踏み込まれた境界線と、鉄壁の報告書
「……アルトレインとお呼びください、ミレイユ・ロッシュ様」
私は努めて穏やかに、けれど明確に一線を引くためにそう告げた。
この学園において、親しくもない格下の相手から許可なく名前で呼ばれるなんて、通常では考えられない無作法だ。ミレイユ……貴女、いくらなんでも距離感バグりすぎじゃない? 背景志望の私からすれば、その「無邪気な無礼」は恐怖以外の何物でもない。
「あ……ごめんなさい。あまりに気になってしまって、つい」
ミレイユは少しだけきまずそうに微笑んだが、その瞳に宿る好奇心は隠せていなかった。
背後に控える令嬢たちの視線も痛い。彼女たちは、どうにかして殿下との接点を掴もうと必死な家格の令嬢たちなのだろう。だからこそ、私に向けられる敵意は驚くほど生々しく、鋭い。
「先週の昼食時、学園の食堂で殿下が声をかけていらしたでしょう? あれからずっと噂になっていますの。いったい、何をお話しされていたのですか?」
ミレイユはそう言って、ぐいっと距離を詰めてきた。どうやら彼女は、あの食堂での一件を相当気にしているようだ。
私は静かに息を整え、腕に抱えた鞄にそっと手を添えた。
中には、昨晩寝る間を惜しんで書き上げた、あの琥珀色のスープを飲んだ後の体調変化を綴った詳細な報告書が入っている。
「……何、とおっしゃられましても。殿下はただ、学術的な関心から私に声をかけられただけです」
「学術的な、関心……?」
ミレイユが首を傾げる。背後の令嬢たちからは「そんなの嘘に決まってる」「はぐらかすつもりよ」という低い囁きが聞こえてきた。
嘘ではない。少なくとも、私の脳内では真実だ。
私は鞄の中から、びっしりと細かな文字と、日々の体調変化を記録した表が並ぶ数枚の書類を取り出し、そっとミレイユに見えるように掲げた。
一番上のページには、太字でこう題されている。
『下賜された配合薬草の服用における、自覚症状の改善および身体的変化に関する詳細報告書(被検体:セレナ・アルトレイン)』
「私は以前から体が弱く、我がアルトレイン家は、私を救うために代々薬学の研究を重ねてまいりました。王太子殿下は、その我が家に伝わる知見と、私の体調がどう変化するかという具体的なデータに大変関心をお持ちなのです。先週の食堂でも、殿下は協力者である私の体調を、管理責任者として確認されていただけでございます」
私は淡々と、昨晩書き殴った記録の一節を指差しながら説明を続けた。
「ここに記した通り、服用から数分で末梢神経の冷えが緩和、十五分後には背部の重苦しい倦怠感が消失しました。さらに胃部への刺激も雑味がなく……といった、極めて個人的かつ事務的な感想と数値を、私は殿下に報告する義務があるのです。殿下とは、こうした『研究成果の共有』をしているに過ぎません」
私のあまりに色気のない、そしてガチすぎる研究レポート(物理)を目の当たりにして、ミレイユと取り巻きたちは絶句した。
恋の噂を突き止めに来たはずが、突きつけられたのは「末梢の冷え」や「倦怠感の消失」といった、健康診断の結果報告のような単語の羅列だ。
「ですから、私と殿下の間に、皆様が期待されているような甘いお話は一切ございません。私はただの、データ提供者なのですから」
よし、これで押し通せる。
実際に効能がある薬草をもらったのは事実だし、その感想を紙にまとめたのも事実。この可愛くない報告書こそが私の潔白を守る最強の盾よ。
毒気を抜かれたミレイユが、ようやく納得して口を開こうとした、その時だった。
「……随分と、冷たい言い方をするのだな。私は君を、ただのデータ提供者だと思ったことは一度もないのだが」
廊下に、低く、けれど背筋が凍るほど美しい声が響いた。




