第十八話 家庭的な弟子
念願の弟子入りを果たしたユキノは、まだ高揚した気分で過ごしていた。誓約書には色々な注意事項が書いてあったが、ユキノの中では常識だったので本当に良かった。基本的にユキノは他人のプライベートを尊重するタイプだから、必要以上に干渉する気などは元からない。
ユキノは着物の袖を捲り、平紐をたすきがけにして留めた。暑いし動きにくいので裾をたくし上げて端折ると、股引のない足の見栄えがあまりよくなかった。客がきたらそのまま出て行けるように、黒の股引を穿いてみる。この股引は膝下までの長さに切ってある夏用のものだ。
紐を結ぶ時に帯が邪魔だったから、適当に緩めて紐を結ぶ。そうして着物をもう一度端折りなおし、ユキノは洗い物にとりかかった。
エンカンタリアでは七分丈や半ズボンに派手な色の靴下を穿くのが流行っているようだが、ヴィヴィアンはあまり流行を気にしていないように思えた。それでもユキノから見ると、ヴィヴィアンのセンスは割と良いのだ。
エストルはいかにも女性にもてそうなハイセンスな男だったが、ヴィヴィアンはさりげなくセンスが良いのだとユキノは思う。もしかしたらナタリアに世話を焼いてもらっているせいなのかもしれないと、ちらりと思う。
洗い物はすぐに終わった。ユキノはカーテンを空け、玄関扉に吊るされている小さなメッセージボードを裏返した。金色の豪奢な飾り文字で描かれた「Close」を「Open」にすると、魔法でもかかっているのか自動的に玄関扉が少し内側に開く。
この家は店としての仕様がほどこしてあるから、玄関扉が大きい。しかも両開きになっている。通りに面している壁には、窓も多い。家のカラーリングも爽やかで、濃緑と白が基調だ。
鉢に植わった観葉植物は干からびかけていたから、あとで水をやらなければ。折角こんなに良い家に住んでいるのだから、ヴィヴィアンはもう少し気を配ってこの綺麗さを保つべきだ。
ユキノは傘立ての傘を綺麗に巻きなおし、三本そろえて置いておく。
「ユキノー!」
振り返ると、真っ白な石畳をあの美人姉妹が歩いてくるのが見えた。ナタリアは大きくこちらに手を振っていて、ローザはライムグリーンのクロスがかけられたバスケットを持っている。
「さっきぶりー」
笑いながら言ってみると、二人は顔を見合わせて笑った。
「そうね、もうこんにちはかしら? ヴィヴィアンは中にいるの?」
「寝てる。客くるまで起こすなって」
「今回の私たちはお客さんじゃないわ。仕方ないわね」
少しふくれっ面になって二階を見上げ、長い金髪を優雅にかきあげるナタリア。ナタリアは最後に会ったときと違って、ホルターネックの白いワンピースだった。胸の大きいナタリアがホルターネックを着ると、なんだか更に胸が強調されるような気がする。
イリナギの女性にくらべたらエンカンタリアの女性は大胆だとユキノは思う。母国では、遊郭にいるような女性でもないかぎり夏でも胸元はきっちり閉じていたし、脚もすっかり着物で隠れているからだ。
「そうだ、届いた? 紙」
服装のことを考えていたら、着物のことを思い出した。着物の寸法を書いた紙はちゃんと届いたのだろうか。エストルは大丈夫だと言ったが、実際に届いているかどうかの確認をまだしていない。
ヴィヴィアンと違って、エストルは魔法陣を描くのに特別なペンを用いた。なんでも、そうしないと魔法が安定しないらしい。それでいて植物の魔法に限っては、まるで自分の一部のように自在に操る事ができるというから不思議だ。感激して褒めちぎったら、『植物なら負けないけど、それ以外じゃ何もヴィヴィアンに勝てないぜ』などとエストルは笑った。ちょっぴり悔しそうだった。
