第十一話 防衛本能
商店街の明かりが見えてくるころには、懐の時計が十時二十分をさしていた。依頼主がアイアランドの姉妹ではなかったら、ヴィヴィアンは全速力で走っただろう。しかし、あの姉妹はヴィヴィアンのルーズさをわかっている。一応ちゃんと報酬を貰う仕事なのだが、別に急がなくてもいいだろう。とはいえ……
「やっぱ、ちょっと急ごう」
いくら急がなくていい相手だといえども、魔物の存在に怯えながら待っているのは二人の女の子だ。二人とも魔物に対抗できそうにないし、こうしている今も街中を魔物が徘徊している。二人が魔物に襲われている可能性だって、ゼロではないのだ。
「うん。なんか心配だな…… さっきから何か獣の臭いが消えないんだよ。さっき魔物いっぱい倒したからとかそういうんじゃなくて、先に進むに連れて臭いが濃くなってる気がするっていうか」
「おいバカ、それ先に言え。早くあいつらの無事確かめないと」
二十分遅刻した、そのせいで二人の命が奪われていた。そんなことになったら困る。彼女らはヴィヴィアンの数少ない友人で、面倒くさいと思いつつもほぼ毎日顔をあわせている仲間なのだ。魔物になんかくれてやりたくはない。ヴィヴィアンは石畳を蹴り、足音を響かせないように注意しながら走った。ユキノが後からついてきた。
二人でアイアランド家の門をくぐったのはそれから三分後のことだった。いつも塾生の騒がしい声が聞こえているアイアランド家は、今夜は不気味なほど静かだ。それが余計に不安を煽った。
「ナタリア、ローザ?」
ドアをノックしながら声を上げる。しばらく待ってみても二人は来なかった。不安げな顔をしたユキノと目が合う。もう一度ノックしてみた。
「げほ、げほっ…… 誰かね」
背筋が凍る思いで、ヴィヴィアンはその男の声を聞いていた。
よく知っている。彼はナタリアとローザの父親で、ここの塾で講師をしているのだ。ウィルフレッド=アイアランドは、いつも凛とした声で朗々と数式の説明をしている。その彼が、どうしてこんな苦しげな声を上げるのか。
「ヴィヴィアンです。どうしたんですかウィル先生? ナタリアとローザは?」
「お入り」
焦るヴィヴィアンだが、向こうは幾分か落ち着いていた。ドアが開き、有無を言わさず引っ張りこまれた。ユキノが慌ててついてきて、彼の背後で大きな音を立ててドアが閉まる。
屋内は真っ暗で、人の気配も火の気配もなかった。ユキノの言うとおり、魔物の臭いはどんどん濃くなっていた。ウィルフレッドは鉛色の燭台を片手に、神妙そうな面持ちで辺りの闇を睨んでいる。
ちらりとユキノの方を見てみると、彼はかなり居づらそうにしていた。やがて意を決したのか、ユキノはそろりそろりとヴィヴィアンの影から出てくる。
「あ、あの。おじゃまします、じゃない、してます。さっき、言わなかったから……」
おずおずと声を上げたユキノに、ウィルフレッドが即座に反応する。
「何だね君は」
「うわ、ちょっと待ってくださいっ」
懐に手をやったウィルフレッドを、ヴィヴィアンは慌ててとめた。ウィルフレッドの懐に入っているのは、いつだって綺麗に磨かれたナイフなのだ。封筒を開けるときに使ったり、紙を切るときに使うのが主なのだが、明らかに殺傷力がありそうな長さのナイフなのである。そんな物騒なものを出されては困る。
「俺の弟子です。彼には構わないで下さい。それより、二人はどこですか」
困ったようにヴィヴィアンとウィルフレッドを交互に見ているユキノから目をそらし、ウィルフレッドは上のほうを指差した。
「二人は二階にいる。私が出るなと言った。だが、もう奴らはあの子達を見つけるだろう。そうしたら、おしまいだ」
見れば、ウィルフレッドの上着はぼろぼろになっていた。いたるところに引っかき傷があり、くすんだ金髪には斑模様に血痕がついている。濃くなっていた魔物の臭いの元凶は、この空間とウィルフレッドにあるのだとヴィヴィアンは今になってようやく気づいた。
「何があったんですか」
彼は顔を上げ、ぼそぼそと語り始めた。
「……まったく、いつもどおりに答案を見ていたんだ」
今日はヴィヴィアンが来ることを知っていたため、ウィルフレッドは塾生を早めに帰して塾を空っぽにしていた。食事を終えたナタリアとローザは二階の寝室で二人で話をしていたから、ヴィヴィアンが到着したところで呼びに行こうと思って彼は一階でテストの採点をしていたという。彼はいつもそうだ。塾は朝から開いているから、始まるまでの間に答案を頑張って採点している。
