第一章 歌姫 DIVA (4)
§§
ふと眼を覚まし、嗚呼と思う。
安堵。
穢れたぬくもりは今側に無い。
あの汚らしい脂も、すえた臭いも、苦くイガらしい味も、今自分の側にはない。そのことに安堵し、同時に過去の煉獄の恐怖に震える。自身があれほどに穢れていたことを思い、今もあるようなその穢れに怯え、汚れてしまった自分を自嘲する。
だけど。
あの頃より燈り続ける炎もある。
歌はずっと、側に在った。
私の想う家族も、ずっとそばにいた。
それは、変わらず今もある。
嗚呼。
それでいい。それならば、いい。どれほどに堕ち、穢れようとも、私はまだ、歌う事ができる。家族を、傷付いた最後の家族を守り続けられる。父様の願いを、叶えられる。
父様は言った。
歌わなければ為らないと。
歌だけが、私の証明だと。
だから、私は今日まで、歌い続けてきた。今日までも、今日からも、ずっと。
世界の続く限り。
私は――
「眠れないのですか?」
ハッとする。
穏やかな声。今日聞いたばかりの、声。理由も無く、いいえ、ほんの気紛れのようなもので助けてしまった声の。
「アイネス」
名を呼ばれ、私は――オーキッド・アイネスは。
「――誰の所為かしら」
そんな、可愛げもないことを言った。
「済まない」
そんな言葉が返ってくる事が分かっていたくせに。
短い付き合いで、本当に短い、成り行きだけの関係のはずだけれど、彼がそう言うことは分かっていた。なんとなく、【浄歌士】としてか、アイネスとしてか。それとももっと、別の何かとしてか。
私はそんな思惟とともに眼を開いた。
夜の闇の中でも、その漆黒は浮き立っていた。
瞳の色。
黒曜石の瞳。
始めて見たときと同じように、それを綺麗だと感じた。私の瞳よりもずっと、優しげで強い瞳だと。
「あなたこそ、眠っていなかったの、クロウ?」
「護衛ゆえ。眠ってはいましたが、本当に眠っては、役目を果たすことは困難と判断をしました」
「……仮初にも護衛でいてくれるのね。報酬がほしいのかしら、騎士様は?」
クロウは、そっと首を振った。
「危機を救っていただいた。その一事が十分に報酬です。なにより」
なにより?
どこか遠くを見詰めようにして、彼は言葉を紡ぐ。
「アイネスの側にいられること自体、きっと、俺にとっては報酬であろうから」
「…………」
私は。
彼のそんな遠い言葉に。
「……口説歌には技巧が足りないわね」
口の悪い言葉しか返せなかった。
彼は軽く肩を揺らした。笑ったのかもしれない。
「それは、その通りだろう。俺は旧い人間だ。今には疎い。巧い事は言うこともできない。ただ。ただ、本心ではあるのです。アイネスに出会えた、ただそれだけでも、俺は幸運だった」
「…………」
この男は、何を言っているのだろうと思う。出会ったばかりの女に向かって、それもその女は不可侵の【浄歌士】であるのに。にも拘らず、どうしてそうも素直に、心の裡を口の端に乗せられるのだろう? 私には、難しいことだった。理解が、難しいことだった。だって、
「……それで、本当はどうして眠れなかったのかしら?」
こんな風に私はいつも、真理とばかり向き合っているから。
「…………」
クロウは、少しだけ黙って、それから口を開いた。
「マナのことを、考えていた」
彼は、正直に口を開いてくれた。
「その人は、クロウの大切なひと、なのかしら……?」
意地の悪い言葉と思っても、私は私の言葉を止められない。思いのままにしか口を開けないのが、歌唄いの悲しい性だった。それは時に人を傷つけ、怒りを買い、悲しみを倍増させる。だけれどこのとき、クロウだけは、そう言った一切のこととは別のところで、私の言葉に答えてくれた。
「大切なひと、だった」
だった。つまり、それは。
「遠い昔に、死んでしまった。恋人だった。けれど、俺は彼女を、守ることもできなかった」
「…………」
出会ったばかりの女に、である。
