海の香りと、あの懐かしい味
「しばらく空気を変えたほうがいいかもしれませんね」
主治医のそんな言葉をきっかけに、私は夏の間、療養という名目で、領内でも温暖な港町に滞在することになった。
六歳になったばかり。
少しずつ体調は安定し始めていたものの、長時間座っているのはまだ辛いし、歩き回ればすぐに疲れてしまう。
だけど、ほんの少し動けるようになったこの体で、私は密かに心を躍らせていた。
外に出られるのは、うれしい。
この目で、世界を見て回れるのは、何よりの楽しみだ。
港町は、伯爵領のなかでも特に人と物が集まる場所だった。
市場には活きのいい魚が並び、香ばしい焼き貝の匂いが路地に漂っている。
海鳥の鳴き声と潮の香り。
町の人々の笑い声と威勢のいい呼び込み。
静かな屋敷とはまるで違う、生きた音と色にあふれていた。
私は屋敷から持ち込んだ特製の車椅子に乗せられ、ナタリーと護衛の従者と共に、通りをゆっくりと巡っていた。
ふと、香ばしい匂いに鼻をくすぐられて振り向くと、そこには見慣れた光景があった。
これって干物? それに……味噌? 醤油……まで?
目を疑った。
木の樽に入ったどろりとした液体。香りをかいで、私は確信する。
「……これ、醤油……!」
前世、日本で暮らしていた頃、当たり前のように口にしていた味。
まさか異世界で再会することになるとは思ってもみなかった。
それは完全に同じものではなかったかもしれない。
けれど、原材料と製法をざっと聞いただけで、ある程度の共通点が見えてきた。
この世界にも、似たような発酵文化があるのだ。
私はすぐに購入を決めた。
味噌、醤油、そして干した魚。
ついでに、米に似た穀物まで見つけて、思わず抱きしめそうになった。
「セレナお嬢様……!?」
慌てるナタリーの制止をよそに、私は商人と簡単な契約を交わした。
屋敷に届けてもらえるよう手配をして、その場で紙に特徴を記録する。
「これは……絶対に、再現できる……!」
体調のために遠出はできないけれど、素材を使えば、屋敷の厨房でも近い味が作れるはず。
私はすっかり研究者気分だった。
もちろん、本来の目的は療養だ。
疲れた日は静かに海を眺め、ナタリーに膝枕をされながら昼寝をする。
海風はどこか懐かしく、体の奥まで浄化されるような気がした。
食事も楽しみだった。
魚介をたっぷり使ったスープや蒸し料理。
そして、再現したお味噌汁もどきに、私は思わず涙しそうになった。
「生きててよかった……」
小さな声でそう呟いたとき、ナタリーが少し驚いたように私を見て、そしてやさしく微笑んだ。
療養という名目で訪れたこの港町。
ここで得たものは、単なる回復ではなく、心の糧だった。
そして私は、この世界でも自分らしく食べて生きていく方法があると気づいた。
小さな発見は、いつか私の生活を支える土台になるかもしれない。
そう思いながら、私はひと口、味噌を使った煮物を頬張った。
次は、これで何を作ろうかな。