一般の魔道士はヴィヴィアンのようにさっと綺麗な魔法陣を描いて魔法を発動することができないらしい。だから、師匠は確かにたくさんの魔道士の中でも凄い部類に入るのだろうとユキノは改めて思った。
「ばっちりよ。長さの単位に苦戦したけど、お父さんに聞いたら全部解決したの。ね、ローザ」
「そうなの。ナタリア、もう作り始めようとしてるんだよ。色んな寸法が書いてあったでしょう? 女性用とか子供用とか、それから羽織りや袴まで」
にこりと微笑むローザに、ユキノも笑い返す。出会った頃に比べると、ローザはかなり笑顔を見せるようになった。打ち解けてくれたようで、なんだか嬉しい。
「よかった! 腹掛けくらいなら自分で作れるけど、着物となるとやったことがなくて。男物だったら身の丈ぴったりにあわせるから楽な気がするんだけど」
言ってみると、ナタリアは楽しそうに笑う。
「頑張るわ、任せてちょうだい! このワンピースだって私が作ったんだもの」
「すげえ! 相当凄い腕だなそれ、既製品かと思ってた」
普通に仕立て屋が作ったのだと思っていた。素直に感想を述べれば、ナタリアは嬉しそうにした。
ユキノから見れば、ナタリアはかなり凄い女の子だ。イリナギの料理だってすぐに覚え、こうして服だってつくるし、掃除や洗濯もできる。それに、見ず知らずのユキノのことを親身に考えてくれた数少ない人でもあるのだ。
「私、将来自分で作った服を売って暮らすつもりなの。着物もレパートリーにいれるわ」
飾らないところがナタリアの良さだとユキノは思う。何でもできるくせに奢らず、褒められたら素直に喜ぶのは良いことだ。つつみ隠す奥ゆかしさも確かに必要だとは思うが、こうしてストレートに感情表現をしてくれると非常に付き合いやすい。
「応援してる。着物は女物だと脇閉じたりして少し形が違うから、詳しい作り方はまた機会があったらイリナギの人に聞いとくよ。男物を作ってくれたら俺が買いに行くから。あ、勿論今回もただ働きはさせないからな。布は高価だし」
「あら、いいのよ。私だってまだ研究段階だもの」
「大丈夫、俺も何でも屋だから! 俺が稼いだ分は俺が使って良いってヴィヴィアン言ってたし」
「もうすっかり弟子じゃない! よかったわねっ」
ナタリアは感激したようにユキノの両手を取り、はじけるような笑顔を浮かべる。彼女のスキンシップは少々過剰だが、不思議なものでたった一日でこれが普通だと思えてしまう自分がいる。抱きつかれた時には流石に動揺したが、ヴィヴィアンだってやられていたので他意は全くないと解っていた。
彼女はたぶん、言葉で表現するのがもどかしいほどの感情を抱えて生きているのだ。ダンスや演劇などのパフォーマンスをやらせてみたら、誰よりも輝くことは間違いない。
「ね、ねえっ」
何だか必死そうに呼ばれ、振り向くとローザが困ったようにナタリアを見ていた。
「ナタリア、目的忘れてるよ! 帰ってお父さんを手伝わなきゃ」
「あら。そうよ、私たち届け物をしにきたのよね」
ふわりとユキノから離れ、ナタリアはローザに愛らしい笑みを投げかける。そして、彼女の背中を軽く叩いた。押されるように一歩前に進み出たローザは、何を言うのか少し逡巡したらしかったが、手に持っていた大きなバスケットの取っ手を両手で持ってユキノに差し出す。
「これ、届けにきたの」
「何これ?」
訊ねると、ローザはバスケットに目を落とす。かけられたクロスの間から艶やかな果実が見えた。あれは桃だろうか。
「お父さんがお礼にって。冷蔵庫は無事だったの。メロンとキウイ、あと何だったかな」
「クランベリージャム。はちみつ。桃も入ってるわ。オレンジもいくつか入れておいたはずよ。そうそう、お砂糖も一袋」
