鉄壁の報告書は、耳元の囁きで溶かされました
廊下の温度が、一瞬で凍りついたかと思うほど静まり返った。
……よりによって、一番聞かれたくないタイミングで本人が現れるなんて。
「で、殿下……っ! お目にかかれて光栄ですわ!」
ミレイユを筆頭に、令嬢たちが色めき立った。
私への敵意などどこへやら、彼女たちは我先にと殿下へ群がろうと詰め寄る。その様はまさに、獲物を狙う肉食獣の群れのよう。
けれど。
「…………」
レオナルト殿下は、彼女たちが差し出した手も、熱烈な視線も、そこに石ころすら存在しないかのように完璧に無視した。
流れるような優雅さで令嬢たちの隙間を通り抜け、呆然と立ち尽くす私の前でだけ、ぴたりと足を止める。
「待たせたな。……君から直接、報告を聞きたいと思っていた」
「で、殿下……!?」
殿下は私に歩み寄ると、私が盾のように掲げていた報告書を、長い指先でひょいと取り上げた。
「『被検体:セレナ・アルトレイン』、か。私に渡すために、これほど詳細な記録を準備してくれていたとは。……愛らしい努力だ」
「愛らしい!? ……っ、違います殿下! それは貴重な研究材料を頂いた者として、当然果たすべき義務を記した書面でございます!」
私は、殿下の言葉に潜む甘さを必死に否定した。
お願いだから、これ以上誤解を招く言葉を投げないで。私の「背景人生」が、いま風前の灯火なの!
「義務、か。あの薬草は君の健康を願って贈ったものだが」
殿下の瞳が、私の反応を愉しむように細められる。
「殿下、お戯れを! 殿下がお優しいのは、我がアルトレイン家が積み上げた成果を評価してくださっているからこそ。……あくまで公務としての御関心ですよね!?」
私は必死の思いで、殿下を「熱心な研究パトロン」という枠に押し込めようと問いかけた。
殿下、空気を読んでください! 令嬢たちの目が、好奇心から「あの子、何なの!?」という嫉妬混じりの殺気に変わっているんです!
「……ふふ、そうだな。君がそう言うのなら、今はそういうことにしておこう」
殿下は、私が盾のように掲げていた報告書を、まるで極上の恋文でも扱うかのように丁寧に受け取った。そして、携えていた鞄の口を開き、その中へ大切そうに収めると、ようやくミレイユたちの方を向いた。
だが、その視線は氷のように冷たく、感情の欠片も宿っていない。
「ロッシュ嬢。彼女は見ての通り、アルトレイン家の研究に多忙な身だ。君たちの遊びに付き合っている暇はない。……あまり彼女を煩わせないでくれ」
殿下の拒絶。それは、ミレイユたちにとって「お前たちは視界にすら入っていない」と突きつけるに等しい冷酷さだった。
あまりの温度差に、ミレイユ様たちの顔から血の気が引いていく。
そんな静寂の中、殿下は私の方を向くと、不意にその長い体を屈めた。
「……行くぞ、アルトレイン嬢。続きはあちらで詳しく聞こう」
不意に殿下が私の耳元まで顔を寄せた。
至近距離から注がれる低い声と、甘く落ち着いた香りに、私の思考は一瞬で真っ白に染まった。
近い……っ! 近すぎます殿下……!!
鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響き、自分の顔が急速に熱くなっていくのがわかる。
あまりの衝撃に立ち尽くす私の耳に、カラン、と乾いた音が届いた。
視界の端で、ミレイユ様たちが信じられないものを見たかのように硬直し、今の私には、それを気にする余裕なんて一ミリも残っていない。
「ひっ……! は、はいっ!」
壊れた人形のようにぎこちなく頷くのが精一杯だった。
そんな私に満足したのか、殿下はそのまま、エスコートするように私の腰に手を添える。
「ああ、それからロッシュ嬢。二度と彼女を呼び捨てにしないでもらいたい。……彼女の友人を名乗っていいのは、私が許した者だけだ」
冷たく言い放ち、殿下は私を促すように歩き出した。
殿下、待ってください。そんな言い方、そんな抱き寄せ方、多大な、あまりにも多大な誤解を招いてしまいます。
私が必死にひねり出した「学術的な協力関係」という建前が、殿下の一挙手一投足によって、音を立てて崩れ去っていく。
腰に添えられた手の感触が熱くて、背中に突き刺さる嫉妬の視線が痛くて、もう生きた心地がしない。
ああ、私の平和で静かな「背景人生」が、今度こそ完全に終わっていく音がする。
最悪の注目を浴びながら、私は王太子殿下によって廊下の向こうへと連れ去られた。




