第26話 散り逝く雪花と、誓いの青
「さあ――宴の時間ですよ」
カインは不気味な笑みを浮かべると、動けなくなった葉月へ向けてゆっくりと長腕を伸ばした。血に塗れた指先が、容赦なく葉月の首元へ迫る。
「……嫌っ!」
葉月は必死に泥を叩いて後ずさろうとした。だが――。
「くっ……あぁっ!?」
右足の深傷に穿たれた激痛が走り、バランスを乱して身体が大きく傾いた。
「しまっ――」
カインの鉤爪が葉月の肌を切り裂こうとした――まさにその瞬間。
ドカッ!!
「えっ……!?」
突如として横合いから強い衝撃を受け、葉月の身体は地面を激しく転がった。
「葉月っ!!」
九十九の焦燥に満ちた叫びが響く。
葉月が弾かれた身体を起こし、涙に濡れた目を上げると――そこには、葉月を庇ってカインの腕の中に捕らえられた睦月の姿があった。
「……む、睦月……っ!?」
睦月は首元を固く掴まれ、苦しそうに細い眉を歪めながらも、転がる葉月へ向けていつものように儚く微笑んだ。
「まあ……獲物がすり替わりましたが、計画の順番が変わっただけのこと。……よしとしましょう」
カインは愉悦に目を細めると、薄い唇を大きく開いた。その口奥から、鋭利な吸血鬼の象徴たる二本の長牙が爛々と覗く。
「睦月……なんで……なんで私を……っ!?」
葉月の声が恐怖とショックで震える。睦月は静かに、掠れた声で告げた。
「葉月……あとは、任せたわよ……」
「……っ!!」
「お別れは済みましたか?」
カインが睦月の透き通るような首元へ、ゆっくりと顔を近づけていく。
「やめて……! 頼むからやめてぇぇぇっ!!」
葉月が血を吐くような悲鳴を上げる。
だが――カインの長牙が、躊躇なく睦月の白銀の皮膚を貫こうと迫った。
「嫌ぁぁぁぁぁっ!!」
ズブッ……!!
鈍く肉を穿つ嫌な音が夜の庭園に響いた。
「……ん?」
カインが眉をひそめた。
怪訝そうに牙を引くと、自身の右太ももへ視線を落とす。
そこには――。
捕らえられていた睦月が、両手で血反吐を吐きながら必死に握り締めた小瓶が、深々と突き刺さっていた。
「……なにを……?」
太ももに突き刺さったガラス瓶の中に満ちていたのは、禍々しくも神聖な赤い液体――橘千鶴の『退魔の血』。
次の瞬間。
「ぐっ……ぁぁぁッ!?」
カインの全身が激しい拒絶反応を起こし、狂ったように痙攣した。
「ぐあああぁぁぁぁぁッ!!」
身体の内側から灼熱の炎で焼かれるような激痛に耐えかね、カインは叫びながら睦月の身体を力任せに投げ捨てた。
「貴様……私に……何をしたぁぁッ!?」
「……千鶴様の……妖力を無効化する退魔の血を……打ち込んだのよ……」
睦月は膝をつき、肩で荒い息を吐きながら途切れ途切れに答えた。
カインの優雅な顔から、全ての余裕と笑みが消え去る。
「貴様は……もういい」
カインの指先から、黒い殺意を孕んだ爪が伸びる。
「死ねッ!!」
ズシュッ!!
冷酷な一閃。鋭利な黒爪が、無防備な睦月の胸元を容赦なく深く貫いた。
「……っ」
睦月の身体から、ふっと全ての力が抜け落ちる。
そのまま、力なく泥の上に崩れ落ちた。
「睦月ぃぃぃぃぃぃっ!!!!」
葉月の絶叫が、燃え盛る屋敷の空へと引き裂かれるように響き渡った。
「睦月っ!!」
九十九も叫んだ。
ドックン――……!
