2 エドゥアルトの困惑
ティルナノーグの街の中央にある噴水から程近い場所に、古く大きな石造りの建物がある。そこは街で起こる住民同士の問題解決や造成計画の執行、犯罪の取り締まりや税の徴収など、民と領主の間に立つ役人たちが日夜仕事に励む役所だ。
役人になるのは、簡単なことではない。合格率が極めて低いとされる難関試験をパスする必要がある。そんな狭き門を潜り抜けた精鋭たちは、毎日が仕事で忙殺される。
――一般的には。
役所の一角にある自部署の部屋で、エディはまったく覇気のない表情でタバコをふかしていた。
机の上に両足を載せ、椅子の背当てに全体重を預けて煙を吐き出しているその姿はただの遊び人にしか見えないが、これでもれっきとした役人で、しかも街づくり課の課長である。
「あー退屈だー……」
戯れに一定の間隔で円状に吐き出したタバコの煙が宙に漂い、薄れ、やがて消えていくのを眺めながら、エディは手を伸ばして机の上に置かれていた封筒を手に取った。そして明らかに面倒くさそうな表情で中に入っていた書類を眺める。が、やはりすぐに飽きたらしく大きな欠伸をしながら両腕を頭上に掲げて伸びをした。
「あーあ。こんな天気のいい日に仕事しなくちゃいけないとは俺も不幸だねぇ……。さっさと終わらせてカワイ子ちゃんとお茶でも飲みたいもんだ」
「何 か お っ し ゃ い ま し た か ?」
つい本音を零した直後、魂も凍りそうなほど冷たい声がエディに刺さった。思わず身をびくりと震わせ、おそるおそる声のした戸口を見やる。
そこには長い髪を邪魔にならないように結い纏めた、見るからに真面目そうな女性が立っていた。両眉の間に深い皺を寄せ、両腕いっぱいに書類や封筒を抱えている。エディの補佐官、キャンディスだ。
エディは取り繕うようにわざと明るく笑いかける。
「キャンディス、あんまり怒ると皺が増えるぞ?」
エディの言葉にキャンディスは片眉を上げ、つかつかとエディの脇まで来ると、隙だらけの腹の上に持っていた書類を容赦なく下ろした。
「ぐぇっ」
呻くエディを尻目に、キャンディスは窓を大きく開け放って部屋に充満していたタバコの煙を外へ逃がす。そして振り向くと腰に両手を当てて仁王立ちした。
「もうっ! エディさんっ! いい加減にしてください。今日中にお城へ月次報告書を提出しなくちゃいけないの、わかってるんでしょうね? その前に所長にもチェックしていただかないといけないんですよ? それに、街中でパン屋を開業したいっておっしゃってたイルメリさんが今日の午前中に開業申請書を取りに来ることになっていますし、先日の大雨で壊れた橋の補修工事に複数の業者から入札が入ってますから一覧表にまとめないといけませんし――」
報告書以外は、俺がやらなくてもいい仕事ばっかりじゃん……。
指折り仕事を並べて上げていくキャンディスとは対照的に、エディは軽く眩暈を覚えてげっそりとした表情を浮かべた。
街づくり課は、他の部署に比べて明らかに忙しくない部署だ。どこまでも不真面目で面倒くさがり屋のエディでも座っていられるポストを、所長が適当に用意したとしか思えない。
誰もがそう思っている部署なのに、生真面目なキャンディスは課に回ってくる仕事をカンペキにやり遂げようとする。そんなモン適当に済ましゃいいんだよ、どうせたいした仕事じゃないんだから、と何度言ったことか。それでもまったく勤務態度の変わらないキャンディスに、エディは呆れを通り越して尊敬に値すると思っていたりする。
ただ、今は、仕事する気分じゃないんだから仕方ない。
エディはなんとかそういった面倒事から逃げる方法はないかと頭をめぐらせた。
