地下の聖域、二人きりの対価
放課後の学び舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
レオナルト殿下に導かれ、私は講義棟の最下層へと続く、普段は固く閉ざされた石造りの扉の前に立っていた。殿下が手にした重厚な鍵が、耳障りなほど明瞭な音を立てて回る。
扉の向こうに広がっていたのは、窓のない、けれど驚くほど澄んだ空気が流れる空間だった。
「……ここが、特別図書室」
思わず零れた独り言が、高い天井に吸い込まれていく。
壁一面を埋め尽くすのは、背表紙の文字すら掠れた古い書物の群れ。保存のために焚き込まれた香草の、微かに青い匂いが鼻をかすめた。
「外界の光や湿気は、書物を傷ませるからね。ここはそれらを遮断し、常に一定の温度に保たれている。……おいで、セレナ嬢。君が求めていたものは、あちらだ」
殿下の後に続き、部屋の奥へと進む。
彼が指し示した机の上には、一冊の大きな書物が置かれていた。革張りの表紙には、王家の紋章が深く刻まれている。
私は、震える指先でその頁を開いた。
昨日、学園の図書館で読んでいた写本では、あまりにも残酷なほど唐突に途切れていた一節。その続きが、端正な筆致でそこに記されていた。
「……これだわ」
私は、隣にレオナルト殿下が立っていることさえ忘れ、文字の中に沈み込んでいった。
頁に記されていたのは、ある種の薬草を触媒とし、熱を加えることで成分を安定させる方法。それは私が前世の料理法から着想を得て、けれどどうしても確信が持てずにいた理論の「正解」だった。
……やはり、あの抽出方法で間違いなかったのね。これなら、あの苦味を抑えつつ、薬効を最大限に引き出せる……!
脳内で、新しい養生食のレシピが組み上がっていく。
興奮で頬がわずかに上気し、指先が熱を帯びる。
これさえあれば、私はもっと強く、もっと自由に生きていけるかもしれない。
どのくらいの時間が経っただろうか。
ふと、視界の端に銀色の髪が揺れるのが見え、私は現実へと引き戻された。
隣に座るレオナルト殿下は、本を読んでいる風でもなく、ただ静かに私を見つめていた。その距離は、昨日の図書館よりもずっと近い。
「……申し訳ございません、殿下。私、つい我を忘れて……」
慌てて背筋を伸ばし、一線を引こうとする私を、殿下の穏やかな声が制した。
「謝る必要はないよ。……君がそんなふうに、瞳を輝かせて何かに没頭する姿を、私はずっと前から見ていたかったのだから」
殿下の言葉に、心臓が小さく跳ねた。
ずっと前から、という言葉の真意を測りかねて、私は言葉を失う。
「セレナ嬢。君は、自分の命を繋ぐために、これほどまでの研鑽を積んできた。……その孤独な努力は、本来なら、誰かに称えられるべきものだ」
殿下がゆっくりと手を伸ばす。
その指先が、私の頬にかかった一筋の髪を、耳の後ろへと払った。
「だが……君がその知識を得て、誰にも頼らずに、一人でどこかへ消えてしまいそうな気がして。……私は、それが少しだけ恐ろしいのだよ」
私は、彼の指先が触れた場所に、痺れるような感覚を覚えていた。
「……殿下、私は、ただの背景のような者でございます。どなたかの横に並ぶような、そんな立場では……」
「背景、か。君がそう自称するたびに、私は自分の目が狂っているのではないかと思ってしまう。……これほどまでに私の心を掻き乱し、視線を離させない存在を、他に何と呼べばいい?」
殿下の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
地下の静謐な空気の中で、彼の規則正しい呼吸の音が、私の耳元で重なった。
「君が健やかになるための力なら、いくらでも貸そう。……だが、その対価として、君の時間を少しずつ私に預けてはくれないか」
私は、手元に広がる『禁覧録』の重みと、隣にいる男の熱の間に挟まれ、身動きが取れなくなっていた。




