ショートショート026 悪魔の笑顔
ノックの音がした。
その家に住むエヌ氏という男は、無能ではないがとりたてて有能というわけでもない、ごく平凡な会社員だった。もう四十近いが結婚はしておらず、これからもそうだろうと思っていたが、ひとりのほうが気楽で性に合っていたので、別に気にしてはいなかった。
ノックに気づいたエヌ氏は、はて、誰だろうと思った。親しい友人もいないから、客などが来るはずもないのだが。
エヌ氏は不思議に思いながらも、玄関へ行ってドアを開けた。
そこには、何だかよく分からないやつが立っていた。おかしな、と言ってもいい。
その奇抜さにエヌ氏は驚き、うまく言葉が出てこなかった。
「な、なっ」
「ちょっとお邪魔しますよ」
そいつはドアのすきまに体を入れ、強引に上がり込んできた。
「ちょっとあんた。いきなりなんだ、無理やり入ってきて。少し、常識ってものが欠けているんじゃないか」
そいつのあまりの行動に、エヌ氏は強い口調で文句を言った。
しかし、そいつはそれを気にするふうもなく、実にさわやかな笑みを浮かべて質問に答えた。
「私は悪魔です。実は耳よりなお話があるんですが」
「なに。いま、なんと言った。悪魔だと。ふざけたことを言うやつだ。そんなものが、この世に存在するわけがないだろう」
「そうおっしゃられましても、実際にここにいるんですから。それにあなた、私の姿を見て何とも思わないんですか」
そう言われて、エヌ氏はそいつの姿をあらためて眺めてみた。しわひとつないスーツ。しっかりと糊がきいたシャツ。そして右手には仕事用の鞄。そこだけを見ると、働き者の会社員のように見える。
だが、まともなのはそこだけで、それ以外はすべてが奇抜だった。
まず、目じりが異様に吊り上がっている。耳は鋭くとがり、髪は一本もはえていない。肌は全身真っ黒で、人間のそれにはとても見えない。そして極めつけが、後ろに見え隠れしているしっぽのようなもの。その先端はスペード型になっていて、空中でふらふらと揺れていた。
そいつの問いに、エヌ氏は答えた。
「今はやりのコスプレというやつだろう。全身黒いのは、ぴったりした黒い服を着ているだけ。目はメイク、耳は付け耳。つるつるの頭は映画とかでよく見る特殊メイク。そのしっぽのようなものだって、モーターか何かで動いているに決まっている。そこまで凝っているところを見ると、よほどのこだわりの持ち主なのか、あるいは特撮映画の仕事でもやっているのだろう。そのあなたが私に何か用なのか」
エヌ氏のその言葉に、そいつは吊り上がった目じりをさらに吊り上げて言った。
「これは驚いた。この姿なら、当然信じてもらえるものと思っていましたが、案外そうでもなかったらしい。選ぶ相手を間違えたような気がしてきましたよ」
「それなら帰ってくれないか」
「いやいや、せっかくこうしてお邪魔しているんです。話くらいは聞いていただかないと」
「私にそんな義務はない」
「それに、本当に耳よりな話なんですよ。どうですか、お話だけでも。私があなたを選んだのは、ほとんどただの偶然です。別に誰でも良かった。それがたまたま、あなたの家を訪ね、いい情報をお教えしようと言っているのです。これはチャンスですよ。この機会を失えば、あなたは大損をなさいます」
悪魔を名乗るそいつの言葉を聞いて、エヌ氏は考えた。どう考えてもうさんくさい話だ。だが、言っていることに一理ないわけでもない。どうせ暇だったのだ。休日の時間つぶしには、ちょうどいい相手かもしれない。話を聞くだけならかまわないだろう。
エヌ氏は、悪魔のささやきに耳を傾けてみることにした。
「いいだろう。聞くだけ聞いてやる。ただし、金がかかるようならお断りだ。今すぐ出ていってくれ」
「めっそうもございません。お代なんてけっこうですよ。私は、これをあなたに受け取ってほしいだけなのです」
そう言って、悪魔は鞄の中から何かを取り出した。
「なんだ、それは」
「これは、押した者の願いを三つ叶えるボタンです」
「なんだと。そんなばかなものがあるわけないだろう。私をからかっているのか」
「からかってなんていませんよ。私はそんなことに、興味も関心もありません」
「よく言う。悪魔といえば願いを叶えると言って人間をからかい、最後には魂を奪うものと相場が決まっている。お前が本当に悪魔なら、それこそ私の魂を奪おうとしているんだろう」
