1 ノイシュの休息
常春の城塞都市ティルナノーグは、今日も穏やかに晴れている。
朝と言うには遅く、昼と言うにはまだ早い時間帯。暖かい日差しが絶え間なく降りそそぎ、ぽかぽかの陽気が用事がなくとも外に出たくなるような気持ちにさせる。
そんな平和そのものな街を統治する城の執務室で、領主であるノイシュは大きな溜め息をついた。
目の前にある机には、山のように書類が積み上げられている。今日中にこれらすべてに目を通し、内容を把握して判断し、部下たちに的確な指示を出さなければならないのだ。
終わる頃には夜中になっていそうだなぁ。
今朝起きてから終わらせた分と残りの分の書類の厚さを見比べて、ノイシュが二度目の溜め息をついたとき。
「ノイシュ様、そろそろご休憩されてはいかがでしょう?」
まるで計っていたかのようなタイミングで、執事服をパリッと着込んだロイが銀色の盆を片手に入ってきた。殺伐としていた執務室に、ほっとする紅茶の香りが広がる。
顔を綻ばせたノイシュが見ている中、ロイは窓際に置かれたテーブルセットに、持ってきた紅茶とドームカバーが掛かったままの皿を手際よく並べていった。
「朝からずっとご公務をされておりますが、少し休憩を挟みつつなさらないとかえって効率が落ちてしまいますよ」
言葉は丁寧だが、すっかりお茶の用意を整えてテーブルの脇にティーポットを持って立つロイの姿は、問答無用で「休憩しなさい」と言っているようなものだ。そんなロイの心遣いに感謝しつつ、そして苦笑もしつつ、ノイシュは執務机から立ち上がった。
「ありがとう、ロイ。そうさせてもらうよ」
ノイシュはテーブル席に座るとすぐ隣にある窓の外を見やる。ここに座るときの彼の癖だ。
ここからはティルナノーグの街が一望できる。
大通りにはたくさんの人が往来し、工房の建屋から伸びる煙突からは白い煙が立ち上っている。立ち並ぶ家屋の向こうには、港に停泊しているらしい幾艘もの船のマストが見え隠れしていた。人々の生活がそこにある。
ガラス越しからでも伝わってくる街の活気に、ノイシュは微笑んだ。
「開けてもよろしいですかな?」
ロイの問いに肯首すると、恭しくドームカバーが除けられる。露わになった菓子にノイシュは目を奪われた。
香りからして林檎を使ったものだろうか。花のような美しさと宝石のような輝きを放つそのケーキに、先ほどとはまったく違う溜め息が漏れた。
「美味しそうだね、ロイ。今日は何ていうお菓子?」
ノイシュがティーカップに紅茶をそそいでいるロイに尋ねると、ロイは淀みなく答えた。
「先日行われた林檎を使ったお菓子の大会で優勝した店から取り寄せました『エログ・フルール・オ・ニーヴ』でございます」
「なるほど。『ニーヴを讃える花』か。確かに花のように美しいね。食べてしまうのが勿体ないくらいだ」
「おや、ノイシュ様。お食べにならないのなら、私めが代わりにいただいてもよろしゅうございますか?」
「だめ」
即答したノイシュに、冗談ですよとロイが嬉しそうな笑みをこぼす。そんなロイを軽く睨んでから、ノイシュはフォークを花びらに刺した。
幾重にも重ねられた薄切りの林檎とサクサクのパイ生地、コンポートにジャム。それらすべてが口の中で絡み合い溶け合い、ニーヴからの祝福を受けたかのような幸せで上品な甘さが口の中いっぱいに広がる。
ノイシュの表情の変化を窺っていたロイが、満足したように微笑んだ。
「美味しゅうございますか」
「ああ、とっても」
優雅な仕草で二口、三口と口に運び、ロイの淹れた紅茶を啜り、半分ほどケーキを食べ終えたところで、ノイシュはふと手を止めた。そしてちょうどフォークに掬い取っていた一口大のケーキに目を落とす。
そのままノイシュは考え込むように押し黙った。
「どうかされましたか?」
しばしの後、ロイが尋ねると、ノイシュはハッとしたように顔を上げて微笑んでみせる。
「なんでもないよ」
明らかに『なんでもない』わけではなさそうな主の表情に、ロイの表情が曇った。それを見たノイシュは、まずい答え方をしたと俄かに思う。幼い頃から自分を見守り続けてくれた執事が今何を考えているのか、手に取るようにわかったからだ。
それは、心配。そして、愛情。
ノイシュはロイを安心させようと、思考をめぐらせながらゆっくりと口を開いた。
「いや、なんでもないと言うか……このケーキを食べていて思ったんだ。ティルナノーグの街と同じだって。私たちはこのケーキの材料や調理器具みたいなものなんだ」
「――と言いますと?」
「このケーキにはいろいろな材料が使われているだろう? ちょっと見ただけで、私にでも林檎に小麦粉、蜂蜜や砂糖が使われてるってわかるよ。きっと他にもいろいろな食材が使われてるのだろう。でも材料だけあってもこのケーキは完成しない。それを調理するための器具だって必要だし、もちろんパティシエの技量や工夫や知恵だって必要だ。この形が出来上がるまで、何度も試作品だって作っているはずだ。どれか一つでも欠けてしまったらこのケーキは成り立たない。
ティルナノーグだって同じだと思わないか? 街にはきっと、旅行記執筆のネタを探してぶらぶらと散歩してる者だっているだろうし、自身の経営する入浴施設を念入りに掃除してる者だっている。もしかしたら肩に下げた鞄いっぱいの手紙を配達するために駆け回っている者だっているかもしれない。私は領主だけど、街に住まう民がいなければそもそも『領主』ではないのだし、私の世話をしてくれるロイやメイドたちや騎士団がいなかったらまともに生きていくことだってできないよ。
どんな者にも意味があって、どれ一つだって欠けてはいけないんだ。そうやって、皆がティルナノーグを作っている。なんか、そんな風に思ったんだ」
そう言って、ノイシュはフォークの上に乗っていたケーキを口に運び、やっぱり美味しいと微笑んだ。
ロイもそんな主の姿を見て、安心したように微笑み返す。
「左様でございますね」
「そう考えると、私も泣き言など言ってられないね。私にできることをがんばらなければ」
「まだ書類はたくさんありますゆえ、くれぐれもご無理はなさらずに」
「ああ、わかっているよ。大丈夫、休憩のときにロイがまた紅茶を淹れてくれるからね。楽勝だよ《It's a piece of cake》」
二人は窓の外の景色を眺めた。
活気溢れるティルナノーグの街が、そこには広がっている。
お読みくださいましてありがとうございます♪
この小説は、タチバナナツメさん主催の「ティルナノーグの唄」企画への参加作品となっています。
今回は、ナツメさんのノイシュ様と、鳥越さんのロイをお借りしました。
それと、『エログ・フルール・オ・ニーヴ』は、みきまろさんが書かれている「ニーヴに捧げる恋の唄」に出てくるお菓子をお借りしました。いや、あまりに美味しそうだったもので……。
こころよくお貸しくださった皆様、ありがとうございました☆
小説タイトルの「a piece of applecake」は、ノイシュの台詞でも書いたとおり「リンゴケーキ(=ティルナノーグ)を作るモノ」を意味しています。
こんな風に、自分自身や企画に参加している方々が作ったキャラクターたちをお借りして、一話読み切り形式のエピソードを綴って行く予定です。