そうだ、確か今月中に藤の湯のソハヤに衛生検査を兼ねた水質調査の告知をしに行かなきゃいけなかったはずだ。俺が直接言いに行くからってキャンディスを説得しちゃえば、あとは自由の身じゃね? うん、我ながら名案だ。
そうと決まれば。
「――いけませんし、それに」
「キャンディス」まだ続いていた仕事の羅列を遮ると、エディは続けた。「藤の湯の水質検査の件って、告知まだだったよな? 俺、今から行ってくるわ」
言いながらお腹の上の書類を退かし、身体を起こして椅子を立とうとしたところでキャンディスに腕を捕まれる。
「エ デ ィ さ ん ? 私、本っ気で怒りますよ?」
もう怒ってるだろ、と言いそうになったエディだったが、キャンディスの全身から放たれる氷点下の殺気に気圧されして飲み込んだ。掴まれている腕もギリギリと骨が鳴りそうなほどに痛い。
命の危険を感じたエディは笑って誤魔化しながら、なんとか逃れる理由を並べてみた。
「でも役所からの告知書って今月中に届けなきゃいけないって所長に言われてるよな? 今月って今日で終わりなんだけど……」
「ええ、そうですね」
「だからさ、俺が行って届けなきゃいけないだろ?」
「いいえ。要は今日中にソハヤさんの手元に告知書が届けばいいんです。エディさんが行く必要はありません。もう別の方に届けてくれるよう頼んであります」
「えっ、そうなの?」
「ええ。ですから、エディさんは安心してデスクワークに励んでいただけます」
涼しい顔でそう締めくくり早速仕事に取り掛かったキャンディスとは対照的に、見事に目論見が崩れ去ったエディは落胆を隠せない。
大きく肩を落としたまま動かないエディの隣で、キャンディスが封筒を開けるのに使っていたペーパーナイフの刃先を指で弄びながら冷たく言い放った。
「やっぱり逃げようとしてましたね?」
「いっ、イイエっ! 滅相もゴザイマセンっ!!」
キャンディスの持つペーパーナイフが妖しく輝いた気がして、エディは慌てて首をぶんぶんと振った。
あーこりゃ無理だな。下手したらあのナイフで刺されかねない勢いだ。
一時の楽しさよりも命の方が大事。
逃げることは諦めて椅子に座り直したエディは、キャンディスが案件ごとにまとめてくれた書類に目を通し始めた。
しかし文字が頭に入ってこない。どうしても気になるのだ。
キャンディスは誰にソハヤのところへ行くように頼んだんだ?
デスクワークが大嫌いなエディだが、仕事に対する責任感がないわけではない。どちらかというと他の人よりも責任感が強い方だ。だから信用できない人間には自分の仕事を任せたくないと思ってしまう。
キャンディスにそんなこと言おうものなら「そんなに気になるなら、なんで昨日までに終わらせておかなかったんですか!」と怒鳴られるのは必至だ。
殺気がまったく衰えていないキャンディスを横目で窺いながら、エディは小さく嘆息をついた。
怒らせちまったばっかりだし、今頼んだ相手をキャンディスに聞くにはタイミングが悪いよなぁ……。
エディは案件二つ分の書類の処理を終わらせると、三つ目を受け取りながらごくごく自然な流れに聞こえるよう細心の注意を払いつつキャンディスに尋ねた。
「でさ、誰に頼んだの?」
「何がです?」
「ソハヤのとこに書類届ける役」
「あぁ……それでしたら、そろそろ着くと思うんですけれど」
キャンディスが言いながら部屋の入り口の方を見た、ちょうどそのとき。
「おっはようございまーす!」
明るい声とともに開けっ放たれていた窓から何かが勢いよく飛び込んできた。
予想外の出来事に、キャンディスは手にしていた書類を取り落とす。
『何か』はそのまま部屋の中で宙返りすると、すとんと着地した。静止して初めて、それが少女であるとわかる。