「それはおとぎ話ですし、それだって強欲で愚かな人間が悪かったのだという結末ではありませんか。現実の悪魔はからかうこともだますこともしませんし、魂を奪うなんてこともありません。私はただ、このボタンをあなたに譲りたいと、心からそう思っているのです」
この言葉を聞いて、エヌ氏はその悪魔のボタンとやらに興味を持った。そんなすごいボタンを、悪魔が誰かに譲りたがるのは、いったいなぜだろう。普通なら、自分で使ってみたいと思うはずだが。
そう思ってたずねてみると、悪魔はきちんと質問に答えた。
「実は、私はもうボタンを使ったのです。ささやかで、ごくありふれた願いのためにね。ただ、願いが現実に叶うためには、ある条件が必要でした」
「条件だと」
「はい。まず、このボタンをどなたか別の方に譲り渡さなければならない。そして、その方が願いを三つ叶えるために、ボタンを三回押す。そうしてようやく私の願いは叶うのです」
なるほど、とエヌ氏は思った。何を願ったのかは知らないが、それを叶えるための条件がそういうものなら、譲り渡したくなるのもわかる。
「それで私のところに来たわけか」
「その通りです」
「しかし、どうして私を選んだんだ」
「たいした理由なんてありませんよ。さっきも言ったでしょう、ほとんど偶然なんです。たまたまあなたの家が目に入ったので、とりあえずノックをしてみた。そうして出てきたのがあなただった。それだけです」
ふむ。どうやら、偶然というのは本当の話らしい。さっき他ならぬ悪魔自身が言っていたように、悪魔が人間をだますのではなく、人間が愚かだっただけだというのが定番だ。欲に溺れた人間があいまいな言い方で願ったから、とんでもないことになるのだ。悪魔は願われたとおりに、人間が口に出した内容の範疇で願いを実行しただけだ。
ということは、この悪魔は本当に嘘は言っていないのかもしれない。
エヌ氏は少し身を乗り出して悪魔にたずねた。
「つまり、お前は本当に悪魔で、自分の願いを叶えるために、そのボタンを私に受け取ってほしいと、そう言うのだな」
「その通りです」
悪魔の表情は誠実そのものに見えた。
「では、ひとつ気になることがあるのだが」
「なんでしょうか」
「お前は、何を願ったんだ」
「たいしたことではありませんよ。もう少しだけいい暮らしをしたいとか、そんなありふれた願いです。それを願ってボタンを押し、願いを現実のものにするためにここへ来た。そしてあなたにこれをお渡しする。そうしてやっと、私は元の生活に戻り、願いも叶うのです」
「やけに人間的な願いだな」
「私にだって、生活がありますからね。いろいろ事情もあるんですよ」
「そういうものか。ところで、元の生活に戻るとは何のことだ」
「願いを現実にするためには、こういうふうにお譲りする方を探して回らなければなりません。お恥ずかしい話ですが、私は見知らぬ他人とお話しするのは苦手でして。けっこう今もつらいのですよ。早く元の生活に戻りたいとは、今のこの状態から早く解放されたいと、そういう意味です」
悪魔の言い方が妙に回りくどく聞こえ、エヌ氏は少し疑念を感じた。だが、悪魔が人見知りというのもなかなか面白かったので、まあ飲み込んでおくことにした。それにこの悪魔はどうやら本当に嘘は言っていないらしい。そこまで執着することもないだろう。自分も人付き合いの良い方ではないから、悪魔の気持ちもわからないではない。
「それで、このボタンを受け取っていただけるのでしょうか」
人見知りの悪魔に対して妙な共感を覚えていたエヌ氏に、悪魔が再びたずねた。
「いいだろう。どうやら嘘は言っていないようだ。何も起こらなかったとしても、話の種にはなる。それにもし本当に願いが叶ったなら、こんなありがたい話もない。もらっておくとしよう」
「おっしゃる通り、嘘などひとつも言っておりません。頼みを聞いていただいてありがとうございます」
悪魔は真摯な顔でそう答え、ボタンの詳しい使い方を説明してから、では私はこれでと言ってあっさりと帰っていった。
ボタンを受け取ったエヌ氏は、さて何を願おうかと考えた。金がいいだろうか。女がいいだろうか。地位や名誉がいいだろうか。
しかし、安易に願うと、いったいどうなるか分からない。何と言っても悪魔のボタンだ。たしかに願いは叶うかもしれない。だが、とんでもない叶えられ方をしては、たまったものではない。