過去を匂わせたい。そういう意図じゃないことは分かる。過去に倒錯的に浸っているわけでもない。ただ彼は、何か、記憶を平面に並べて語っているようだった。遠い昔と言いながら、それをほんの少し、まるで昨日のことのように。悔しさも、悲しみも、何もかもが、その詩には含まれていた。
詩。
私にはそう思えた。心を表す言葉は皆、詩に。
「………ぁ」
そこで、思い至る。
彼が過去を語ってくれる理由に。
「……あなたは、まさか」
私の、言葉を。
『いいですか、正直に話しなさい。詰まらない作り話をしたら私は許しません』
「……? アイネス、どうかしたか?」
「……いいえ」
まさか。流石にそれは。私の考えすぎなんだろうと思い、だけれど、直感を外したことの無い私は。
「その、マナという方は」
ひょっとして、と、問おうとして――彼の持つ雰囲気が、一変していることに気がついた。
「――――」
先ほどまでの、柔らかく暖かい夜のようだった彼の表情が一瞬で引き締まる。その腰に佩いた刀のように、抜き身の刀身のような雰囲気を纏う。張り詰めた、触れれば切れるような、鋭い――
「――来る」
彼が短くそんな言葉を吐くのと――
「【海嘯】だぁぁぁぁぁぁぁっ――!!!!」
そのありえてはいけない絶叫は、ほぼ同時だった。
§§
「――!?」
僕がその叫び声で飛び起きたのと、ヒナギさんがテントを飛び出していこうとするのは同時だった。
「時を稼ぐ! 仕度を!」
短くそれだけを言って彼は征く。
「姉さん!」
叫ぶと、
「準備をします。手伝いなさい」
静かに、だけど強く言って、姉さんが夜着の紐を解き始めた。
「う、うん!」
僕は混乱している頭を押さえつけて、どうにか姉さんの指示に従った。
◎◎
【海嘯】――それは【大海嘯】の先触れ。あらゆる全てを呑み込み【錆】の大海に沈める絶望のような大災害の、その始まりを告げる現象。
いや。
正しくない。それでは正しくない。
【海嘯】は何時如何なるときも世界中のあらゆる場所で起こり続けている。押し寄せる【錆】に、村や微かに残るだけの森が奪われ、必ず何処かは、【海嘯】に沈む。
そして何時か【大海嘯】がやってくる。
10年か、50年か、100年か、或いはもっと先、それとも数瞬後、世界を呑み込む【大海嘯】は起る。
人の世の在り様は、その【大海嘯】と【大海嘯】の狭間にしかない。そしてその狭間にすら【海嘯】と云う恐怖がある。
【大海嘯】は全てを呑み込む。あらゆる全てを呑み込む。
じゃあ【海嘯】は何か。
【海嘯】は蝕む。【錆】雑じりに為った場所全てを、【錆の大地】へと変える。それだけで脅威。それだけで地獄。だけれど、最悪はそこじゃない。最悪は。
【海嘯】が従えるケモノにある。
そのケモノの名を【アオサビ】と言った。
◎◎
「状況を述べなさい」
姉さんは、その姿に意識を奪われている一同――ウェイスター村の人々に対して冷淡にものを問うた。
袖の振るほどに長く深い衣装に、身体のバランスを調節するための過剰なまでの装飾が施され、何よりも姉さんの全身に満ちる意志が輝き、その存在を絶対なるものへと変えていた。
美しい。綺麗。或いはもっと。
だから村の最も高みにある神殿位――【浄歌士】が唄う為の祭壇に状況の把握と万が一の算段のために集っていたはずのレェンゾさんたちが一瞬以上に意識を奪われたことは仕方がなかった。何故ならば今の姉さんは、【浄歌士】オーキッド・アイネスなのだから。
だけど姉さんは停滞を許さなかった。詰問するように冷えた声で問う。
「状況を述べなさい」
「――!」
最も速く意識を今の世界に戻せたのは、やはり僕たちとの関わりが深いレェンゾさんだった。彼はその無毛の頭を真っ赤にし、滝のように汗をかきながら慌てた口調で言う。
「お、お、オーキッドさん! よきところにいらっしゃって!! 実は今【海嘯】が」
「知っています。被害は? 【アカサビ】の侵蝕速度は? 【アオサビ】の有無は? すぐに明確に伝えなさい」
