離縁まで三年、一文も渡されず竹代は講から出ていました——吸えば、お宅の羅宇だけ煤が溜まります
「銭を稼がん者に一文も渡す気はない」
朝餉の膳へ箸を置くより軽く、善助はそう言った。向かいの父は味噌汁をすすり、妹は新しい櫛で鬢を撫でる。誰の顔にも、今のは人ひとりへ三年ぶん刺さりますよ、と教えてやる親切は浮かばなかった。
お須賀は返事をせず、善助が吸い終えた煙管を受け取った。その朝、自分ですげたばかりの羅宇である。吸い口を布で拭おうとして、指が止まった。
もう黒い輪が出ていた。
早すぎる。朝の一服でこうはならない。煤が羅宇のどこかでつかえ、吸い口のきわへ寄っている。
三年ぶんの銭より先に、そちらが気になるのが、わたくしという女らしい。腹立たしい。女房の扱いより竹の具合へ目が行くなど、ずいぶん安くできた女ではないか。もっとも善助の見立てによれば、わたくしの値は一文未満である。
「聞いているのか」
「ええ。よく」
善助は銭箱へ鍵をかけた。父が頷き、妹は櫛を挿し直した。つげの厚み、細工、飾りの銀。あれなら羅宇が九十本。いや、八十七本かしら。妹の髪へ九十本ぶん挿しておいて、嫁には一文もなし。たいへん景気のよい身代である。
お須賀は吸い口を明かりへ向けた。輪は細く、くっきりと円を結んでいた。
「竹が悪かったか」
「いいえ」
「では、すげ方だな」
お須賀は煤の輪をもう一度だけ見た。節の位置を見誤ったのは、昨日、善助が勝手に削った一本だった。
「次から気をつけます」
何に、とは言わなかった。父は二杯目の汁をよそい、妹は櫛の値を訊いた。お須賀の膳だけが、手をつける前から冷えていった。
* * *
嫁入り前から積んでいた講の掛け金は、最初の冬に少し痩せた。翌年には、帳面の数字が指二本ぶんほど上へ移った。三年目ともなると、紙の余白ばかりがふっくらしている。銭というものは持ち主より正直で、なくなれば黙って空白を作る。
寒竹の納めの日、お須賀は善助より先に裏口へ回り、包んだ代を渡した。艶のよい竹は待ってくれない。節と節のあいだが長く、肉が詰まり、火を通しても暴れないものから取られていく。女房への一文は惜しくとも、得意先へ出す羅宇の艶は惜しめないらしい。家名というのは便利だ。腹も減らさず、勝手に竹代を払ってくれる——はずなのだろう。
「また、そこから出したのか」
裏口で父に見られたとき、お須賀は包みを袖へ戻した。
「納めが遅れますと困りますので」
「善助には言うな。男の顔が立たん」
「まあ」
立てるにはずいぶん銭のかかるお顔ですこと、と喉まで出た。柱一本なら羅宇が二百本近い。善助の顔を立てるために柱まで抜く日が来たら、家そのものが寝転ぶだろう。
妹は月ごとに何かを増やした。春には帯留め、夏には簪、秋には羽織の紐。お須賀は見るたび羅宇へ直した。二十一本。三十六本。あの櫛はやはり九十本。九十本ぶん挿していらっしゃる方が、吸い口の輪を一度もご存じないの、本当に不思議ですこと。
「姉さん、また同じ帯?」
「ええ。丈夫ですから」
「善助兄さんに買ってもらえばいいのに」
お須賀は笑って、削った竹を揃えた。善助兄さんから頂戴した一文を三年ぶん積めば、帯どころか糸くずも買えない。お見事。勘定の合わなさだけなら天下一でも目指せそうだ。
竹問屋から納めに来た市之丞は、土間へ束を置いても紐を解かなかった。値札にも艶にも先に目をやらず、束の端からのぞく切り口を見ている。善助が銭箱を取りに奥へ入ったあとも、その姿勢は変わらない。
「これは、どこで節を落としましたか」
お須賀は手近な一本を抜かず、束の上から指を添えた。
「節のふくらみから指二つ外です。火を入れてから切りますと、内側が寄りますから、その前に」
「刃は押しますか」
「引きます。最後だけ竹を回します」