エヌ氏は、具体的な内容をじっくりと検討してみることにした。明確に、別の解釈の余地のないように願えばいいのだ。それを怠ったやつがだまされたと言っているに過ぎない。自分はそんな愚かものではない。
しばらく自問自答を繰り返して、願いは決まった。それほど大げさな願いではなかった。そこそこの金、ほど良い健康、気ままな生活の維持。そのくらいが分相応という気がする。あまり極端なことを願うと、想定外のことが起こるかもしれないからな。やはり、無理のない願いにしておいたほうがいいだろう。
エヌ氏は平凡ではあったが、堅実でもあったので、そのように考えていた。
その後、願いの内容を厳密に検討して紙に書き出した。金は、このあたり一帯に落ちている金をまとめて家の中に出現させれば、そこそこの額になるだろう。健康は、これから死ぬまでの怪我や病気をすべて設定してしまえばいい。最後の一つが難しいが、今後の人生をしっかり設計すれば、なんとか書き上げられるはずだ。
しばらく紙に向かって思案を繰り返し、数ページにわたる願いの文章を書き終えて、いよいよボタンを使ってみることにした。ボタンを押しているあいだに言った願いが叶うということだったから、指がかなり疲れそうだが、まあ少しの辛抱だ。
エヌ氏は、ボタンを押して願いを言い始めた。一つ目の願いを唱え、二つ目を読み上げる。
そして三つ目の願いを言い終わり、指をボタンからゆっくりと離した。
その瞬間、薄く煙が立ちのぼり、エヌ氏の姿かたちが変貌した。
吊り上がった目じり。鋭くとがった耳。つるつるの頭。真っ黒な肌。そして、先端がスペード型をしたしっぽ。
エヌ氏は呆然とした。何が起こった。これはなんだ、どうしたことだ。私が悪魔になったのか。さっきのあいつが悪魔じゃなかったのか。
これを事実だと信じたくなかったエヌ氏は、顔を触ったり、頭を撫でてみたり、尻尾を動かしてみたりといろいろ確認してみた。しかし鏡で全身の姿を見て、悪魔になってしまったという事実を飲み込まざるを得なくなった。
私はだまされたのか。あいつは願いを叶えるボタンだと言った。だが、私はこんなことを願ってはいないぞ。
エヌ氏は混乱しつつも、必死に考えた。
私の願いが叶うためには、このボタンを他人に譲らなければならないとあいつは言っていた。
ということはひょっとすると、さっきのあいつもどこかの誰かから同じようにこのボタンをもらい、悪魔の姿に変えられた人間だったということか。
ならば、あいつの願いは今ごろ、無事に叶っているということか。
そういえば、元の生活に戻れるとかなんとか、そんなことも言っていた。あれはつまり、渡した相手がボタンを使えば人間の姿に戻れると、そういうことか。いや、あいつだってその前の悪魔から聞いただけだろうから、本当なのかはわからない。だが、このあたりで悪魔が歩いていたという話も聞かない。つまり、ちゃんと元に戻れるのだろう。そうでなくては困る。
「それなら、やることはひとつだ」
エヌ氏はそうつぶやいて、ゆっくりと立ち上がった。
糊がよく利いたシャツを選び、スーツをきっちりと着て、鞄を用意して例のボタンを入れる。そっとドアを開け、あたりを確認して家を出る。家から少し離れたところにある、独身の男ばかりが住んでいるアパートに向かい、明かりのついている部屋を適当に見つくろう。
部屋の前まで来たところで、エヌ氏は少し考えた。
だますようで気が引けるが、なに、別に実害があるわけでもないのだ。多少の苦労をすることにはなるが、ちゃんと元に戻るのだから、深く悩むようなことでもない。
第一、あいつもそうだったように、私も嘘を言うわけじゃない。きちんと元に戻れるようにもしてやるんだから、何の問題もない。
それにそもそも、私は人間なのだ。悪魔ではない。私が元の姿に戻るために、ちょっと手を貸してもらうだけだ。少しくらい次のやつが困ったとしても、それくらいならきっと許されるだろうし、許されるべきだろう。
自分自身を納得させるように大きく何度もうなずきながら、エヌ氏はドアをコンコンと叩いた。ちょっとお邪魔しますよと部屋に上がり込み、まるで人間のようにさわやかな笑顔を作って言った。
「私は悪魔です。実は耳よりなお話があるんですが……」