有無を言わせない調子にレェンゾさんもどうにか状況をまとめて返す。
「まんだ被害は村の中までは来ちょりません。ただ【アカサビ】を抑えるために外に出た若い衆との連絡が取れん! 【錆】はこの祭殿のある山の真裏から村の方へ向かって一直線に来ちょります! 速度は速く間も無く、あと数刻もせんうちに村まで来てしまう!」
「【アオサビ】は?」
「出とります! 群れが今、こっちに向かって!」
「自衛団は?」
「外に出て連絡がつかん!」
「……その割には、【アオサビ】の速度が鈍い」
「は、はい?」
「【アオサビ】は哨戒と防衛のための【錆】。来るというのならもっと早く来てもおかしくないはずです……レェンゾさん、【錆】を視認したいのですが、構わないですか?」
「姉さん! そんな悠長な!」
たまりかねて叫ぶ僕に対して、姉さんはひどく落ち着いた視線を投げてきた。
「ここは山頂です。この祭殿は山頂を取り囲むようにして存在していますから裏に出れば山の裏側から下、おおよそを見る事ができるでしょう。どうですか、レェンゾさん?」
「そ、その通りですが」
「ならば急ぎましょう。あの男、何者かは知らないけれど、流石にそろそろ限界でしょうから」
「あの男……?」
僕のそんな疑問は、姉さんの小首を傾ぐ行為であっさりと無視された。
「自明よ」
姉さんはそれだけ言ってレェンゾさんとともに祭殿の裏手へと向かう。
「…………っ」
僕も仕方が無く、その後を追った。
◎◎
「っ!」
月光の元、それは泡立っていた、いや、蠢いていた、いや、拍動していた、いや、蠢動していた、いや――弾け、舞い、堕ち、殖え、喰らい――それは蝕み、あらゆるを呑み込むが如き行進を進め。
夜の中で褐色の鈍光を放ち、【錆】たちは行軍を進めていた。
波が押し寄せるような速度で、土であった地面が、混ざっていた【錆】と地面が、完全な【錆】へと呑み込まれて行く。
あまりにおどろおどろしく嫌悪すら抱く劣悪な光景。
【アカサビ】による【海嘯】。
それは既に、山の裾野スレスレまで来ていた。
「っっ」
僕は吐き気とともに座り込む。
駄目だ。
駄目だ。
まだ、思い出してしまう!
崩れ落ちそうな僕の前に、誰かが外と内を隔てるように、そっと立った。
「……姉さん?」
「大丈夫よ」
「姉さん」
「私がいる。だから、大丈夫」
「……うん」
僕は何とか立ち上がる。状況を何とかか理解しようとする。
「【錆】はもうすぐそこまで来ているよ! この分じゃ【アオサビ】はもう!」
「ええ、然したる時間もかけずにここへ飛び込んでくるでしょう」
だから。姉さんは言った。
「私が、歌いましょう」
「姉さん」
「レェンゾさん、すぐに歌います。私たちのことはこれで結構ですから急いで避難を。分かっているでしょうけれど可能な限り遠くへ村人全員で」
「お、おうさ! し、しかしオーキッドさんは! 【アオサビ】も間も無くというに!」
「なんとでも為ります」
「ですが!」
「言ったではないですか。これが、私の生業です」
「…………」
そう断言されては、レェンゾさんに反論など出来るわけも無く。
「おねげぇします!」
顔役の老人は深く頭を下げると、足早に祭殿を去っていった。恐らく、ここに集まっていた人全てを連れて。
「…………」
だから今、此処に残っているのは僕と、姉さんだけ。
「……お前は、耳でも塞いでいなさい」
「大丈夫。こんな状況でも、姉さんの歌が切っ掛けに為ったりはしないよ」
「そう……なら、しっかりと見ていなさい。これが、お前の姉の姿です」
【浄歌士】アイネスの姿です。
そう言って姉さんは大きく息を吸い込み――
「GYAGAAAAAAAAAAAAAAAAAAARRRRRRRR――!!!」
その凶悪な叫びと衝撃で、吐き出すことを強制された。
「ね――姉さん!!」
祭殿が破壊され、その衝撃でぶっ飛ばされながら僕は姉さんを呼ぶ!