市之丞は頷いた。褒めもしなければ、女が知ることを珍しがりもしない。工程を訊かれ、工程を答えた。それだけである。
それだけなのに、お須賀は市之丞が帰ったあと、自分の指をしばらく見ていた。いやですわ、何をぼんやりしているの。指は十本、羅宇なら一本も取れません。
善助が戻り、竹束の艶を眺めた。
「今年も上物だな。うちの名を見て選んだか」
市之丞はもう門の外だった。お須賀は講の帳面を閉じ、その上へ控え紙を置いた。減った額だけを、細い字で記した。
* * *
「お前は、すげ替えに触るな」
善助は削り台へ小刀を置き、お須賀の手元から羅宇を取り上げた。刃先が節のふくらみへ寄りすぎている。そこを落とせば、表は真っ直ぐでも中へ薄い壁が残る。
「その一本、節を跨いでおります」
「またそれか。竹なんぞ、削れば誰でも同じだ」
「同じでしたら、黒い輪は出ません」
父の眉が動いた。妹は鏡の前で櫛を抜き、髪を結い直している。櫛一本、九十本。こういうときだけ数が正確になる自分が恨めしい。
善助は羅宇を台へ打ちつけた。
「口答えするなら、もう要らん。離縁だ。家から退け」
「いつまでに」
「今日だ」
お須賀は善助の顔を見た。冗談の逃げ道はないらしい。それなら、こちらも戸口の幅を測るだけでよい。葛籠は通る。削り台は通らないし、そもそも持っていけとは言われていない。
「承知しました」
妹の櫛が、畳へ落ちた。
「姉さん、本当に行くの?」
「ええ」
「だって、急じゃない。ねえ、お父さん」
父は咳払いをした。
「善助が決めたことだ」
短い。羅宇なら半本にもならない。けれど人を家から外へ押し出すには、十分な長さだった。
お須賀は衣を畳み、針箱と講の帳面を葛籠へ入れた。削り台の脇には、使える一節を選り分けた竹が積んである。一本にも触れなかった。あれは掛け金を崩して買った竹だが、善助の家へ納まったものだ。払った者の名がなくとも、竹は竹。まことに行儀がよろしい。
最後に控え紙を揃えた。寒竹の代、火入れの炭、足りなかった納め。誰が悪いとも書かず、減った額だけを並べ、紙の下へ小さく「須賀」と記した。
削り台が空いた。
「帳面は置いていけ」
善助が言った。
「家の帳面は棚にございます。こちらはわたくしの講のものです」
「嫁が勝手に持った銭だろう」
「嫁入り前のものです」
善助は舌を鳴らしたが、取り上げには来なかった。妹は櫛を拾い、父は火鉢へ灰をかける。止める手の代わりに、それぞれ忙しいものが見つかったようで何よりである。
お須賀は葛籠を抱え、敷居をまたいだ。一文も持たされなかった。頼まれてもいないのに、朝すげた一本の向きを直してから出た自分には、少々腹が立った。
背中へ声はかからない。
門を閉める音だけが、思いのほか軽かった。
* * *
お須賀のいなくなった削り台へ、最初に座ったのは善助だった。次に父が座り、妹まで小刀を持った。三人で削れば三倍できる、という勘定だったらしい。竹が人数へ遠慮して節を消してくれるなら、そのとおりである。
善助は太さを揃え、父は表を磨き、妹は艶の違うものを脇へよけた。並べれば美しい。どれも真っ直ぐで、色も似ている。ただし中では節の薄皮が残り、煙の道を狭めていた。
最初の戻りが出たとき、善助は竹束を蹴った。
「今年の竹は質が悪い」
父は頷いた。
「問屋が手を抜いたな」
「何とかしてよ。得意先に言われるの、わたしなのよ」
妹は黒い輪の出た吸い口をつまみ、汚れもののように台へ置いた。あの指の指輪なら羅宇が四十本。指輪は煤を通さないので、たいへん役に立たない。
お須賀は頼まれて戻ったのではない。置き忘れた小鋏を受け取りに来ただけだった。土間の品を見れば、節を跨いだ切り口が三本、火を急いで歪んだものが二本。数えるな、わたくし。もうよその家です。