少女は頭のてっぺんの短いポニーテールをぴょこんと弾ませて、何事もなかったかのように、二人に向かって丁寧にお辞儀した。
「エディさん、キャンディスさん、おはようございます」
ようやく我に返ったキャンディスは、噛みつくような勢いで尋ねた。
「ちょっ、ティーアちゃんっ!? 今どこから入って来たの?」
「え? そこの窓からですけど……」
ティーアはなぜキャンディスがこんなに慌てているのかわかっていないらしい。不思議そうに首を傾げている。
「窓って、ここ三階よっ?」
「知ってますよ。エディさんの部屋でしょ? わかってて入ってきたんですから」
「えっと、そうじゃなくって……」
部屋の扉から入って来なかっただけでも驚くというのに、三階にある窓から入ってくるとは。もし誤って落ちでもしたら、ただでは済まない。
噛み合わない会話にエディが笑い出した。ティーアのこういう行動にもう慣れっこになっているエディにとっては、漫才のように見えたのだ。
エディを一睨みした後、キャンディスが改めてどうやって窓まで上ったのか聞くと、ティーアは窓に上ったわけじゃなく建物の屋根伝いに役所に来たらちょうどエディの部屋の窓の高さだったと答えた。
「え、でも、隣の建物とここって結構離れてるわよね? 私の背丈よりも遠くに見えるんだけど」
ようやく落ち着きを取り戻したキャンディスが窓の外を確認しながら言う。確かに、隣の建物の屋根までは、キャンディスの身長の倍くらいの距離がありそうだ。
「あー確かにそうですね。でも、これくらいなら平気ですよ」
ティーアはそう言うとにっこりと笑った。
ティーアはティルナノーグの街でメッセンジャーをしている。手紙やちょっとした小包を依頼主から預かり、相手に届けるのが仕事だ。
実は、ティーアにその仕事を紹介したのはエディである。四年ほど前、腕の怪我がもとで曲芸師を引退することになった彼女の身体能力を買って、所長にメッセンジャーとして仕事をさせるよう交渉したのだった。
所長は、十二という若さで一生消えない傷を負った不遇の少女と、彼女にのために熱心に交渉してくる珍しいエディの姿に胸を打たれ、エディの提案を了承した。ティーアがエディの妹と同じ年代ということもあり、同情しているのだろうと思い込んで。
しかし実際のところは少々違っている。確かに妹のミンネにティーアを重ねたというのもあるが、エディの中では、これで遠くの場所まで書類を届けるのが楽になるという打算もあったのだから。
部屋を見回していたティーアと目が合って、エディは片目をぱちりと瞑った。
「よぉ、ティーア。しばらく見ない内にまた可愛くなったな」
「そう? ありがと、エディさん。一昨日会ったばっかりだけどね」
せっかくの口説き文句も、彼の女性に対する癖を知っているティーアにはまったく通用しない。エディは苦笑するしかない。
「で、ティーア。なんで役所に来たんだ?」
エディの問いに、ティーアが答える。
「キャンディスさんに呼ばれたの。昨日家に帰ったら、明日の朝イチでお仕事頼みたいってメモが玄関に貼ってあったから」
ティーアの口調が少しフランクになるのは、エディとの付き合いがそれなりに長いことの現れだ。
「あーなるほどな。ソハヤに書類を届けてもらうのってティーアに頼んだんだ?」
「ええ。ティーアちゃんなら安心して任せられますから」
キャンディスはそう言いながら藤の湯宛の告知書を封筒に入れて、お願いね、とティーアに手渡した。
「はい、お預かりします」
ティーアが封筒を斜め掛けの大きなバッグに入れるのを眺めながら、エディは大袈裟に溜め息をついた。
「なんだ、仕事か。俺に会いたくなって来たのかと思ったのに」
エディが頬杖を付きながらからかうように言うと、ティーアは何を思ったのかエディの座る机に近づいた。
