説が飛び出してくる第一学年の授業というのも、なかなかあるものではない。この少年の理科の担任は、子供らに悪影響を与えているとヴィヴィアンは思った。『仮説』などと言われても意味が解らないから、子供はこうして仮説を信じきってしまう。

 ユキノは『そっかそっか』とあやすように少年の頭を撫でた。少年は子供扱いされたことが不服なのか、憮然とした顔でユキノを見上げていた。ヴィヴィアンはそろそろ仕事がしたくなったので、少年に歩み寄る。

「本当かどうかはまだわからないんだろ。その辺のことは学者に任せとけ」

「本当だったら、お兄ちゃんたち、魔物の王様倒せる?」

 真剣な澄んだ瞳がヴィヴィアンを見つめていた。濁りのないその琥珀色に、ヴィヴィアンはどう答えるか一瞬だけ迷った。

「……たぶんな」

 ここは子供を安心させておくのが得策だろう。泣かれたら面倒くさい。ヴィヴィアンはそう思い、軽く口許に笑みを浮かべた。

「よかった! ありがとうお兄ちゃん」

「まだ何もしてねえよ」

 ぼやくヴィヴィアンの声が聞こえたのか聞こえていないのか、飛び跳ねるように少年は駆け回る。そうして父親の周りをぐるぐる回っていたが、やがて怒られた。その様子を見てユキノが心底楽しそうにしている。

「ユキノ、さっさと仕事終わらせるぞ」

「はーい」

 頷いて明るい返答をしてくるユキノを連れて、ヴィヴィアンはパン屋の庭に入った。

 苔むした庭木にはつる性植物が絡みつき、鬱蒼としていていかにも魔物が出やすそうだった。子供が乗って遊んでいたと思われる木箱や、ままごとの道具が辺りにちらばっている。そのどれも朽ちかけていたし、洗濯用のロープにもつる草が絡まっている。ずいぶんと長い間、この庭には人が入っていないようだ。

「店が繁盛して忙しくなって、庭にあまり出なくなったらこのざまさ。魔物が怖いが、庭仕事をする時間なんてパン屋の営業が終わったあとだからもう日が沈んでいて。残った仕事を片付けてくるから、ここはよろしくたのむよ」

「あ、はい」

 ヴィヴィアンではなくユキノが返答し、サインされたことで契約書に変わった依頼書を受け取った。ヴィヴィアンはため息でもつきたい気分で、空中に青く輝く魔法陣を描き始める。

「ヴィヴィアン、何の魔法?」

「とりあえず光らせとく。魔物避けの照明」

 そう言ってユキノに黙っていろと合図すると、ヴィヴィアンは呪文を唱えた。魔法陣から白く輝く光が漏れ出し、そこを光源にあたりが明るくなった。眩しくはないが、持続してくれる照明だ。

 明るくなった庭を見てヴィヴィアンはため息をついた。これでは魔物も出るわけだ。

 見るからに陰気で暗く湿った庭なのだ、この状態を改善しないかぎり魔物は増え続けるだろう。

「すっげえ! なあヴィヴィアン、俺は何したらいい?」

「よし、とにかくこの陰気な庭何とかするぞ。氷の呪文、知ってたな? あれでこの辺の草とか邪魔なの凍らせろ。全部だ」

「え? あ、うん」

 ユキノが魔法をかけ始めて、辺りの温度がぐっと下がった。しかし、まだユキノが魔法をコントロールできていないので、冷気は暴走しかけている。物干し用ロープや子供の遊ぶおもちゃまでもが、真っ白な霜に覆われた。

「こんな感じ?」

「ああ、それでいい。目を閉じてろ、破片が入る」

 言われたとおり目を閉じるユキノの姿を確認し、ヴィヴィアンは外套の魔力を利用して高く跳び、生えている木を足場にしてパン屋の屋根に上った。そして、そこから呪文を唱え、強い風を吹かせた。

 凍らされた植物がぴきぴきと小さな音を立てながら舞い上がり、市内を流れる川の方へ飛んでいく。

「よいしょ、っと」

 屋根から飛び降り、音もなく着地する。ユキノが目を見開いて辺りを眺めていた。

「雑草なくなっちゃったけど、どういうこと?」

「凍らせてから風吹かせて、折った。どうだ、ちょっとは明るくなったろ」

 物干し用ロープも粉砕されて飛んでいってしまったが、元々使われていた形跡がなかったし大丈夫だろう。作業灯としてつけておいた魔法の照明はつけっぱなしにしておいて、ヴィヴィアンは辺りの木々の間に魔物がいるかどうかを確認する。

「よし、終りかな」

 魔物がいる気配もあまりない。三十分といわれた依頼時間は、そろそろ過ぎようとしている。ポケットの中の万年筆を取り出して、契約書へのサインの準備をしていると、背後の窓があいた。

「いやあ! すっかり綺麗になったね。ご苦労さん。これ、二人のために焼いておいたんだ。チップ代わりだよ、食べてくれ」

「あ、どうも」

 受け取ったパンは焼き立てで暖かい。刻んだサラミを生地に練りこんであるようで、空腹を呼び覚ます匂いがした。

「頂きます」

 ユキノは嬉しそうにパンを受け取ると、報酬を受け取ってから契約書を店主に渡した。店主の手の中で契約書の文面が領収書に変わっていく。

「お名前お願いします」

 楽しそうに名前を書く店主を見ながら、ユキノも楽しそうだ。ヴィヴィアンが渡した万年筆で自分の名前をサインし、領収書を店主に返すと、ユキノは丁寧に頭を下げた。

「それじゃ、失礼します」

 店主にそう言い、窓からちらちらのぞいている子供たちに手を振ってやると、子供たちはきゃあきゃあ騒ぎながら奥へ引っ込んでヴィヴィアンの様子を窺っている。なんだかなあと思いつつ、ヴィヴィアンはアルラッド・ベーカリーを後にした。

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