「お前、見れば分かるんだろう」
善助が言った。
「竹が悪いのでしょう?」
「そう言ったが……前の納めは、もう少しましだった」
「そうでしたか」
「問屋へ行って、取り替えさせろ」
お須賀は小鋏を懐へ入れた。戻れとは言わず、直せとも言わず、取り替えさせろ。善助の口は煤より詰まり知らずである。
その足で竹問屋へ寄ると、次の寒竹の代がまだ入っていなかった。お品は帳面を前に置き、何も訊かず煙管へ火をつけた。ひと吸いしてから、帳面の一行を爪で叩く。
「どうする」
お須賀は巾着から銭を出した。講に残った掛け金で足りる、最後のひと包みだった。
「これで、今度の納めだけお願いいたします」
「善助の家へ?」
「はい」
お品はもう一服した。止めもしなければ、偉いとも言わない。銭を数え、受け取った額を帳面へ書いた。
「一度だけだよ」
「はい。一度だけです」
お須賀は寒竹を一本も持たず、空の手で問屋を出た。これであの家へ渡す銭は尽きた。胸の内で言い切っても、少しも勇ましくない。ただ巾着が薄い。たいそう分かりやすい決意である。
借りた小さな裏屋へ帰ると、干し場の簀の子が風にあおられ、片脚を浮かせていた。立て直そうと袖をたくし上げたところへ、問屋の使い帰りらしい市之丞が通りかかった。
市之丞は声をかけず、荷を道端へ置いた。簀の子の風下側を持ち上げ、向きを変え、脚の下へ平たい石を差し込む。風を受けても揺れなくなると、手の埃を払った。
「あの」
お須賀が口を開いたときには、市之丞は荷を担ぎ直していた。会釈だけして、そのまま角を曲がる。
礼を言いそびれた。簀の子は真っ直ぐ立っている。人の役に立っておいて、代も礼も待たずに去るなど、商い手としてはいかがなものか。次に会ったら、きっちり申し上げなければ。
次があると決まったわけでもないのに、お須賀は石の位置を足先で確かめた。
* * *
竹問屋の奥へ、三年分の帳面が三冊置かれた。善助は腕を組み、父はその半歩後ろに立ち、妹は鼻へ手拭いを当てている。戻された羅宇が並んでいるから、煤の匂いを嫌ったのだろう。髪には例の櫛。九十本。
「うちの品を、こんな所へ並べる必要があるのか」
「並べ直す必要もないよ」
お品はそう答え、煙管へ火をつけた。何を訊かれても先に一服。帳面が三冊あろうが、怒った男が一人いようが、煙の長さは変わらない。
善助が苛立って指を鳴らす。
「竹が悪いんだ。前までは同じ削り方で通っていた」
お品は返事をせず、戻された品の中から一本だけ取った。吸い口には、細い黒い輪が浮いている。
「吸ってごらん」
「何を」
「売ったんだろ。吸ってごらん」
善助は煙管を受け取り、火皿へ刻み煙草を詰めた。火を寄せ、吸う。頬が一度へこみ、二度目にはさらに強くへこんだ。それでも煙は細い。
お品が手を出す。返された煙管を自分でひと吸いし、吸い口を外した。内側を細い灯りへ向ける。
「ここで止まってる」
節の残りが、煙の道を狭めていた。
お須賀は吸い口を覗いた。
本数が消えた。櫛も、指輪も、柱も、何本の羅宇になるか分からなくなった。黒い輪だけが、三年前の朝と同じ幅でそこにある。
お品は一冊目の帳面を開いた。
「寒竹の代。善助の名で入ってる」
「なら、うちが払ったんだろう」
「持ってきた手は誰だい」
善助が黙る。お品は二冊目を開き、最後の一行を指した。
「今度の納めも同じ額だ。けど、善助。あんたが持ってきた包みとは銭の組み方が違う」
「そんなもの、たまたまだ」
「三年、たまたまが続いたのかい」
父が善助を見る。妹の手拭いが鼻から下がった。
お品は品を数えなかった。全件を読み上げることもしない。お須賀は講の帳面を卓上へ置いた。黒い輪の出た一本と、減った掛け金と、最後の寒竹の代だけが残った。
お須賀は袖の中で指を重ねた。もう計算は要らなかった。