何だかとてもデザートに向きそうな果実ばかりつまっているらしいバスケットを手渡されるが、ユキノはどうしていいか解らなくて困った。
「えっ、いいのかよ? お代もう貰っただろ?」
「私たちに血の結界を使ったり、お父さんの傷を治したりしたのは依頼に含まれてたことじゃないよ。それに、ヴィヴィアンはどうせいつも不健康な食生活をしてるから、フルーツを摂って少し栄養をつけろってお父さんが言ってたの。それと、ユキノさんのこともね」
え、と思わず呟くと、ローザはユキノを真っ直ぐに見上げた。
「ユキノさんもかなり痩せてるから、あんまり食べてないんじゃないかって心配してたよ。治してくれてありがとう、また塾にも遊びにおいで、って伝えて来いって言われたの」
こんな風に誰かから感謝されたことなど、ユキノにはあまりなかった。何の反応もできずに固まっていると、ローザが不思議そうな顔でナタリアを見やる。ナタリアが何か言おうとしたので、ユキノはその前に口を開く。
「初めて。家族以外の大人にこんなこと言ってもらえたの」
「……ユキノ」
「食事の心配も感謝もされたことなかったから。なんか、すげー嬉しい」
微笑が浮かぶのを押さえられなかった。他人に認めてもらえるのは無上の喜びだ。それは否定され続けることに慣れていた心に、暖かい雨のように染み入ってくる。そうして、また頑張ろうと思える力をくれる。
エンカンタリアにもユキノを薄気味悪そうに見る人間がいないわけではない。だが、ヴィヴィアンの周囲の人間は誰もユキノに敵意を向けなかった。
ヴィヴィアンの周りにいる人は、皆優しくて親切だ。そしてヴィヴィアンだって、とても遠まわしな(きっと皆には気づかれないような)さりげない優しさを持っている。
きっと皆、愛されて育ったのだろうとユキノは思う。それはとても嬉しく、微笑ましいことだった。
「あたし、ユキノのそういうところ大好きよ。素直で優しくて、ほんとうに些細なことで喜べるじゃない」
「ありがと! でもそういう言葉は、将来一緒に店を持ってくれる男のためにとっとけよ」
他意はないと解っていたが、言われなれていない優しい言葉にほんの少しだけ戸惑っていた。故郷のイリナギの女性は友愛の表現どころか恋い慕う相手にすらこんな直球を使わないから、ユキノはこんな風に直球で好きだと言われたことなどなかった。
しかし、照れ隠しだってナタリアにかかれば、
「あら、洒落たこというじゃない!」
こんな風に、前向きな印象に変わってしまう。彼女はとてもポジティブで、一緒にいて楽しい。ユキノはナタリアと笑い合う。
ナタリアと話していると、何だか前からずっと友達だったような気がしてくる。ローザは話しかけるたびに少しずつ自分への警戒を解いてくれるのが解るので嬉しい。アイアランドの姉妹は、二人ともかなり好感を持てる。
「ありがとな、ローザ。これ重かっただろ」
バスケットを指して言えば、ローザは首を横に振る。
「途中までナタリアに持ってきてもらったの」
「そうなのか? ナタリアもありがとな、長旅ご苦労さん」
言ってやればナタリアは嬉しそうに頷いた。ローザはちらりと街の中心の時計塔を見やり、申し訳なさそうな表情をする。
「私たち、そろそろ戻るね。まだ話していたいけど、復旧が終わってないの。お昼に間に合うようにって、お使いで」
「ああ、じゃあ俺も手伝うよ」
本当に何気なくそう言ったのだが、ナタリアがユキノの肩をばしりと叩いた。
「痛っ!?」
「駄目よ。あんたは師匠のいうことをきいてちゃんと留守番してなさい。いいつけを守らなかったら、折角弟子にしてもらえたのが台無しよ!」
「うわー、うかつだった。じゃ、ヴィヴィアンが起きたら一緒に行く」