視認!
無事!
姉さんはよろつきながらも何とかまだ祭壇の上に立っていた!
だけれどそこに、それは飛び込んできた。
それが叫ぶ。
鼓膜を劈くようなぎらついた――【錆】付いた咆哮!
全身がささくれ立った四足獣、蒼い鋼の毛並み、人の倍もあろうかという巨躯、生命など見て取れない異形!
それは、それは即ち――!
「あ、【アオサビ】!!」
「GEAGAAAAAAAAAAAAAAAAAAARRRRRRRR――!!!」
最悪の獣が、吼えた。
「う、っく、うぅ」
姉さんが、ガクリと膝を付く。当たり前だ、【浄歌】に入る直前の極度の集中状態を無理矢理に破られたんだ、ああなって当然、それに【浄歌】は今日既に二回目で――
「姉さん!」
叫んで、駆け寄り、何とか姉さんを抱き起こす。
だけど、その時には【アオサビ】の、盲いた【錆】の瞳が僕たちを捉え、【錆】は叫び、その四足の鋭い爪を、凶悪極まりない牙を――
「――え?」
ぎゅっと、そっと、誰かが僕を抱き締めた。
「ね、えさ、ん?」
「ふふ」
姉さんは、笑っていた。
そして、場違いなほどに楽しそうな口調でこう言った。
「誰が信じると思う? こんな状況で、ただの行き摺りの男が、行き摺りの女のために――」
「――ッッ!?」
駄目だ! 【錆】が僕たちに向かって飛び掛り!
光りが翳る。何かが月光を遮った。
「おおおおおおおおおおおおぉおぉぉおおおぉぉぉおおおぉぉぉおおおおおおおぉ――!!」
ギィィィンッ!
金属同士の激突が生む、甲高く軋む音が一帯に響く。
「GYGOGAAARARRR!?」
重さで言えば人の5倍もありそうな【錆】が、僕たちの前から弾き飛ばされる!
「あ――あなたは」
それは。
月下に降り立つ影。僕たちの前に。守るように。
それは。
その人は。
その漆黒は!
「――好ましい。女のために――ナイトの役目を拝命してくれるなんて、誰が信じるかしら――遅いわ、クロウ!」
「済まない」
謝罪とともに、僕たちの前に舞い降りた、その人は――ヒナギ・クロウだった。
彼は刀を構えつつ、弁明のような言葉を吐く。
「途中で出会った、自衛団のような若者たちを、安全な場所まで避難誘導していた。その一因で遅れた。済まない。無事か?」
それは分かりきっていることを確認する口調で、でもどこかそれは優しく、柔らかく。
「そのような理由だと思っていました。ですがいいでしょう。遅刻ですが間に合っています。誠に、よろしい」
「――――」
なんなのだろう、この二人は?
僕は場違いに疑問を抱いていた。
【アオサビ】が吠え立てる中、何時【アオサビ】の本隊が――そうきっとこの【アオサビ】は斥候でしかない――来襲するとも知れない場所で、こうも暢気な会話ができるのだろうか? 人間は超暴力の化身である【アオサビ】には勝てない。そんなこと分かりきっているのに。どうこう出来るのは姉さんの歌だけ、なのに姉さんはまだ立ち上がってすらいない。なのになのに――なのにどうして!