「わたくしは、三年、掛け金を崩してまいりました」
それだけ言うと、喉の奥が狭くなった。声を整えるために一度だけ息を入れる。
「身代は、どなたが回しておりましたかしら」
善助の口が開いた。すぐには音が出ない。
「お前が勝手に——」
言いかけて、卓上の帳面を見る。次に煤の輪を見る。それから父と妹を見た。家を養う者の顔というのは、外れるとき音がしないらしい。
よろしい。三年かかって、ようやく一文ぶんは届きましたわね。
お須賀は口には出さなかった。今ここで笑えば、黒い輪より自分の顔のほうが汚れる。けれど胸の底で、詰まっていたものがひとつ、すうっと通った。
お品が煙管の灰を落とした。
「お須賀」
自分の名が、帳面の向こうから飛んできた。誰かの嫁でも、善助の家の者でもない。ただ、お須賀と呼ばれた。
「あんたの見立てに、うちは月いくら払えばいい?」
慰めの声ではなかった。額を決めろという声だった。
お須賀は卓上の一本を取り、節の位置を指で測った。火入れ、選り分け、切り落とし、納め前の確かめ。誰の好意にも入れず、一月ぶんを数える。
「こちらで」
お品は額を見た。ひと吸いして、頷いた。
「じゃあ、それで頼む」
善助はまだ立っていた。お品はもう見なかった。
* * *
次の寒竹の納め日、善助の家の前を荷が通り過ぎた。
「待て。うちの分は」
善助が道へ出ると、お品は荷の先頭で煙管をくわえたまま立ち止まった。ひと吸いしてから、善助の家の札を帳面から外す。
「ないよ」
「代なら払う」
「納めから外した」
「うちは三代続いた羅宇屋だぞ」
「今月の品は二月で煤を溜めた」
「竹が——」
お品は黒い輪の出た煙管を一本、善助の手へ載せた。
「吸ってごらん」
善助の頬がへこむ。煙は上がらない。
(竹なんぞ、小刀さえ持てば誰でも——)
黒い輪を前に、その先は続かなかった。
お品は荷を進めた。寒竹は一本も善助の家へ曲がらず、道の先へ消えていく。受け取るはずだった土間には、古い竹束と空いた削り台だけが残った。
「何とかしろ」
父が言った。
「何とかしてよ。櫛だって売れと言われても困るわ」
妹も善助へ向き直った。三年前、お須賀が門を出たときには見つからなかった声が、今は二人ぶん揃っている。家の中というものは、責める相手の置き場所だけはすぐ決まる。
善助は別口の竹を買った。若い竹は火を入れると曲がり、乾きすぎた竹は刃の下で裂けた。節を深く落とせば薄くなり、浅ければ煤が止まる。艶だけを揃えた品は一月で戻り、次は二月で戻った。
空いた削り台へ父が座ったが、三日で腰を押さえた。妹は一度削って爪を欠き、それから小刀へ触らなかった。善助は夜まで座った。座った時間を数える者はいても、使える一節を数える者はいない。
得意先は一軒ずつ注文を減らした。すぐに全部が去ったわけではない。まず半分になり、次に名指しの直しが増え、半年をかけて戸口へ来る者がいなくなった。家の名は残ったが、名は煙を通さなかった。
お須賀はその半年、お品の問屋で竹を見た。節の間を測り、寒の締まりを確かめ、使えない束を脇へよける。善助の家の噂が聞こえても、値へ直さず、口も挟まなかった。
「向こう、また戻りが出たってさ」
お品が一服して言った。
「こちらの束は、三分ほど細いものを上へお願いいたします」
「あいよ」
それで話は終わった。善助の転落は、お須賀の仕事ではない。手を貸す義理も、数えてやる暇もなかった。
* * *
寒の朝、竹は青白く締まり、刃を当てると乾いた音を返した。
お須賀は一本を灯りへ透かし、節と節のあいだへ指を添えた。ふくらみから指二つ外し、刃を引く。最後だけ竹を回すと、切り口は薄い月のように揃った。
借りた裏屋ではない。表に削り台があり、奥に火入れの炉があり、干し場の簀の子へ朝の風が通る。大きくはないが、誰の家の分でもない一軒だった。