「助かるわ、作業は難航してるの。夜までには何とかしたいから、もしかしたら依頼にくるかもしれないわ」
長い金髪に右手の指を通しながら、ナタリアは微笑む。ローザはその隣で少しだけ嬉しそうに頷いていた。
「わかった。二人とも、気をつけて帰れよ」
「ええ、ありがとう! ヴィヴィアンによろしくね」
肩越しに振り返りながら手を振る彼女はとても美しかった。本当にナタリアは、嫌味のない魅力を持った女の子だ。男をとりこにする力はきっと誰よりもあるが、魔性と呼ぶには明るすぎる魅力だと思う。計算のにおいも感じない。
だからこそ、すっきりとした友愛的な好感がもてるのだとユキノは思う。媚びる女性は昔から苦手だ。
「さよならユキノさん」
「ばいばい、ローザ。また来てくれよ」
ローザもユキノに手を振って、姉の後を追いかけていった。ナタリアほど鮮やかな魅力はないにしろ、ローザも地味に可愛らしい。確かにナタリアに比べたら非常に素朴ではあるが、繊細で優しげな顔立ちや小柄な体格はかなり好印象だとユキノは思っている。
ライムグリーンの瞳に眩い金髪という点では、ナタリアもローザも同じだ。ただナタリアの方が目立っているだけで、ローザが可愛くないかといったらそうではない。
「なんか、良いもの貰っちゃったなあ」
二人が見えなくなるまで見送ってから店に入り、バスケットの中身を移そうと冷却魔法がかけられた箱を覗く。中にリンゴがひとつ入っているのをみつけ、ユキノは微笑した。師匠の好物がひとつわかった。
依頼書を整理しながら、窓を拭く。持ってきていた布を使って、前掛けをつくってみる。それから観葉植物の位置を少し直し、食器棚の中身を整頓する。無地の前掛けが気になって店名の刺繍をしてみた。そんな些細な家事や私事をしているうちに、もう昼の鐘がなった。
「起こすなって言われたけどなぁ……」
欠食はよくない。午後には依頼がたくさんくるだろうし、現に山積みなのだ。体力をつけておかないと、魔物の群れの真ん中で倒れることもあり得る。
米はまだ残っているので、ちょっと質素になってしまうが一応食事を作る事が出来る。質素でも食べられさえすれば良いと思うが、やはり買い物に行きたい。そう考えてから、今この街が壊滅的な状況になっていることを思い出した。
考えてみれば、このリリエンソール家は異常なのだ。一般の人々は甚大な被害を受けているのに、魔法に守られているおかげでここだけはまったくの無傷なのだから。庭ですら荒らされた様子がない。すぐ隣の花屋はひっそりと静まり返っていたし、向かいの酒屋も今日は営業を停止しているようなのに。
壊滅した街のことを考えながら、何気なく玄関を出て依頼受けを覗く。
「あっ、依頼増えてる!」
箱の中には五通ほど依頼書が入っていた。それらはすべて復旧手伝いの依頼だ。
「起こしたほうが良いよなぁ」
少し逡巡していると、背後に人が立つ気配がした。さっと振り返ると、東方系の痩せた男が微笑を浮かべて立っていた。外見でいうと三十代くらいに見える。あまり血色が良くなく、眉毛も目も細い。この人は客なのだろうか?
「いらっしゃいませ! ご依頼ですか?」
心持ち緊張しつつも訊ねてみると、男は頷いた。
「ええ、ちょっとね。お手伝いしていただきたいんですよ」
黒に近い灰色の髪をオールバックにした男は、人種的に見てまず間違いなく東の出身だろう。しかし、東国は東国でもユキノのいるイリナギとはまた少し違った感じだ。
彼が着ている鮮やかな青の詰襟の上着は、腿辺りまでの長めのものだ。腰の辺りにスリットが入っている。おそらく、隣国であるリェンホアの出身だろう。
「師匠を起こしてきます! 上がって待っていて下さい、お客様!」
ユキノは男を店に上げると、全速力で階段を上った。