「また、そんなこと言って……」
言いながら机に左腕を付いて体重を乗せ、エディの方へ身を乗り出してきた。
「他の女性にも同じコト言ってるんでしょう?」
艶を含んだ声、微笑を湛えた薔薇色の唇、上目遣いの挑戦的な眼差し。初めて見るティーアの科に、エディは背中にぞくりとした感覚を覚え、見蕩れた。
時が静止する。
直後そんな自分にはっとし、焦りが生まれる。
「なっ、おっ、おまえ……そんな台詞、誰に教わった!?」
思わず椅子から立ち上がる。口から出た声の大きさにさらに驚く。
ティーアがきょとんとして身体を起こした途端、纏っていた色気が消えた。自分の唇に人差し指を当てて考えるティーアは、確実に、自分が何をしていたのかまったく気が付いていない。
エディは先程とはまったく質の違う目眩を覚え、口元を手で覆った。背中に嫌な汗までかいている。
「えっと、昨日BBさんがね、男の人にからかわれたらこう言えって教えてくれたの。大人の女はこうするんだって、仕草も一緒に教えてもらっちゃった」
そう言ってきゃっきゃと笑うティーアは無邪気そのものだ。
BBのヤツ、余計なことを教えやがって。ティーアはしっかりしてるし大人びて見えるけど、まだまだ自覚のない子供だっての……。
上手くできてた? と自分を覗き込もうとするティーアの頭にぽんぽんと手を置き、エディは溜め息混じりに答えた。
「ああ、上手くできてたよ。けど、ソレ、もうするなよ? 特にユリスとヨハンの前では絶対するな。封印だ、封印」
「え? なんで?」
「なんでもだ」
聞くな。と言いたいのをぐっと我慢する。
ティーアはまだ知らない方がいい。知らなくていい。それよりも。
「まぁとにかくだ。その書類、早いとこソハヤに届けてくれよ」
「はーい」
ティーアは再び丁寧にお辞儀すると、今度は部屋の扉から出ていった。
ティーアが出ていったのを見届けてから、エディは妙な疲労を感じて椅子にぐったりと座り込んだ。
「エディさん?」
キャンディスの声に、首だけをそちらに向ける。
「ティーアちゃんの年齢、もちろんご存じですよね?」
「ああ。知ってるよ。十六だろ?」
「まさかとは思いますけど……」
キャンディスが何を言いたいのか悟って、エディは彼女を睨む。
「んーなワケないだろ!」
「そっ、そうですよね! 普段から、この街の女の子には手を出さないっておっしゃってますもんね! (なんだ、ちょっと期待したのに……)」
「ん?」
「いえ、何でもありません」言いながら、キャンディスは仕分けした書類を束を机の上でとんとんと揃えた。「じゃあ、私はこの書類を経理課へ持っていきますから。エディさん、逃げずにちゃんとお仕事片づけておいてくださいね。あ、月次報告書を最優先でお願いします」
キャンディスも部屋を出ていき、エディは再び一人になる。
気持ちを落ち着けようとタバコに火を点け、煙をゆっくりと吐き出した。
キャンディスの言う通り、エディはこの街の女の子に手を出すつもりはないと以前から公言しているし、本当にそのつもりだ。
なのに、先ほどのティーアの表情が脳裏から消えてくれない。
エディは再びタバコを吸う。
あれはもう大人の女の顔だったよな……。
って、おいおい、エドゥアルト。バカなこと考えるなよ?
相手は子供だ。子供なんだ。
……。
今のところは、な。
今回は、私自身が考案したティーアと、美羽さんが考案されたキャラクターのエディさんをお借りしてのエピソードです。
美羽さん、ありがとうございました♪
きっとエディさんってこんな感じだと思うの。
面倒臭がりやで適当そうに見えるのに、世話好きだったり責任を気にしたり。変なところで不器用な人と言うか……。
この続きはまた別のお話で。(←書くんかい)