五月雨美耶子③
これにて、美耶子編は終わりです! 次は、長月鏡花編を作っております~
お父様。お母様。先立つ不孝を、お許しください……。
俺は、最後まで頑張りました。ずぶ濡れになりながら、一人の少女の為に。そして一匹の小さな命を守るために。
でも、それも限界です。だって――
鼻血が――どうしても止まらんのです……。
「起きてッ! 君が見ている三途の川は偽物だよ! よく見てみなよ。きっと黄河みたいな濁り方してるから!」
……意味不明な叫び声で、俺は目を覚ました。
気が付けば、俺は五月雨に顔を覗きこまれていた。小さい息が、鼻に当たる。
「か、顔が近いよ!」
飛び上がろうとして、俺は気が付いた。自分の後頭部の下に、柔らかい何かが敷かれていることに。
毛布じゃない。布団じゃない。枕? いや、これは多分、枕は枕でも……。
「五月雨――もしかして、膝枕してくれてるのか?」
「は、はい。……迷惑だった?」
顔を赤くして、五月雨は言った。俺と視線が合う。
「い、いや……迷惑じゃないよ。柔らかいし、ぴったりフィットしてるし」
なにより、その……暖かいんですよ、この枕。
世の中には、こんな快適なものもあるのか。世の中ってすげえ。
「そ、そうですか……。それは、良かった……です――」
照れながら五月雨は言った。思わず、俺も恥ずかしくなってしまう。
しかし、今の俺は――青春しているんじゃないか?
海翔と高校生活を青春するという漠然とした目標を追い求めて早一日。いきなり、青春っぽいことしてるんじゃないでしょーか、俺は。
そんなことを考えていると、五月雨がいつの間にかタオルの上で寝ている子猫を見ていた。そして、視線を俺に戻した。
「子猫さん……いつまで情坂君の家に置いておけるの?」
先ほどとは違い、不安げな表情で五月雨は切り出した。
「うーん。とりあえず、明日と明後日くらいまでは大丈夫かな。母さんも猫好きだし。すぐに追い出すってことはしないと思う」
「そっかー……。良かったぁ~」
ほっと、五月雨は安堵の声を漏らす。
「――ごめんね。私の我儘を聞いてもらって」
「別にいいよ。俺も猫好きだし」
まあ、飼えるかどうかは別問題なんだけど。
できることなら、俺もこの子猫を飼いたい。そして、思う存分愛でたい。
「――情坂君は、優しいんだね」
「優しくないよ。お節介なだけ」
「謙遜だよ。アニメや漫画じゃあるまいし、こんなことしてくれる男の人って、今時絶対いないって」
ふふっ。と、俺に笑いかけてくれる五月雨は、とても可愛かった。
思わず照れくさくなってしまう。
「そ、そうかな……」
「それに、女の子の見てはいけないところを見て鼻血を出して倒れる人も、今時珍しいと思うなぁ~」
「お、同い年の裸なんて初めて見たもんで」
苦し紛れの言い訳しか出てこない……。
「それじゃ、私が情坂君のファースト全裸だね」
「……それ、自分で言ってて恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしくないと思う?」
「冗談だよ。だって、五月雨今顔真っ赤だし」
「分かってたんなら、もう少し面白い返しをしてほしかったなぁ」
ぷくう、と五月雨は赤い顔を膨らませる。その仕草が、とても可愛い。
まあ、今の五月雨の言葉も、海翔の『歯ブラシになって、あなたの歯を磨きたい』よりはマシだろう。
五月雨は、楽しそうに小さく笑う。俺も、つられて笑ってしまう。
そうだ。彼女なら、分かってくれるかもしれない。
猫好きに悪い人はいない。
「実はさ、俺ともう一人、村雨海翔ってやつの二人で目指している目標があるんだ」
「目標? 部活か何かでもやるつもり?」
「いや、そういうんじゃなくて……もっと、当り前で――でも、過ごしている時には実感できないものなんだ」
そうだ。もしかしたら、今この瞬間すら、振り返ってみれば青春なのかもしれない。
「ふーん。なんか、哲学チックだね」
五月雨は感慨深そうに言った。確かに、そうなのかもしれない。
青春ってのは、思春期の男女が抱く――一種の哲学なかもしれない。
「まあ、そんなに固いものじゃないよ。ただ、俺と海翔は、経験したいんだ」
「何を?」
「――青春を、ね」
なんだか、相当恥ずかしい事を言っている気がしたが、言ってしまったものは仕方ない。
もしかして、五月雨は引いてしまったんだろうか。そんなことも思ったが、彼女は俺の話を笑うことも引く事もしなかった。
「青春かぁ――情坂君も、面白いこと言うね」
「そ、そうか?」
俺がそう言うと、五月雨は笑って頷く。
「そうだよ。そういえば、私も青春らしいことなんて、全然したことないよ」
「そうなのか?」
「うん。というか、青春ってどんな意味なんだろうね」
意味、か。大体のニュアンスは分かるけど、いざ意味を説明しようと思ったら、これがなかなか言葉にしづらい。
「うーん。俺は、高校時代を有意義に過ごすことだと思うよ。部活で仲間と全国目指すのも青春だし、女の子と恋に落ちるのだって青春だと思う。いざ大人になってみて、『ああ、あの時は青春していたな』って思えるような三年間。それが、俺の考える青春だよ」
五月雨は、俺の話を真剣に聞いていた。時折頷いたりもしていた。
「そっか。情坂君は、結構ロマンチストだね。充実しすぎて気が付かないのが青春ってことかあ――。その考え方が、私は既に青臭くて青春してるっぽいと思うね」