僕には一つだけ、今の二人を言い表せる言葉を知っていた。だけど、それは、出会ったばかりの二人が持っているはずもないもので。
「クロウ、時を稼ぎなさい。後は、私がどうにかします」
僕の手を払い、立ち上がりながら姉さんは言う。
「心得た。誓って、必ず君たちを守る。まずは今、目前の敵を退けて見せよう」
言ってヒナギさんは刀を【アオサビ】に向けて構える。
そんなもので如何にかできるわけがない。
姉さんだって消耗が激しくって歌えるはずがない。
なのに。
「どうして……?」
姉さんは、笑っていられるの?
「――――」
姉さんが呼吸を整え、超集中状態へと入る。その前にヒナギさんが自然に守るように立ちはだかる。
「――――」
僕の心を、その言葉が打った。
「GYARARARRABAAAAAAAAAAAAAA――!!」
【アオサビ】が吼える。僕たちに向けて突進してくる!
ヒナギさんが刃の切っ先を真っ直ぐに突き出し、円を描くように閃かせた。
「【侵蝕】」
その言葉と共に、描かれた円が黄金の輝きを放つ。
僕は眩しさに一瞬目を覆い、そして視界が戻った時、そこには――【黄金の騎士】が立っていた。
『――――』
黄金――いや、光が去ったあと、まるで錆び付くようにその全身は黒色の闇に蝕まれている。
だけれど確かに、その心臓が、その双眸が黄金の輝きに満ちていて。ぶちまけられた夜のような闇の中に、光が耀く!
「GEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE!!!!」
『ハアァァアァァァ――ッッ!!』
斬――!
「ありえない!」
【アオサビ】の咆哮に、黄金の騎士が応じ、その手の中の刃が閃く――その結果を見て僕は叫んだ。
それはあり得ない事だったから。
【錆】の魔獣が人の手に拠って斬り裂かれる!?
「だけど!」
だけど【錆】は、そんなことじゃ死なない! すぐに再生して――
「BARUGOOOOOORRRRRRR――!!」
「GOBAAAAAAGOGGYAAAAAA――!!」
「RYAGAGYAAAAAAARARRRRRR――!!」
そして、その最悪のタイミングでそれは来た!
無数の【アオサビ】が祭壇へと飛び込んできて!
だけど。
だけど。
『これで――いい!』
奇妙に反響する声で黄金の騎士は――ヒナギさんは叫んだ。
そしてそれは、放たれた。
「――――――――!!」
涼やかに夜空に伸びるような、究極的にまで透明な音のその凛たる声は――姉さんの――【浄歌士】の歌声だった!
風が管楽器の音を巻く!
林が拍子木を打つ。
星辰が静と鈴を鳴らし、大地がドラムのリズムを刻む。
世界の全てが楽器へと変わる。世界の全てが歌い手を祝福する。
その中心で、姉さんは歌う。
オーキッド・アイネスが【浄歌】を唄う!
「――煌めく星の、その静けき光り
降るせ冷たき、玲瓏の音よ
燈せう火の、その温もりを知る――」
姉さんの身体から溢れる光りのように高く響く音が飛び出し、まるでその位階を変えるかのように姉さんは変貌を遂げていく。
美しい。綺麗。或いはもっと。トランス。もっと先の、神憑りのような境地へと!
「――涙散り、夜の闇
呑み込むような暗黒、されど瞬くは、導たる星の
今確かに此処にある輝き――」
音の波が、津波が、奔流が、その場の全てを包み込む。
僕もヒナギさんも【アオサビ】さえも!
森を降り【錆】が覆う荒れ野すらも。
音は覆い、音が満たす。
歌声が。
【浄歌】が!
「――永久に誓え、違わぬ祈りを
星の記した、輝く歌を
君と結ぶ、未来の希望を――」
そうそれこそが【浄歌士】の真髄! 人から人ならざるものへと移るその在り様を以って、世界を清める音を紡ぐ。世界の音を聴き、世界のために音を奏でる。それが――【浄歌士】! 歌唄い!!
