放課後の終わり、見られていた背中
地下の静謐な闇から地上へと戻ると、学び舎は茜色の夕光に染め上げられていた。
石造りの階段を一段上がるごとに、肌に触れる空気が少しずつ温かくなっていく。背後からは、規則正しい殿下の足音が聞こえていた。
「女子寮の前まで送らせてほしい。夕暮れ時は、足元も暗くなるからね」
「お気遣い痛み入ります。ですが、これ以上目立つ真似をすれば、私の目指す背景としての生活に支障をきたします。どうか、ここで」
歩きながら私が固辞すると、殿下はふっと、いたずらが成功した子供のような笑みを浮かべた。
「背景、か。……ならばせめて、その背景の一部として、私が君を視覚に収めている間は、無事に帰るのを見届けさせてくれないか」
さらりと言ってのける殿下の言葉を、私は「王族らしい、模範的な責任感の表れ」として無理やり脳内で処理した。きっと、万が一にも同伴した令嬢に怪我や事故でもあれば、管理責任を問われるからに違いない。
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします。失礼いたします、殿下」
私は逃げるように頭を下げ、足早に廊下を歩き出した。
後ろを振り返る勇気はなかった。ただ、あの銀色の瞳が、私が角を曲がるまでずっと背中に張り付いているような、奇妙な熱感だけが残っていた。
寮へと続く、人影のまばらな渡り廊下。夕闇が建物の影を長く伸ばしている。
ふと、背筋に冷たい何かが走った。
誰かに、見られている。
それは、先ほどまで感じていた殿下の熱を帯びた視線とは、決定的に質の異なるものだった。どこか遠くから、けれど射抜くような鋭さを持った、純粋な好奇心、あるいはもっと別の――。
私は反射的に立ち止まり、背後の回廊を見渡した。
けれど、そこには夕風に揺れるカーテンと、長く伸びた柱の影があるだけだ。
……気のせいだろう。地下で長時間古い本を読んでいたから、少し疲れが出ているのかもしれない。
女子寮の自室に戻り、ようやく安らぎの中に身を沈めたのは、陽が完全に落ちた頃だった。
私は例のノートを開き、秘匿図書室で得た知識を忘れないうちに書き留めていく。
「(……この触媒の使い方なら、これまでの配合を根本から見直せるわ。明日、早速試してみましょう)」
筆を走らせ、図解を書き加える。
けれど、ふとした瞬間に、あの図書室の静寂が蘇る。
私の頬を払った、殿下の指先の熱。耳元で聞こえた、あの規則正しい呼吸。
私は一度筆を置き、火照った両頬を冷たい掌で押さえた。
「……今日のは、きっと。髪が乱れていたのを、親切に直してくださっただけ。そうに決まっているわ」
声に出して呟くと、それが唯一の真実であるかのように思えてきた。
王太子殿下ともなれば、周囲の人間の身なりが整っていないことに、私のような者よりもずっと敏感なはずだ。あれはただの、マナーに基づいた親切。
そう自分に言い聞かせて、私は重いページを閉じた。
窓の外では、夜の静寂が深い青へと変わろうとしていた。




