第十三話 白む街
衰弱したウィルフレッドを支えながら、ようやく二階の書斎にたどり着いた。この部屋は多少荒れていたが魔物の気配はなく、ドアもしっかりついていた。ここにいた魔物たちは、ここに食物にできる人間がいないことに早めに気づいて、荒らすのをやめて出て来たのだろう。
ドアを閉め、内側から内部を守るための魔法陣を描く。筆記に使えるほどの魔力が残っていないので、書斎の暖炉にあった炭を持ってきて円を完成させていく。
「ユキノ、魔法」
「ディルゾルヴィエ!」
ユキノは物覚えがいいのか、呪文も手順も忘れていなかった。魔法陣は青白く輝き、ドアに焦げ付く。これであと五時間、ここはとりあえず安全だと言える場所になった。
「凄い凄い、俺凄い! 見た? ヴィヴィアン今の見た?」
「煩いお前少しは黙ってられないのか」
「……ごめん」
ドアに背中を預け、ずるずると座り込む。ウィルフレッドを書斎の椅子に座らせて、ユキノもヴィヴィアンの隣に来る。
「早く朝にならないかな」
呟くユキノは、膝を抱えて伏し目になっている。彼の身体はまた獣の血で汚れ、着物の袖が少し破けているように見えた。あとでナタリアかローザに頼んで縫ってもらえばいいだろう。
「悪い、俺ちょっと寝る」
「うん。日昇ったら起こす」
特に何を憂うこともなく、ヴィヴィアンは膝頭に頭を乗せて目を閉じる。すぐに睡魔が襲ってきた。まどろむ意識の中でウィルフレッドとユキノが何かを話している声が聞こえた気がしたが、内容を聞く気力すらヴィヴィアンには残っていなかった。
数分後に少し顔を上げる。ほんの僅かな間だけは意識が完全に落ちていたが、伏せていた時間を三分と仮定した場合、二分くらいは意識を保っていたと思う。
「あ、起きた? ヴィヴィアン、そろそろ日昇りそう」
「え?」
「良く寝てたよ。突っついても起きなかった」
そうなのかと納得する。確かに窓の外の空は白み始めていたし、寝ていた時間なんてそもそも自分に正確に解るはずはないのだ。
寝ていた時間は一分くらいに感じていたから、寝足りないと思った。けれどもう夜明けだ、早くナタリアたちに会いに行かなければ。
窓の近くに歩み寄る。無理な体勢で寝ていたため、背中や首が痛かった。ウィルフレッドは机に突っ伏して眠っているようで、近づいても顔を上げない。
そうして本当に何気なく窓辺に立って下を見下ろした時、ヴィヴィアンは背筋を凍らされた気がした。
「ユキノ、お前外見たか」
「え?」
駆け寄ってくるユキノに、塾の前の石畳を指差した。無残な死骸が転がっていた。それも、魔物のものではない。建物の二階なんて高さが知れている。顔まできちんとみえた。はらわたを引きずり出され、石畳を血に染め、その死骸はどうやったとしても生き返らないだろうと思えるほどに引き裂かれていた。
あの残骸のような死体は街の配管工だ。ユキノと初めて会った日に、依頼をうけたあの男だ。遅くまで真面目に仕事をし、地下水路を整備していたおかげでこんな惨事に巻き込まれたのだろう。
「う」
ユキノは口許を覆って後退り、壁に手をついて身体を支える。
「他にこういうことが起こってない保障はない」
知らず、乾いた声が出た。
「って、じゃあ」
「この街ももう危ない。今日はおそらく学校という学校が全部休校だ。通りを人が歩かなくなる。昼間のうちに依頼がどっさりくるぞ、魔物倒してくれって」
きっとその通りになるだろうと、確信していた。煙突掃除を手伝って欲しいとか売り子をやってほしいなんて依頼はきっと来ないだろう。少なくとも今日から一週間くらいは。
「どうすんの?」
「助っ人呼ぶしかないなこれ」
ウィルフレッドの寝ている机をちらりと見ると、手紙に使う便箋が置いてあるのが見えた。汚れてぼろぼろになったものならきっと許可をくれるだろう。一枚拝借して、ついでに机の万年筆も拝借してヴィヴィアンは手紙を書いた。
「手紙?」
「そう。あいつに届ける」
書きあがった手紙を紙飛行機の形に折り、翼の部分に小さく魔法陣を書きこんで呪文を記す。仕上げに小さく息を吹きかけると、それだけで飛行機は飛んでいった。窓は開いていなかったが、壁をすりぬけて飛行機は上空を舞っていく。