その瞬間。
九十九の両手の甲に刻まれていたどす黒い怨念の痣が、暴走するように蠢いた。
それは不気味な黒い蛇のように両腕の皮膚を駆け上がり、肘を越え、肩口から首元へ向けて急速に侵食していく。
「……ガッ……っ!?」
九十九の瞳から光が消え、底なしの暗闇が宿る。
『ハハハハハッ! うははははっ!!』
脳裏の深淵で、黒刀『豪鬼』の狂喜の叫びが木霊した。
『そうだ、もっと憎め! もっと呪え! 全てを破壊する怨念を我に与えよ!!』
「……やめ……ろ……」
『怒れ! 殺せ! そして――全てを我に身を委ねろぉぉッ!!』
「うあああぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
人知を超えたどす黒い妖気を噴出し、九十九は黒刀を握り締めてカインへ突進した。
ガキィンッ! ガンッ! ドゴォォンッ!!
一撃一撃が周囲の大気を破砕するような狂暴な連撃。
「なっ……!?」
カインの表情が驚愕に染まる。
「なぜだ……!? なぜ貴様の攻撃を……弾ききれん!?」
驚くカインへ向けて、九十九は正気を失った眼光のまま黒刀を振り抜いた。
「なぜ……なぜ『霧化』ができないのだぁぁっ!?」
ザンッ!!
「ぐあぁぁぁっ!?」
暗黒の刃がカインの左腕を深々と斬り裂き、紫の血が舞う。千鶴の血によって妖力を乱され、さらに豪鬼の怨念にみちた刃を受けたカインは、もはや攻撃を透過することができなくなっていた。
だが、斬撃を叩き込むと同時に、九十九の全身を覆う黒い痣が肩から首筋へとさらに深く侵食していく。
『もっとだ……! もっと魂を寄こせ、九十九ぇぇッ!!』
「九十九っ!!」
コンの切羽詰まった声が魂の奥底で響く。
『正気に戻れ! それ以上豪鬼に魂を喰われたら、お前は二度と人間には戻れなくなるぞ!!』
しかし――。
今の九十九の耳には、いかなる制止の声も届いていなかった。
目の前で苦悶する敵。
胸の奥から溢れ出る、抑えきれない漆黒の憎悪。
そして――冷たく泥の上に横たわる、睦月の姿。
「……殺す」
九十九の瞳に、禍々しいまでの殺意が宿る。
「お前だけは……絶対に許さない……ッ!!」
トドメの一撃を振り上げようとした――まさに、その時だった。
コツン……。
九十九の頭頂部に、かすかに、冷たく優しい何かが触れた。
「……?」
九十九の動きがピタリと止まる。
吸い寄せられるように、ゆっくりと視線を下へと落とした。
そこには――。
息も絶え絶えに倒れているはずの睦月が、震える小さな手を必死に伸ばし、九十九の髪に氷の法術を優しく放っていた。
「……睦月……?」
睦月は口元から血を流しながら、苦しそうに息を吐き、それでも……静かで温かい笑みを浮かべていた。
「九十九……」
「……」
「落ち着いて……心を鎮めて……妖力を巡らせて……」
その弱々しくも優しい声が、九十九の狂気に染まった胸を深く射抜いた。
「怒りに……飲まれちゃ、ダメ……」
睦月は小さく、愛おしそうに微笑む。
「あなたは……私たちの知っている……あなたのままでいて……」
九十九は歯が折れんばかりに噛み締め、両拳を固く握り直した。
「……分かった」
ゆっくりと目を閉じる。
燃えさかる炎の熱を断ち切るように、深く、長く息を吸い込んだ。
己の内に眠る、静かな妖力と人の心を巡らせていく。
そして――。
「……っ!」
九十九の腕と首を覆いつくしていたどす黒い痣が、まるで潮が引くように縮み始めた。
首から。肩から。肘から。そして――手首の先へと。
『な……なんだ!? 貴様、この我が力を押さえつけるというのか……!?』
豪鬼の驚愕の声が脳裏で小さくなっていく。
九十九が静かに目を開いた。
そこにはもう、狂気も憎悪も存在しなかった。ただ澄み渡った、強い決意の瞳があるだけだった。
「……行くぞ」
黒刀を静かに構え直す。
「カイン……ッ!」
「ば……馬鹿な……!? 怨念の力を……制御したというのか!?」
カインが恐怖に引きつった顔で後退する。
「来るな……! 来るなぁぁっ!!」
敗北を悟り、逃げ出そうと反転するカイン。
だが――九十九の踏み込みは一瞬だった。
「遅い!」
閃光のような一閃が、夜空を横一文字に切り裂いた。
ザシュッ……!!
