長月鏡花②
今回は、一日目の最後。次回からは二日目へと移行します
雨上がりの夜空は、少し冷たかった。
明日から本格的に始まる高校生活に胸を膨らませながら、俺は静かに明日の準備をしていた。
数学に現代社会に英語と。教科書とノートを鞄に詰めながら、俺は携帯の電話帳を見た。
そこには、五月雨美耶子の文字が表示されている。
「俺の携帯に、女の子の番号が――」
そう、あの後に俺は五月雨とアドレスを交換したのだ。
数週間前に買ってもらったばかりの黒の携帯に表示される番号を眺めて、ついついにやっと顔を気持ち悪く歪めてしまう。
だって、女の子のアドレスだぜ?
まだ、両親と妹と友人一人しか登録されていない携帯に、女の子の名前だぜ?
五月雨の名前があるだけで、この黒の携帯も一瞬にして虹色に様変わりしそうだっての。
「あ、明日からどうやって話しかけようかな……」
小中と、女の子と事務的な会話以外した事のない俺は、さっきからそればっかり考えていた。
多分、傍から見たら、この上なく気持ち悪いことだろう。
でも、止められないのですよ、これが。
「ふ、普通に『よう。おはよう』くらいがいいのかな? それとも、『昨日はお楽しみでしたね』くらいがちょうどいいのか。それとも――」
机の上に置いた携帯を見ながら、自分でもキモイと感じる程の駄文を並べていると、突如その携帯が鳴りだした。
思わず、携帯が主人の情けない姿に悲鳴を上げたのかと思ったが、俺はすぐにそれが着信を教えていることに気が付いた。
「――海翔か?」
通話ボタンを押す前に表示を確認してみたが、どうやら非通知のようだ。
一体誰だろうか。
「――もしもし?」
とりあえず、出ないと分からないので、通話ボタンを押して相手の声を聞いた。
『もしもし――情坂隆仁君かしら?』
聞こえてきたのは、柔らかい少女の声だった。
「えっ、あ、っはい! 俺が、情坂隆仁ですけど……」
聞かれたので、ほぼ条件反射で答えてしまう。しかし、この声――どこかで……
――あら? 電柱を擬人化したような方が、私に何か用ですか?
この声の主が、今日言っていた言葉を思い出した。
「……もしかして、長月さん?」
おそるおそる俺は、聞いてみた。
『ええ。長月鏡花です。夜分遅くに、すみません』
軽く頭を下げているのが想像できそうな言葉で、長月さんは挨拶をした。
って、言うか……
「なんで、俺の番号知ってるんですか?」
『……それは、あの電柱変態男に聞いたからです』
まあ、そこから以外あり得ないわけですが。
でも、疑問はまだ残っている。
「海翔から教えてもらったのは分かったけど、どうして俺なんかに電話を?」
正直言って、長月さんから見た俺の立ち位置って『電柱変態男のツレA』みたいなものだと思っていたのだけれど……。
『それは、頼みたいことがあるからです』
あくまで事務的な問題とでも言いたげな声で、長月さんは言った。
「頼みたいこと――?」
文武両道、才色兼備な長月さんが――俺に頼みごと?
それっておかしくないかな?
