恋する彼女+スナイパー×大学ノート=さよなら。
「あの、これ、作りすぎて食べれないから、良かったら……」
開いたドアから姿を見せたのは、Tシャツ姿の青年だった。
手にした大きめの皿にはラップが覆い、中の水分のせいか結露していた。
「カレーライス」
そう言って白い歯を見せた青年は、屈託のない笑顔を作った。
マンションの高層階。吹き抜けから入る風は心地よく、青年が訪ねた部屋から出てきた女の髪を柔らかく揺らす。年の頃は互いに相違ないだろう。
数秒の沈黙の後、予期せぬ訪問者であるマンションの隣人へ向け、彼女はキョトンとした表情を見せると、僅かに首をかしげ、人差し指を、耳、口……の順に指し示し、最後に両手の指先で×を作って見せた。
「えっ?……あぁ」
青年は困惑した表情を浮かべながらも、初めて見た隣り部屋の住人の美しさに息を飲む。
青年が、このマンションに越してきてから数ヵ月。薄暗がりの玄関から顔を覗かせたのは若い女だった。
少し勝ち気に見える瞳は大きく、透明感のある白い肌。整った顔のパーツが、どこか作り物のようにさえ感じられた。
(一人暮らしだろうとは思ってたけど、こんな美人だったとは……聾唖か。もったいない)
……心の声は残酷だ。だが、青年のそんな思いなど知るよしもなく、彼女は表情を微動だにしない。
「良かったら、た、べ、て、ね!」
青年は声を張りながら、口をわざとらしく開いた。その顔には、先ほどとは違う種類の笑顔が浮かぶ。そして彼女へ皿を押し付けた。
彼女は華奢な手に皿を受けとると、指先に熱を感じ、閉ざされていくドアを見つめた。
その夜。
カタンッと冷たい音。
彼女にとって、それは聞き慣れたいつもの音だった。
ワンルームマンションのフローリングは素足に冷たく、彼女の足音だけが、ヒタヒタと部屋の中に反響していく。
Tシャツから伸びた、スラリとした大腿部を右足から屈めると、背中から音もなく茶色の髪が流れ落ちた。
郵便受けに手を伸ばし、底に落ちている紙切れを人差し指と中指で摘まみ出す。薄暗がりの中、その紙片に書かれた日時と住所、目標の特徴、そして僅かなメッセージに、大きな瞳を走らせた。
色の白い整った表情は崩すことなく、微動だにしない。
踵を返すと、無造作に部屋の中央に置かれた寝袋の上に腰を下ろした。ガランとして他に何もない部屋の片隅に設置された薄型TVに視線を送り、足の親指でリモコンの電源スイッチを踏みつける。
部屋を照らし出すTVの光に、艶々と輝く瞳と親指の爪。
膝を抱え、ツンと尖った鼻を腕に押し付けた。親指でチャンネルを器用に変えていくと、あるニュースに辿り着く。
暴力団の組長が、証拠不十分として釈放され、報道陣に囲まれながら黒塗りの高級車に乗り込むシーンだった。
彼女の黒い瞳が、ぼんやりと、静かに、TVを見つめ続けた。
――数日後。
高層ビルの屋上。夕方6時。彼女はそこにいた。
目の荒いサマーセーターの裾が風に揺れ、パタパタと小気味よい音を立てる。
右手に持ったギターケースを床に下ろすと、無造作に開けた。
手首に巻いた素っ気ない安物の髪留めで長い茶髪を結い上げると、ケースの中からシルバーとブラックの鈍い光沢を放つ部品を取り出していく。
少しだけ瞼を落とし、それらを組み上げていった。
何百回と繰り返された動作。
淀みのない、動作。
数分と経たず、スナイパーライフルが組上がった。
銃床を肩口に捻りこみ、ボルトを力一杯引く。
トリガーにかけた指に力を込め、第二間接を曲げた。
ガチリ。
複雑な金属音が肩口から心臓へ届く。
もう一度。
――もう一度。
三度、繰り返した。
左手をギターケースへ伸ばし、弾倉を手にする。
頬を震わせながら、本体へ叩き込む。
屋上の際まで進むと、金網にライフルの先端を突っ込んだ。
スコープに右目を押し付けると、もう一度ボルトアクションを起こし、ライフル本体へ給弾する。
スコープの中に、豪奢な日本庭園が望めた。
手入れの行き届いた芝生の上に、腹の突き出た作務衣姿の中年男性が、裸足のままでゴルフクラブをスイングしている。
――先日のニュースに出ていた組長だった。
スゥッ。
彼女は中腰になると、息を大きく吸い込む。
スコープ越しに目標の後頭部をセンターへ合わせると、風の匂いと速度を、鼻で感じた。
ブッ!
