5 ユッカの迎春(1)
すみません。
1話完結でやっていくつもりが、長くなってしまったので2つに分けました。2日連続更新の予定です。
海竜亭でコックを勤めるユッカの一日は、ある意味規則的だ。
空が白み始める頃に起き、顔を洗い、まだ人気のない街を小一時間ほど散歩する。帰宅後は筋力トレーニングとストレッチ。軽く湯を浴びて汗を流してから、散歩中に思いついたメニューのアイデアをノートにメモし、その後ようやく朝食だ。
その頃には妹のティーアも起床し、掃除と洗濯を開始する。朝食を作るのはユッカの仕事だ。
朝食を終えたらできるだけ人通りの少ない路地を通って海竜亭へ向かい、その日出す料理の仕込みに入る。
もうここで働き初めて四年。
店のオーナー、マクシミリアンの人望や伝もあってか、海竜亭は繁盛している。もちろん常連の客もたくさんいる。しかし、ユッカ自身は客の顔をほとんど知らず、客の方も誰がコックを勤めているのか知らない人間の方が多い。
普通、四年も同じ場所で働いていれば、いくらコックとはいえ常連客と知り合いになったりするものなのだが、あいにくユッカは『普通』ではなかった。
客の多くは食べに(あるいは飲みに)来るか、マクシミリアンから情報を得るために来ているのであって、料理を作っている人間に興味があるわけではない。だからこれでいいのだ。
そう、ユッカは思っていた。
「ユッカさーん、クルアンパイ包み、追加2です」
「海老の姿焼きも1つお願いします!」
アニータとノエルが厨房にやって来ては、注文の書かれた紙をボードに貼っていく。ボードにはその2枚以外に同じような紙が数枚貼られていた。
「わかった」
フランベ真っ最中の大きなフライパンを左手で軽々と振るいながら、ユッカは二人に笑顔で答えた。
今日も海竜亭は盛況である――らしい。
何せ、店の中を見に行ったことがないものだから、ユッカにはわからない。わからないが、注文が途切れることなく入るということは、お客さんがそれだけ来て食べて行ってくれているのだろう。
その証拠に、アニータやノエルが客席から回収してくる皿は、ほぼすべてが空になっていた。
ユッカはそれを目の隅で確認すると目を細めた。
やはり料理人。例え見たことも会ったこともない人であっても、自分が作ったものを残さず食べてくれるのは、純粋に嬉しかった。
ユッカの仕事が終わるのは真夜中、日付が変わる頃だ。
今日は仕込んだ食材をほぼすべて使い切ったため、オーダーは閉店の時間を迎える少し前にストップしてしまった。ここ最近、ずっとこんな感じが続いている。
もう少し、仕込みの量を多くした方がいいかもしれない。
厨房を片付け始めたユッカは、幾枚もある皿を一つ一つ手で洗いながらぼんやりと考えた。
しかし、厨房や食糧貯蔵庫の広さは限られている上、生の食材が余ったら痛んでしまう。せっかく仕入れた食材を捨てることになれば、それはそのまま店の損害となる。難しいところだ。
今度、マックスさんに相談してみよう。
ユッカがそう結論付けたとき。
「ユッカさん、お疲れ様です」
アニータが何枚も重ねた皿を重そうに抱えて厨房に入って来た。
ユッカはすぐさま駆け寄り、アニータの細い腕から皿を取り上げるとぬるま湯の溜まった流しに漬ける。
「ありがとう、アニータさん。こんなにたくさんあるなら、俺を呼んでくれればよかったのに」
「まだ店内にお客さんがいたから」
「あぁ……」
ユッカは溜め息をついた。
アニータが何故自分を呼ばなかったのかが理解できたからだ。
言葉を紡げなくなったユッカの隣をすり抜けて、アニータはユッカが洗った皿を清潔な布巾で拭き上げ始める。
ユッカも食器洗いを再開しつつ、アニータに詫びた。
「ごめんね、迷惑かけて」
「なんでユッカさんが謝るの? 私、少しも迷惑だなんて思ってないのに。
寧ろユッカさんが海竜亭に来てくれて助かってるくらいなのよ? お父さんってば、何の考えもなしに『船乗りの酒場、海竜亭』なんて名前でお店開いちゃうんだもの。そんな名前だと、普通に魚介系のお料理を期待しちゃうと思わない? それなのに本人は魚介アレルギーだから料理なんて絶対無理だし。かと言って、メニューから外すわけにもいかないじゃない?