しばらくして、どこかの窓が割れる音を彼は聞いた。とっさに二階へ駆け上がり、ナタリアとローザの部屋のドアの前にありあわせのバリケードを作ったところで、ウィルフレッドは背後から魔物に襲われた。それを合図に、たくさんの魔物が闇の中から出てき始めた。
二人に出てくるなと叫んで魔物を一階まで誘導し、持っていたナイフを使って滅多刺しにしたがほとんど効果はなく、前にヴィヴィアンが預けておいた小さな銃で撃ってようやく一匹しとめたらしい。そこで、ヴィヴィアンが到着したという流れだ。
「君の銃がなかったら、私は死んでいたね」
こざっぱりしたいつもの学習塾はすでになく、いつも綺麗に片付いている教室には机や椅子が乱雑に散らばっていた。教室と自宅を結ぶドアは外れていて、蝶番もねじごと床に落ちていた。改めて酷い状況だと思い知る。
「あの銃には魔法で強化した弾丸を入れてありました。当たれば必ずしとめられるはずです。まだいるんですか、魔物」
「恐らくな…… 私のことは構わん、二人の様子を見に行ってくれないかね? もう階段を上がるのが辛い」
頷き、ウィルフレッドの近くに火の玉を出現させる魔法をかけた。明るくしておけば多少は魔物が近寄りにくくなるだろう。ヴィヴィアンもナタリアとローザが心配だったから、ユキノを手招いて二階へ続く階段を駆け上った。
ウィルフレッドの言うとおり、ひとつだけ書棚や机などでつくったバリケードで閉鎖された部屋があるのが見えた。逆さに置かれた椅子の間から手を通し、ドアをノックしてみる。
「ナタリア、ローザ」
声をかけると、すぐ反応があった。部屋の中を走ってくる足音がする。ほっとした。
「ヴィヴィアン、来てくれたのね! 遅いじゃない! お父さんは? ねえ、お父さんは大丈夫なの?」
ナタリアが向こうからドアを開けようとしているらしく、バリケードが軋んだ音を立てた。崩れてきそうで怖いので、その前に崩してしまうことにした。椅子に手をかけながら、ユキノにちらりと目配せする。意図を汲み取ったらしいユキノは、ヴィヴィアンがバリケードを崩すのを手伝ってくれる。
「無事だから安心しろ。何かあればユキノが守る」
「まかしとけ!」
ユキノは嬉しそうだった。二人が無事なのが嬉しいのか、ヴィヴィアンが仕事を任せたことが嬉しかったのかは解らない。
二人でバリケードを崩す。大きな書棚を力いっぱい押して動かすと、ようやくドアが開けられるようになった。ドアを開けてみると、大きな家具がそこらじゅうに散乱していた。ナタリアとローザも内側からバリケードを作っていたらしい。
「ごめん、待たせた」
言いながら部屋に入ると、入るなりすぐにナタリアに抱きつかれた。よろけて倒れそうになったが、背後のドアに寄りかかったおかげでなんとかバランスを保つことができた。ローザはその場に座り込んだ姿勢でヴィヴィアンを見上げていて、ユキノがそんなローザに手を貸していた。良かった、二人とも無事だ。
「もう、終りかと思ったわ」
いつもの無駄な元気さはどこへ行ったか、やけにしおらしいナタリアに今更ながら女の子らしさを感じた。しかし、今は一刻も早く一階に戻らなければ。
彼女の両肩を掴み、驚いたように顔を上げた彼女を見下ろして小さく嘆息する。いい加減、すぐ抱きつく癖をなおして欲しい。
「とりあえず離れろ。ウィル先生のとこ行かないと」
ナタリアから離れ、ユキノに助け起こされたローザを見下ろす。
「どっか痛い? 怪我してるなら魔法で治すけど」
「っ、違う…… 怖くて、動けなかったの」
「そっか。もう平気だから」
彼女の腕を掴んで支えてやりながら、ベッドのところまで連れて行ってやった。ローザは激しく肩で息をしながら、まだ恐怖に震えているようだった。
「ナタリア、ローザ頼んだ」
ベッドサイドから出口に向かって歩きながら、ナタリアに声をかける。
「言われなくても解ってるわよ、大事な妹だもの。あたしたちはここにいればいいのよね?」
「ああ。念のため、ここ出たらすぐ施錠魔法使うからな。外出られなくなるけどいいか?」
「いいわ。忘れないで助けに来てくれるならね」
ドア付近にいたナタリアと確認しあい、ユキノの袖を軽く引いた。ユキノは軽く頷き、先に階段を降りていった。部屋のドアを開けて出て行こうとすると、ローザに呼び止められた。
「ヴィヴィアン…… ありがとう」