「――ユメは醒め、やがて廻り――」
「――――――」
「――――――」
「――――――」
「――――――」
嗚呼。誰かが感嘆の声を漏らした。きっとそれは僕だった。
幾度か周囲を見回すように首を振り、遂に【アオサビ】たちが、崩れていく。
「――現の世、泡沫の世界――」
バラバラの散り散りの【錆】になって、その【錆】がもっと細かい、光りのよう粒子になって。
「――それでも、夢は、かなう……必ず……」
姉さんの歌が終わるとともに、一帯にあった全ての【錆】が、粒子と為って、消え去った。
それは風に融けるようで、夜の闇に飲まれるようで、少なくともそこには、禍々しい光など無く、暖かで、穏やかな、光だけが。
「――――」
姉さんが瞳を閉じ、力を失ったように前向きに傾斜してゆく。それを、いつの間にかあの姿から元に戻っていたヒナギさんが無言で支えた。普段ならば僕の役目。だけどそのとき、僕にはそれが出来なかった。何故なら、ずっと一つの言葉が、僕の中で踊っていたから。
「――……」
ヒナギさんの胸の中の姉さんが、少しだけ瞳を開いて。
「…………」
薄く、薄く微笑んだ。
その笑みに、ヒナギさんも同じものを返す。
「…………」
僕の中を、ずっと同じ言葉が踊っていた。
その言葉は【信頼】といった。
◎◎
結局。
【アオサビ】の件もあって追加報酬を貰った僕たちは、ささやかな宴会の後ウェイスター村を後にした。
なんか知らないけどヒナギさんも着いて来た。
「その表現は酷いと愚考する、アイネスのご家族」
「そう云う呼び方をやめてください。幾ら馬車に乗っていないからって僕は何一つ認めませんよ?」
「何を言っているのか、さっぱり分からない……」
「…………」
姉さんは今、馬車の中でよくお眠りになっている。流石に疲労が出たらしくって、たぶん明日か明後日までは起きないと思う。そうなるとこの旅路の暫くは今も平気で馬車と同じ速度で走っているヒナギさんと一緒ということに為るのだけれど。
「何で馬車に乗らないんですか?」
「年頃の女性の私室を兼ねた馬車に乗れるわけがなく。俺は旧い人間。しかしその程度のモラルはある」
「…………」
何なんだろう、この人。変身までするし。
僕は、ずっと思っていた疑問をぶつけることにした。
「それで、どうして護衛を続けることにしたんですか? 別にあの村を出てしまえばそうである必要なんてなかったでしょう? 姉さんの冗談は兎も角方便ではあったんですから」
「む? ああ、そうだったか、そうだったのかもしれない」
そうだったのかもしれないって、それだけでしょう?
「いや、幾つか理由が出来た。君たちに付随し、共に行く理由が」
「迷惑です」
僕は切り捨てた。ヒナギさんは笑った。
「それでいい。そうであることこそ、俺は望むのだから。アイネスも、俺のことを嫌っていてくれれば、ずっといい」
「メチャクチャ言ってますよ」
第一。
「姉さんは、嫌いな相手を何時までも傍に置いてなんかいません」
「……ならば、それを確かめることも含めて、同行させていただく」
「…………」
駄目だな、この人。
僕はそう思いながら、思い切って聞いてみることにした。裏表の無さそうなこの男性に、僕たち姉妹をどうするつもりなのかを。
「あなた――ヒナギさんはどうやら凄い人のようですけど、そんなあなたは、僕たちに何をさせたいんです?」
「――――」
彼は一瞬押し黙り、微笑を消してからこう言った。
「世界を――救ってもらいたい」
「――――」
言葉を失う僕と、併走するヒナギさん、そして眠っている姉さんを乗せて、シルヴィーの牽く馬車は行く。
ヒナギさんのその冗談以外のなにものにも思えなかった言葉を事実だと知るには、まだまだ僕たちは、時間をかける必要があった。
第一章、終
第二章へ続く