「別にいいけど。それで、頼みって何?」
一体俺に何ができるのだろうか。おそらく何もできそうにないんだけど……。
『それが……』
苦々しそうに、長月さんが口を開いた。
『今、私の家の門前に、電動歯ブラシみたいな電柱が生えているんです』
「分りました。今すぐ撤去します」
そう言って、俺はすぐさま通話終了ボタンを押し、別の電話番号に発信する。
1コールで、その相手は電話から出た。
『よっす隆仁。どうした? もう一〇時過ぎだぞ? なんか用か?』
「今すぐ長月さんの家から離れろ」
『えっ? なんで俺が今、鏡ちゃんの家の前にいるって分かったんだ?』
「長月さんから緊急SOSがきたからだよ!」
確かに、ここ数週間の付き合いだったけど、それなりに自分は海翔の事を分かっていると思っていた。けど、
「まさか、ストーキングするほど最低な男だとは思わなかったよっ!」
『えっ! な、なんで俺が鏡ちゃんのことストーキングしてることになってんの!?』
この男――まだ嘘をつくか。
「あれから八時間だぞ!? 長月さんを家まで送るくらいならまだしも、八時間以上家の前で見張るとか、もう刑事の域だよ! プロ意識の無い並みのストーカーでも無理だよ!」
『ちょっ、ちょっと待て隆仁! お前、よく分からんが絶対に勘違いしてるぞ!』
珍しく海翔が本気で焦っている。そんな彼が珍しかったので、俺は思わず考えていた罵倒の言葉を止めた。
「勘……違い?」
『ああ。言っておくけど、俺は今バイト帰りだ。お前も知ってるだろ? 月水木はハンバーガー太郎Vでバイトだって』
海翔に言われて思い出す。そういえば、海翔は飲食店のバイトをやっていて、夕方から一〇時過ぎまで働いているのだった。
「ってことは……今まで――」
『そう、バイトだ。んで、今日送ってやった鏡ちゃんの家が、バイト帰りに通っていた道でさ。ちょっとだけ家を見てただけだ。流石の俺も、八時間も好きな人の家で張り込みはできねーよ』
どうやら、ずっと見ていたというのは長月さんの――もとい、俺の勘違いだったわけだ。
「そっか。悪い、海翔。お前の事、疑って」
『別にいーよ。気にしてないし。そか、鏡ちゃん見てんのか。それじゃ、さっさと帰りますか』
思ったより軽く、海翔は諦めたようだ。普段の彼を想像すると、あと数時間は粘りそうな気がするのだが。
「結構、あっさりだな」
『当たり前だろ? 好きな相手が嫌がってんだ。引き下がるのは当然だろ?』
さも当たり前のように海翔は言った。そして、別れのあいさつを残して、海翔は電話を切った。
俺は、間髪入れずに長月さんへ電話した。
『帰ったみたいね……。お礼を言うわ。ありがとう』
あくまで事務的な事柄のように、長月さんは言った。
「あの――長月さん。海翔、ほんの少し居ただけらしいですけど」
『ええ。知っているわ』
まるで、他県で起こった事故のニュースを見ているような平坦な声で、長月さんは言った。
こう思うのも何だが、少しやり過ぎではないだろうか。
「長月さん……。海翔の事、良く思っていないのは分かってるけど、いくらなんでも酷過ぎないか?」
『そう? 私としては、これでもかなりセーブしている方よ』
「……もしかして、今日一緒に帰った時に――また何か言われたの?」
きっとそうだろう。だから長月さんは怒っているんだ。もしかしたら、また意味不明な告白でもされたんだろう。
しかし、彼女の返答は意外だった。
『いいえ。特に――何か話していたような気もするけど、忘れたわ』
まるで、蚊に刺されたことに今更気が付いた時のような声で、長月さんは言い捨てた。
「……相当、嫌っているんだね」
少しの憤りと、嫌われても仕方ないという諦めを含んで、俺は長月さんに言った。
『そうね……。男なんて嫌い。みんな――みんな……』
そう言う長月さんの声は、小さく震えるようだった。
「長月――さん?」
『……えっ――なんでもないわ。それじゃあ、私はこれで……』
言い終わると、長月さんは強引に電話を切った。残ったのは、ツーッ……ツーッと通話が終了したことを告げるコールだけだった。
「なんだったんだ? さっきの……」
もしかして、長月さんは男が苦手なのだろうか?
でも、罵倒していたしビンタもしていたから、話せないとか触れないとかじゃなさそうだけど……。
謎は深まるばかりだ。でも、俺には考えることはできても解決することはできない。俺は頭の中で、そう結論付けて明日の用意に戻った。
でも……もし、誰かが長月さんの『何か』を解決するのだとしたら――
きっと、それは海翔だろうと、俺は思った――。