くすっと小さく笑いながら、五月雨は言った。そんな彼女を見て、俺は今頃、ずっと膝枕してもらっていた現実を思い出した。
慌てて起き上がる。
「もう、大丈夫?」
五月雨の言葉に、俺は頷く。
「ああ、血は止まったし、もう大丈夫だよ。ありがとう」
「い、いいよ! ど、どういたしまして」
頬を赤く染めながらも、五月雨は言った。俺は、そんな彼女の健康そうな足を極力見ずに、ソファーに座ることを勧めた(彼女はTシャツ一枚だからだ)。
五月雨は小さく頷いて窓際にあるソファーに、ちょこんと腰かけた。
俺も一人分の間を開けてソファーに座る。
「別にそんなに間を開けなくてもいいのに」
「いや、あんまり近いと意識しちゃうから……」
「そういうの、女の子に言わない方がいいよ。かえって警戒させちゃうからね」
「りょ、りょーかいです」
これからは、女の子と話す時にはいろいろと注意しないといけないな。
ふと、俺は窓から外の景色を見た。
出会いの雨は、徐々に弱くなってきている。
「……私の考え。聞いてくれるかな?」
唐突に、五月雨が言った。弱くなった雨の音はまったく聞こえず、室内には彼女の声だけが耳に入ってくる。
「五月雨の、考え?」
「うん。私の考えた、青春とは何か。について」
女の子の考える青春、か。それは貴重な意見になるかもしれない。五月雨の考えを聞けば、後々の俺に何らかのプラスがあるかもしれない。
「いいよ。五月雨の話、聞いてみたい」
俺がそう言うと、五月雨は少し間を開けてから語り始めた。
「私はさ、青春ってのは悩むのものだと思うんだよね」
「――悩む?」
「そう、悩むこと。それこそ、情坂君の言う通り、なんでもいいんだよ。部活で技術が伸びなくて悩んだり、好きな相手の事を考えて悩んだり、勉強ができなくて悩んだり……。悩むってことは、人を成長させるんだよ。恋に友情に、部活に勉強に。青臭い子供たちが、それぞれ大人になる為に必死になって悩む三年間。それが、私の考える青春なのです」
五月雨は、途中で言うのが恥ずかしくなってきたのか、若干苦笑いで締めくくった。
「……どう、かな? なんだか、とっても恥ずかしいんだけど……」
「――いや、すっげー納得できた」
正直、予想以上に的を射ていて驚いた。
俺は、青春とは楽しくて美しいものだと思っていた。でも、五月雨の言う青春は辛くて苦しいものだった。この対照的な考え方に、青春の意味をよく分かっていない俺は、心を打たれた。
「んとね、情坂君の言ってた『ああ、あの時は青春してたな』って感じる為には、やっぱり悩む必要があると思ったの。だって、いろいろな辛い出来事を乗り越えないと、過去の自分を見る余裕なんてないと思うから。悩み抜いて成長した自分が居て初めて、過去を振り返る余裕ができるんじゃないかな――と、私は思ったのです」
確かに、その通りだった。俺は、青春を甘く見ていたのだ。
人生楽ありゃ苦もあるさ。有名な水戸様の番組の歌詞を引用するつもりはないが、俺は実にその通りだと思った。
いや、むしろ世の中には苦のほうが多いだろう。苦しいことを乗り越えた先に、初めて楽しいと思えることが待っているのだ。
「そうか。悩み続けて大人になった後で、青春ってのは姿を現すんだな」
「かもね――。高校生やってる間は、そんなことは実感できないだろうしね」
やっぱり、青春ってのは奥が深い。体験している間は気が付かなくて、辛いことや苦しいことを乗り越えて、終わってみて初めて気が付くモノ――それが青春か。
「……青春って、すげーな」
思わず呟いてしまう。
俺と海翔は、何も分かっていないのに、青春を謳歌しようとしていたのか。
「そうだよ。大変なんだよ? 青春を謳歌するっていうのは」
何もかも見通したかのようなドヤ顔で、五月雨は俺を見る。
「流石、美耶子お祖母ちゃん! 俺達が知らない事を何でも知っている! そこにシビれる憧れるゥ!」
「だれがおばーちゃんだー!」
両肩で跳ねた髪をぴょこぴょこさせて怒る五月雨。彼女の動きの一つ一つは、どうしてこんなにも可愛いのだろうか。
五月雨は、ひとしきりプンスカしたところで、両手をソファーに沈めた。
「でもさ、私も経験してみたいの」
「――青春を?」
俺の言葉に、五月雨はこくんと頷く。
「うん。辛くて悩んでも――振りかえってみれば、楽しかったねって言えるような毎日を、私は過ごしてみたい」
そう語る五月雨の横顔は、とても輝いていた。まるで、希望に満ちた朝のような横顔だった。
「――情坂君と一緒に過ごしていれば、そんな青春を送れるかな?」
ふと、こちらを見て五月雨は笑った。同時に、両肩で可愛らしく跳ねている髪がぴょこんと動いた。
俺は、そんな彼女の目を見て答えた。
「五月雨がいてくれたら、きっと楽しくなるだろうね」
五月雨が、くすりと笑う。
つられて俺も、くすりと笑う。
よし。なら、五月雨にも聞いてみるか。長月さんの時は失敗したけど。彼女は――きっと海翔がどうにかしてくれるだろう。
青春を送る為には、仲間が必要不可欠だ。
一緒に青春を謳歌する友達が――
「なあ、五月雨」
「なに? 情坂君」
五月雨が、俺の目を真っすぐ見る。黒く綺麗な瞳が、俺の言葉を待っている。
自然と、口は滑らかに動いた。
「俺達と、友達から始めませんか?」
「喜んで。私なんかでよければ」
この日。五月雨美耶子が仲間になった。