「無事かな」
ナタリアやローザの次に心配な奴である。彼は一応男ではあるものの、そんなに筋力はないのだ。運動神経は悪くないが、小柄でひょろりとしているのでどうにも弱そうに見えて仕方ない。
彼もナタリアたちと同様に学生時代の友人で、入学して以来ずっと同じクラスだった。あてはあともう一人いるが、彼は彼で最近色々と忙しいらしい。
学生時代の友人であるロジェ=ティエールは、街の中心に近いところに住んでいる。彼が無事でなかったら、市街は壊滅していると考えていいだろう。
ロジェには魔力を込めた紙を渡してある。それを紙飛行機にすれば、魔道士ではないロジェでもすぐに返事をできるはずだ。やられていなければいいと思うが、心配だ。
「その助っ人って魔道士?」
「いや、一般市民。っていうか、むしろ魔法と反対方向にいる奴」
「へえー…… 魔道士じゃない人も普通にいるんだな。イリナギみたいに」
「まあな。全員が魔道士って訳じゃなくて、このメルチスの街も半分くらい一般人だから」
ロジェには一昨日会ったが、また奇妙な発明をしていた。彼は魔法に頼らずに生活を良くしていくことを目標に、常に常識はずれな発明をしているのである。いや、常識はずれだから発明なのか。
「あ! ヴィヴィアン、飛行機帰ってきちゃったけど? 届かなかったのかな」
「違う、それはあいつからの」
目の前に落ちようとした飛行機をすっと掴み取り、ヴィヴィアンは雑に折られた飛行機を開いて内容を読む。ロジェらしい軽い文字で無事を知らせる言葉が書いてあった。
ただ、街の中心でも魔物の被害はあったらしい。あの辺りは商店のショーウィンドウでもないかぎり割れやすい窓はないので、夜道を歩いていた通行人がターゲットになったようだ。
「手伝ってくれるって?」
「策は考えておいてくれたって。前々から俺と提携する気はあったらしいからな」
「そっか、よかった。じゃ、ナタリアたちのところ行こ」
「ああ」
返ってきた手紙を適当に折りたたんでポケットに入れた。街の中心の時計塔に、十時に集合したいと彼の手紙には書いてある。それまでの間に、一体どれくらい眠っていられるのか。
空はもう明るくなっていて、鳥のさえずりが聞こえ出していた。残酷なほどに穏やかな朝だ。
二人の部屋の前に来た。呪文を唱えながら指で魔法陣をなぞる。焦げ付いていた魔法陣が炭のかけらのようにぼろぼろと落ち、魔法陣はあとかたもなく消え去った。とたんにはりつめていた魔力が一気にほどけ、ヴィヴィアンは深い安堵と疲弊を感じた。
ヴィヴィアンに代わってユキノがドアを開けると、ベッドの上に座った姿勢で俯いているナタリアが見えた。
「おい、終わったけど」
一応声をかけてみるが、彼女は眠っているようで反応しない。小さくため息をついて顔を上げると、窓のそばからローザが駆け寄ってくる。
「ヴィヴィアン、おつかれさま。怪我は?」
「大丈夫。お前らの方は無事か」
「うん、おかげで」
満面の笑みで頷いてくれたローザを見てほっとした。ちゃんと守ってやれたのだと思うと、一気に肩の力が抜けた気がした。ユキノのところへ行ったローザの背中を見て、ヴィヴィアンはもう一度ナタリアを見下ろす。
こんな寝方をしていては、きっと起きた時に体中が痛くなるだろう。ヴィヴィアンは俯いて座ったままの姿勢で寝ているナタリアの肩を揺する。
「おい、起きろ」
彼女の反応は鈍い。何事か呟いているように聞こえたがすぐに声は聞こえなくなり、彼女はどんどん前かがみになっていく。このままではベッドから落ちることも考えられる。
「起きろってば」
更に揺すると若干嫌そうにされたので、大きくため息をついてやる。
「……ったく」
ヴィヴィアンとユキノが大変な思いをしているときに、彼女は寝ていたのか。そうも思うけれど、魔物だらけの家でも安心して眠れるほどヴィヴィアンの施錠魔法を信頼してくれたということは嬉しいことだ。
「ユキノさん、大丈夫?」
「ああ、平気。傷は浅いからなんともない」