消音器から断片的な音が吹き出すと、白い光線が弾けた。
スコープの中で、中年男性の頭部が踊り、僅かな時間差で血煙が舞う。
彼女にとって、たったそれだけの事だった。
このご時世に、マンションの見知らぬ隣人へカレーのお裾分などどうかしている……青年は数日前のことを考えながらベッドから抜け出すと、自嘲気味に口許を歪めた。
「久しぶりに商談がうまくいったからって、何やってんだろ、俺……」
ふと、学生の時分に書いたラブレターを思い出す。夜更けに書いたものを朝見直すと、余りの恥ずかしさに背中に嫌な汗をかいた記憶が甦った。
身支度を整えると、大きくため息をつく。肩を落としながら、ドアを開けた。
「あれっ」
視線を落とすと、足元には見覚えのある皿が。
綺麗に洗われ、中央には紙片が折られてあった。
(ご馳走さまでした。美味しかったです)
美しい筆致に、青年は一瞬目を見開くと、白い歯を剥いて満面の笑みを浮かべる。
そして、駆け出した。
――幾ばくかの月日が流れた。
大学ノートは半分ほど埋まり、ページの端々に、彼女の流麗な文字と、青年の男臭い文字が綴られ続けていく。
最初は手話を勉強しようとした青年だったが、彼女が手話を使えないと知ると、筆談を提案した。
不思議なことに、彼女は携帯を持っていない。夜は交換日記よろしく、交代でノートを持ち帰り、気持ちを綴った。
『今度、ギター聞かせてよ』
『いいよ。もっと上手になったらね』
『何で寝袋で寝てるの?』
『あれが一番落ち着くから』
『仕事は何してるの?』
『ナイショ』
『好きな人はいるの?』
『ナイショ』
『明日、公園行きたいな』
『いいよ』
青空の下、遠くに雑踏の音が霞む公園で。
互いにパンをかじりながらの筆談。
『俺と付き合ってほしい』
いつもよりぎこちない青年の文字が、大学ノートの隅に踊った。
真剣な眼差しを彼女へ向ける。
そんな視線を避けるように、彼女は、少しだけうつむくと、穏やかに、微かに、口許を結ぶ。
(そんな悲しい笑顔、見せないでくれよ)
青年は、困惑した。
その夜。
彼女は、表紙が手垢で黒くなり、いく筋も折り目の入った大学ノートを何度も見返していた。
カタンっと、背中から冷たい音。
聞き慣れた、冷たい音。
ピクリと肩を震わすと、音もなく立ち上がった。
郵便受けから紙片を取りだし、この数ヵ月同様、いつもと同じく目を走らせる。
「……!!」
眉間に深いシワを寄せると、瞳の色が濃くなっていき、その奥底に、得体の知れない感情が燻った。
数日後。
廃墟と化した、立体駐車場の中腹に、彼女はいた。
ギターケースを埃の浮いたコンクリートの上に広げる。
スナイパーライフルを組み上げると、耳を澄ます。
……聞こえないふりをするのは苦痛ではなかった。
聞こえないと分かっているのに、彼が不意に発する言葉には、優しさが満ちていた。それ以上に、どこか拙い表現と文字は、彼女の荒んだ心を癒す。
そんな沢山のシーンが、彼女の脳裏を巡っていった。
スコープの中には、遥か遠方の商社ビルが。
目を凝らしたセンターには、同僚へ向けて穏やかな笑顔を浮かべる青年の姿が。
彼女の部屋に届いた紙片の最後に綴られたメッセージ――。
(彼は、君を知りすぎた)
いつものように、トリガーを引いた。
白い頬に涙が伝う。
「さよなら」
そう一言呟くと、微かな銃声が、肩口から彼女の心臓の鼓動を僅かに早めた。
カタンッと冷たい音。
彼女にとって、それは聞き慣れたいつもの音だった。
暗い部屋には、薄型テレビが無造作に置かれ、場違いな寝袋とギターケースが。
彼女は音もなく立ち上がると、いつものように、郵便受けに手を差し込む。
―完―