カインの首筋から、綺麗に一筋の線が走る。
「な……カミ……ーラ……様……」
カインは消え入るような残響を残し、その肉体は黒い灰と煙となって風にさらわれ、跡形もなく消滅した。
「……終わった」
九十九は静かに黒刀を鞘に収めた。
そして一瞬の迷いもなく、倒れ伏す睦月のもとへ駆け寄った。
「睦月っ!!」
そこでは葉月が、自身の傷も顧みずに必死で睦月の胸元へ妖力を送り続けていた。
「お願い……届いてよ……!」
葉月の頬を、絶え間なく大粒の涙が伝い落ちる。
「睦月……こんなところで一人で死んだら、私絶対に許さないんだから……っ!!」
「……葉月……」
睦月がかすかに、重い瞼を開いた。
「これ……」
睦月は震える手で、自身の胸元を指し示した。そこには、かつて橘千鶴から授かった大切な法具『独鈷』があった。
「私が……千鶴様から貰った……大切なもの……」
「……っ」
「葉月が……持ってて……」
葉月の目から、ボロボロと涙が溢れ出す。
「嫌よ……! 自分で持ちなさいよ……! 元に戻ったら自分で千鶴様に返しなさいよ……っ!!」
「お願い……」
「……睦月……っ!!」
九十九はそっと、壊れものを扱うように睦月の華奢な身体を抱き起こした。
「九十九……」
睦月が力なく視線を九十九へ向けた。そして、自身の首元から外した小さな青い水晶のペンダントを差し出してきた。
「これ……私の……精一杯の妖力を込めたの……」
九十九は震える手で、その温もりの残るペンダントを受け取った。
「……ありがとう」
睦月は、どこか幼く嬉しそうに微笑んだ。
「クレープ……美味しかったなぁ……」
九十九の瞳が揺れる。
「映画館では……騒いで追い出されちゃったよね……」
「……ああ」
「みんなに怒られて……九十九、大笑いしてた……」
睦月は懐かしそうに目を細め、遠い日を慈しむように呟く。
「また……行きたいな……」
「……行こう」
九十九は溢れ出そうになる涙を必死に堪え、力強く答えた。
「また行こう! 今度は絶対に……最後まで映画を見よう! 怒られないようにさ!」
「……うん」
睦月は九十九の手を、最後の力を振り絞ってぎゅっと握り返した。
「約束……ね」
「ああ、約束だ!」
「……九十九」
「ん?」
睦月は天使のような笑みを浮かべ、はっきりと告げた。
「私……九十九のこと……大好きだよ」
「……っ!?」
九十九の目から、溢れ出た涙が頬を伝って落ちた。
「だから……絶対に……忘れないでね」
「睦月……睦月っ……!!」
睦月の身体が、儚く美しい淡い青色の光に包まれていく。
「待ってくれ……! 待ってくれ睦月ぃっ!!」
九十九が必死に手を伸ばし、その光を抱きしめようとする。
「……ありがとう」
睦月は最後まで、幸せそうに笑っていた。
そして――。
青い光が夜空へ溶けるように、静かに消え去った。
九十九の腕の中から、睦月の温もりが完全に消え去っていた。
残されたのは――九十九の手の中に握られた、小さな青いペンダントだけだった。
「……睦月……?」
返事はない。
「睦月……嘘だろ……?」
静寂が、焦土と化した庭園を包み込む。
葉月は唇を血が出るほど噛み締め、地面に伏して激しく泣き崩れた。
「睦月ぃぃぃぃっ!!!!」
九十九もまた、手の中の青いペンダントを壊れるほど強く握り締めた。
「……なんでだよ……っ!!」
声が惨めに震える。
「なんで……こんな……っ!!」
誰の答えも返ってこない。
燃え落ちていく橘家の屋敷。
膝をつき、天を仰ぐ九十九。
親友の名を呼びつづけ、泣き叫ぶ葉月。
そして――悲しみだけを抱えたその場所には、ただ冷たく不吉な夜だけが、静かに横たわっていたのだった。