「あの、消毒液あるよ。化膿したら大変だから、消毒するね」
「じゃあお願い。ごめんね」
背後で二人のそんな会話が聞こえる。ヴィヴィアンは苦笑しながらナタリアの身体を自分の腕にもたれさせ、もう起こそうとはしないでベッドに寝かせてやった。ナタリアは熟睡しているようで、少し身体の向きを変えてまた動かなくなる。
「ふう……」
依頼人はナタリアとローザなので、遂行したことを二人に報告しなければならない。ローザだけに報告しても意味はないのだ。
ということで、ナタリアが起きるのを待つしかない。報酬の話もそれからだ。知り合いだから大金を巻き上げるつもりはないが、それでも今日からの生活費は普段の倍かかるのだ。
「いだだだだっ!」
「ユキノさん動かないで! 余計沁みるよっ」
向こうの方からユキノの叫びとローザの慌てた声が聞こえてくる。傷口の消毒をしているようだが、かなりの荒療治になっているらしい。それもそうだとヴィヴィアンは思う。ローザは人の血が極端に駄目なので、消毒するときにはいつも手が震えているのだ。
「……ごめんなさい」
「いいよ別に。ありがと」
よほど痛かったのだろう、ユキノはちょっと目を潤ませていた。肌蹴ていた着物を整え、彼は少しよろけながら歩いてくる。
「ナタリアは?」
「寝てる。こいつ、一旦爆睡したら何が起こっても起きないぞ」
こうやって眠っていれば、ただの綺麗な女の子なのに。普段のナタリアは、そりゃあもちろん女の子らしいところもあるけれど、男勝りで勝気な破天荒娘なのだ。とにかく彼女は綺麗なだけではなくかなり行動派で、だからこそ一緒にいて疲れるけれど楽しい。
「ローザはちゃんと寝たのか?」
「ううん。怖くて眠れなかった」
「まあローザに比べたらこいつ神経図太いからな」
ローザは困ったように笑う。別に本心から言った言葉ではないが、ナタリアが起きているときにこんなことは流石に言おうと思えない。
「何ですってヴィヴィアン?」
「え」
「全部聞いてたわよ。あたしだって一睡もしてないわ」
背筋をつめたいものが伝う。ナタリアは起き上がり、乱れた金髪を手櫛で整えながら小さく欠伸している。
まずい。
そう思ってそろりそろりとベッドの端へ移動し、立ち上がってナタリアから離れようとした瞬間に背中に強烈な平手を食らった。つんのめって壁に手をつき、何とか転倒を免れる。
「っ! お前、命の恩人に対してそれ?」
「ひどい」
振り向きざまに言えば、ベッドに座った姿勢でナタリアはヴィヴィアンを睨みつけていた。よく見ると、ちょっと赤い目をしている。泣かせてしまったのだろうか。
「今のはヴィヴィアンが悪いよ」
ナタリアとヴィヴィアンを交互に見比べながらローザが言った。それは十分自覚していたから、ヴィヴィアンは真摯に頷いてナタリアに歩み寄って彼女を見下ろす。
「あー、あのな? 悪い。別に本気で言ったわけじゃ」
「心配していないわけないでしょ」
つめたく切り替えされて若干たじろいだものの、ここで言葉を止めたら誠意が相手に伝わらない。
「ごめん」
「……やけに素直じゃない、ヴィヴィアン。どうしたのよ」
「ちょっとデリカシーなかった」
きょとんとして首をかしげるナタリアに、内心でため息をつく。
謝るとナタリアはすぐに機嫌を良くして、座ったまま身を乗り出してヴィヴィアンの手に触れた。そして、呪文をかけるときに切った右の親指を、細い指で優しくなでた。
「ありがと。指、こんなに深く切ったのね? あとでガーゼ巻いてあげるわ」
「いい。ほっとけば治る。お前いつもいろんなことが大げさ」
ナタリアには魔力は無いが、それなりに魔法の知識はある。ヴィヴィアンの描いた魔法陣でなら、軽い魔法を発動することもできる。
だから彼女は、ヴィヴィアンが使った魔法がどういうものかはちゃんと理解していたらしい。事実、ナタリアはヴィヴィアンの指を見て『切られたのか』とは言わなかった。
小さく嘆息する。ただの破天荒娘に見えるナタリアも、実は結構思慮深くて優しい。表現が大げさなだけで、やっぱり彼女も根底では普通の女の子だ。