前のコックさんが別の町で自分のお店を出すからって辞めるときに入れ違いでユッカさんが来てくれなかったら、どうするつもりだったのかしらって思うわ。それにね」
アニータはここでいったん言葉を切り、前のコックさんにはちょっと悪いんだけど、と前置きしてから続けた。
「実はね、ユッカさんがコックになってから常連のお客さんが増えてきてるのよ?」
「そう、なんだ……」
アニータの言葉にユッカは表情を綻ばせた。
注文の入る量が増えてることから推察はしていたが、やはり実際に店内に立って切り盛りするアニータから聞くと実感が湧いてくる。
アニータはそのまま皿を拭きながら、嬉しそうに今日の客の様子を話してくれる。
ちょっとカッコイイ人がいた、とか、一人で五人前をぺろりと食べ切ったお客さんがいた、とかいう他愛もない話をこの時間帯に二人でするのは、今や日課になっていた。
ユッカは目を細めて相槌を打ちつつ、手早く食器や調理器具を洗い上げると自分も拭く側に回った。
「――それとね、今日のお客さんで、コック長さんに会ってお料理のお礼を言いたいって人がいたのよ」
「えっ!?」
会話の途中で出てきたアニータの言葉に、ユッカは一瞬で凍りついた。ちょうど拭いていた皿を落としそうになり、慌てて両手でしっかりと持ち直す。
そんなユッカを見てアニータが噴き出した。
「大丈夫よ。ノエル君と合わせて、そういう話はすべて丁重にお断りすることにしてるから」
「あぁ、そう……」
ユッカは安堵の溜め息をつく。アニータがからかうように付け足した。
「それとも、会ってみたかった?」
「いや、無理」
断固拒否の返事をすると、ユッカはその話題から逃げるように皿拭きを再開した。
ユッカとて、自分の料理を食べてくれる人の顔を見たくないわけではない。気に入ってもらえたのであれば、むしろ自分から出向いてお礼を言いたいとすら思っている。
しかし、それがユッカにとっては難しい。
ユッカは人見知りなのだ。それも極度の。
老若男女問わず、慣れていない人とは会話することができない。表情が上手く作れず、言葉が出てこなくなる。
なんとかできるのは、「ああ」「いや」といった単語での受け答えと、首を縦に振るか横に振るかのジェスチャーくらいの、会話と呼ぶには程遠いものだ。
だからたいていの人は、そこまで親しくなる前にユッカのことを誤解する。この人は寡黙で無愛想な人なんだ、と。
時間をかければ普通に話すことができるようになるのだが、アニータやノエル、マクシミリアンといった、毎日顔を合わせ、ほぼ一日中を共に過ごす海竜亭の面々とですら『普通』にコミュニケーションが取れるようになるまでに、三年半もかかった。
二十一歳にもなって、他人とまともに話せない自分の状態を不甲斐ないとは思う。
話せないから他人と会うのが苦手だし、苦手だから会おうとしない。悪循環なのだ。それはわかっているのだが……。
「でもね、本当にちょくちょくいるのよ? コック長に会いたいって方。私たちには随分打ち解けてくれたけど、他の人にはまだダメ?」
ユッカは何も言わず、自嘲気味に唇の端を僅かに持ち上げた。それだけでアニータは意味を察してくれたらしい。残念そうに溜め息をつく。
「なんか勿体無いなぁ。ユッカさんってすごくいい人なのに、それがみんなに伝わらないんだもの」
「ありがとう、アニータさん」
「本当にそう思ってるのよ? もっと、ユッカさんのことわかってくれる人が増えたらいいのにね」
ユッカがアニータの優しさに感謝している間にも、アニータの話は続く。
「ユッカさんも、結婚とかしたいでしょう? ティーアもね、こないだ、ユッカさんに恋人ができれば変わると思うんだけどなって言ってたわよ」
「あいつは、俺に早く結婚して欲しいんだよ。『お兄ちゃんが早くお婿に行ってくれないと、私、安心してお嫁にいけない』ってしょっちゅう言われてるし」
「それは、ユッカさんに幸せになってほしいからよ。好きな人とか、いないの?」
「いると思う?」
あぁ、アニータもお花畑に住んでるんだな、とユッカは内心思う。
他人との接触を避けている自分に、どうやったら好きな女性が出来ると言うのか。
それに、もし自分に好きな女性がいたとして、自分に何ができると言うのか。どうしろと言うのか。まともに会話することもできない自分に。
ユッカがそんなことを思っているとはわからないのだろう。アニータが明るく言った。
「いつかきっと、素敵な人が現れるわよ」
「そうかな」
「そうよ」
ちょうど皿拭きが終わり、今度は食器棚に片づけ始める。かなりの枚数があったが、これで最後というときになってアニータが動きを止めた。
「アニータさん、どうかした?」
「ユッカさん、これも片付けるの?」
アニータが布巾の被さった器を手に、ユッカの方を向いている。昼と夜の繁忙時間の合間に作った、新メニューの試作だ。アニータの手からそれを受け取りながらユッカは答えた。
「あ、うん。これはいいよ。持って帰ってちょっと考えてみたいから」
「新作?」
「黄金林檎を使ったメニューを考えてるんだけどね。ちょっと食べてみてもらえる?」
「いいの?」
ユッカは頷き、布巾を剥いだ。
中に入っているのは、鶏肉を黄金林檎の酒を使って蒸したものだ。あらかじめ鶏肉を林檎酒に浸けておくことで、柔らかく仕上がるようにしてみていた。
アニータがその鶏肉を一切れ摘む。ユッカは自分も一切れ口に入れつつ、小さく何度も頷きながらゆっくりと咀嚼するアニータの反応を窺った。
やがて、アニータが空になった口を開く。
「うん、美味しい。林檎の酸味がいい感じだし。これでまだ未完成なの?」
「うーん。まだ何か足りないんだよね。こう、キュイッと感が足りない気がして」
「きゅい?」
「うん。あと、白とかピンクとかも足りない」
「ふぅん……」
いつものユッカ独特の表現だろうと理解したのか、アニータが頷く。
ユッカは肩を竦めた。自分でも『キュイッ』とする何かと『白』や『ピンク』の何かが足りないということ以外、よくわからないのだ。
ただ、今の味に満足していないことは確かだった。
食器をすべて片付け終えた後、アニータの「あとは私がやっておくから」という言葉に甘え、ユッカは家路に着いた。