震えるような声だった。一瞬対応に困った。下手なことを言ったら、泣かせてしまいそうな気がした。
ベッドに座ったローザの肩を抱き、ナタリアはちらりとこちらを向く。なぜか自然と、ヴィヴィアンは口を開いていた。
「お前らが生きてて、本当に良かった」
……何を言っているんだ自分。
勿論これは本心だったが、口にしてみるとちょっと照れくさかった。ぽかんとするナタリアと顔を赤くしたローザをに背を向けて、ヴィヴィアンはそそくさとドアを閉めて施錠の魔法陣を指先でドアに描いた。目の前のドアに鍵をすることだけを考え、集中して魔法陣に呪文を書き入れる。
「我が血をもって契る。如何なる者も断じて入れてはならない」
呟き、古代語の呪文を唱える。呪文を唱え終えると、ヴィヴィアンはポケットに入れていたペーパーナイフで左手の親指を少し切り、染み出てきた血を魔法陣の中央に擦り付けた。魔法陣の全体が燃えるように赤く輝き、やがてドアに黒く焦げ付いて離れなくなった。これで魔法はかけ終わった。
これはかなり強力な施錠魔術の一つだ。この辺りにすむ魔物や魔道士では到底開けられはしない強さで、この魔法はナタリアとローザの無事を保障している。
血を使うということは、術者の命を賭けるということだ。あの魔法がもし破られるようなことがあったら、その瞬間からヴィヴィアンは二度と次の息を吸えなくなるだろう。それでも、そんな危険な魔法を使ってでも、ヴィヴィアンは確実に二人を無傷で護りたかった。
「……なんでだろ」
そこまで二人にこだわる理由は上手く思いつかない。理屈ではなく感情で、ヴィヴィアンはただ護りたいと思っていた。損得も面倒臭さも、関係なく。
階段を駆け下り、ヴィヴィアンが作った明かりの傍にいるウィルフレッドの元へ急いだ。既にウィルフレッドの隣には、ユキノがいるようだった。ヴィヴィアンがそこへ到着すると火の玉はふわりと消えて、蝋燭の寂しい明かりだけが辺りを照らすようになる。
「歩けますか、ウィル先生」
「いや、無理だ。日の出を待って、魔物が居なくなってから病院へ行くよ」
力なく笑うウィルフレッドの肩や右ひざから、血が出ているのが解った。急いで何とかしなければ。蝋燭がどんどん短くなってきているし、ここは安全地帯ではないのだ。
「だめだ、既に魔物は家ん中にいる。さっきから、俺らのことずっと狙ってるのが解るから」
全くユキノの言うとおりだった。少し耳を澄ませば、ウィルフレッドの荒い呼吸に交じって獣のかすかな唸りも聞こえる。安全でないどころか、この場所は明らかに危険だった。
「とにかく、蝋燭欲しいですね」
「ああ、あるかね?」
「はい…… 一応持ってると思います」
ポケットの中に入れていた蝋燭を出してみた。本来なら手首から中指の先の長さぐらいあるはずの蝋燭は、半分ぐらいの長さでほぼ真っ二つに折れていた。だが、無いよりはましだろうと思ってウィルフレッドに渡す。
ユキノはしばらく闘志をこめた目であたりを睨みつけていたが、ふいにいつもの表情に戻ってこちらを向いた。
「って、ちょっとまった。俺ら今からここで戦うのかよ? 机とか傷だらけにしちゃうって」
「面倒臭いから、それは後で考える。とにかくウィル先生をどこかに隠さないと」
ウィルフレッドに、先ほど使ったという銃の所在を聞く。魔物ともみ合った時にどこかへやってしまったというので、魔力の弾丸を使って手軽に魔物を倒すのは諦めた。
何匹ぐらいの魔物がいるのかも解らない。ざっと二十くらいはいるだろうが、もっと潜んでいたりしたら厄介だ。それに、低級な魔物ならいいが、稀にいる知能の高い厄介な魔物がたくさんいたりしたら命が危うい。
手っ取り早く魔法陣を敷いて爆破できれば話は早いが、ここは住居だ。そんなことをしたら大変なことになる。近隣の住民にも迷惑がかかるだろう。
「ウィル先生、教材室入ってて下さい。あそこなら狭いし、魔法の効果が切れにくいんで」
「解ったよ」
教材室は、数メートル歩いて行けばあった。恐る恐るといった様子で蝋燭の明かりを持ち、ウィルフレッドはゆっくり教材室に近付く。
ウィルフレッドの肩を支えてやりながら、心の中でまずいぞと呟く。魔物は血の臭いに敏感だ。傷だらけのウィルフレッドが、いつ襲われるか解らない。
気を抜いたら大変なことになることは十分に承知していた。ヴィヴィアンは神経を研ぎ澄まし、辺りに気を配りながら少しずつ進んだ。