お品は寒竹の束を運び入れると、いつものように一服した。
「今月、何束見られる」
「五束です。六束目からは日を分けます」
「急げば?」
「見落とします」
「じゃあ五束。代はこの前の額で」
「はい。削りまで含めるものは、一本ごとにこちらを」
お須賀が紙を差し出すと、お品は数字を見て頷いた。
「安くしてないね」
「見立てに払うと仰ったのは、お品さんですもの」
「そうだった」
お品は含み笑いもせず、紙へ印を押した。乾いた音が一つ。慰めなら、とうに使い切って消える。取引は翌月も同じ額で残る。なんと頼もしいことでしょう。やさしい言葉より腹が減らない。
お須賀は最初に仕上げた一本を手に取った。煙を通し、吸い口を外して内側を見る。煤は節で止まらず、細く均等に抜けていた。
根元へ小刀の先を当てる。
須。
賀。
二文字を刻み、削り粉を親指で払った。控え紙の隅へ小さく書いたときとは違う。隠す必要のない名は、思ったより深く彫っても竹を損なわなかった。
「曲がってない」
お品が言った。
「名も竹も、でございましょう?」
「竹の話だよ」
「まあ。では名のほうは、わたくしが請け負います」
お品は一本を持って帰った。その日の昼すぎ、門前に影が落ちた。
善助だった。
以前より痩せた襟元を片手で直し、看板を見上げている。中へ入るでもなく、帰るでもない。戸口というものは、追い出す側にいるときはあれほど狭く、戻れと言いに来る側へ回ると急に高い壁になるらしい。
「話がある」
「手が離せません。そちらでどうぞ」
お須賀は竹を削り続けた。善助は削り台の向かいへ立つ。父も妹も連れていない。
「家の注文が減った」
「そうですか」
「竹も回らん」
「そうですか」
「お前なら、やり直せるだろう」
お須賀は刃を止めず、節の手前で竹を回した。切り口が揃う。
「何を、でございますか」
「うちへ戻れ」
善助は言い切ってから、銭入れへ手をやった。指先で紐を確かめ、結局は出さない。
「前のことは、もういい。家へ戻れば、銭のことも考える」
前のこと。ずいぶん小さく畳んだものである。三年をそこまで小さくできるなら、竹屑を包む紙にも困らない。
お須賀は仕上げた一本を台へ置いた。根元の「須賀」が、善助の側を向く。
「身代は、どなたが回しておりましたかしら」
善助の唇が動いた。
答えは出なかった。
「今度は払う」
「何に、いくらを」
「それは……家へ戻ってから決めればいい」
「わたくしの竹は、こちらの納めに使います。銭もこちらの仕入れに。腕は、代を払ってくださる方のために使います」
「夫婦だっただろう」
「離縁なさいました」
善助は削り台の上の一本へ手を伸ばしかけた。お須賀が見ただけで、その手は止まる。根に刻まれた二文字を読み、指を引いた。
門の外で風が鳴った。簀の子は傾かない。
「父も困っている。妹も、肩身が狭いと」
「そうですか」
「お前は何とも思わんのか」
お須賀は次の竹を取り、節の位置を確かめた。使える一節が二本。こちらは短く一本。善助の困り顔を羅宇へ換算しようとして、やめた。値をつける理由がない。
「仕事がございますので」
善助はしばらく立っていた。やがて襟元を直し、門を出た。戻れとは、もう言わなかった。
お須賀は追わない。竹も渡さない。銭も腕も、呼び止める声さえ持たせず、次の一本へ刃を入れた。
日が傾くころ、門前で足音が止まった。
市之丞が立っていた。竹束には触れず、干し場の簀の子を一度見てから、削り台へ目を移す。根に「須賀」と刻まれた一本が、暮れかけた光を細く返した。
「次の寒に入ったら、また工程を伺いに来ます」
「はい」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




