衆人環視の、逃げ場のない昼下がり
今日さえやり過ごすことができたら、明日からは二日間のお休みが待っている。
昨日、図書館で交わした言葉。王太子殿下に対し、私は明確に線を引いたはずだった。
名前で呼ぶことを拒み、これ以上の関わりを辞退する。
それは、平穏を望むモブ令嬢として、もっとも正しい選択だったはずだ。
……なのに。
瞼を閉じれば、彼が最後に見せた、あのわずかな笑みが蘇る。
拒絶を飲み込み、なおも私を見つめていた、あの深い瞳。
心に重い澱を抱えたまま、私は重い足取りで学び舎へと向かった。
校舎に入った瞬間にわずかな違和感を覚えたが、今の私にはそれを深く考える余裕はなかった。
……なんだか、今日は一段と廊下が歩きやすい気がする。
すれ違う人々が、私と目が合う前にそっと視線を逸らし、波が引くように道を開けてくれる。
きっと、あまりに顔色が白くて覇気がないものだから、「今にも倒れるのではないか」と周囲に余計な気を遣わせてしまっているのだ。
どうにか無難に午前の講義が終わり、お昼休みを迎えた。
私はあえて、全校生徒が集まる最も賑やかな「中央食堂」へと向かった。
人目のない場所を選べば、また殿下が現れるかもしれない。
ならば、あえて衆人環視の真っ只中に身を置けば、立場あるあの方は近づいてこないはずだ。
……ふふ。これなら完璧だわ。
空いている席に座り、スープを一口運ぼうとした、その時だった。
ガタガタ、と周囲で椅子を引く激しい音が響き、一瞬にして静寂が食堂を支配した。
入り口の方から、誰かが歩いてくる。
その一歩一歩が、空気を震わせるほどの圧倒的な存在感。
「――やはり、ここを選んだか。君の考えることは、手に取るようにわかる」
聞き慣れた、けれど今は最も聞きたくなかった声が、頭上から降ってきた。
ゆっくりと視線を上げれば、そこには日差しを銀髪に反射させた、レオナルト殿下が立っていた。
……嘘でしょう? ここ、学園で一番人が多い場所なのよ?
周囲の令嬢たちが「殿下が……食堂に?」「あんな、甘い笑みを浮かべて……」と、息を呑むのがわかった。
あの鉄壁の王太子が、一人の令嬢を見つめて、蕩けるような慈愛に満ちた笑みを湛えている。
その衝撃に、食堂中の時が止まったかのようだった。
殿下は、私の正面に迷いのない足取りで座った。
周囲が「あの伝説の妖精姫を、殿下が公衆の面前で囲い込もうとしている……」と、畏怖と驚愕で見守っているのも知らず、私はただ、スープを飲む手を震わせていた。
「君が昨日の図書館を避けることは、容易に想像がついた。ならば、あえて人が多い場所を選ぶだろうと。……無駄な足掻きだよ、セレナ」
殿下は、私の逃げ場を塞ぐように、一通の重厚な書状をテーブルに置いた。
「……これは?」
「この学園の地下、限られた者しか入室を許されない『特別図書室』の許可証だ。本来なら、王家の者か、王家の特別な推薦を受けた者しか立ち入ることはできない。……そこに、君が昨日読んでいた文献の完本がある」
その言葉に、私は息を呑んだ。
学園内に、本当にそんな場所があったなんて。
『特別図書室』。そこには、建国以前の薬学や、魔術的な要素を含む高度な調合書が収められていると噂には聞いていた。
病弱だった私が、薬草の研究と自己管理でようやく手に入れた「人並みの日常」。けれど、その先にある「より健やかな未来」を手に入れるための知識は、市井の書物には決して記されていない。
その欠けた欠片を埋めるための扉が、今、目の前に提示されたのだ。
「君が昨日、何度も読み返していた箇所……そのすべてがそこに保管されている。……ただし、伯爵令嬢である君が一人で入ることは許されない。私の同行が条件だ」
「…………」
見透かされている。
私が何を求め、何のために人知れず本を読み漁っていたのか。
そして何より、殿下は私に「特権」を与える代わりに、私と二人きりで過ごす正当な理由を作り上げたのだ。
周囲の令嬢たちが、殿下がそこまでして私を「聖域」へ連れて行こうとしていることに絶句しているのも知らず、私はただ、スープを飲む手を震わせていた。
「……どうかな、セレナ嬢。放課後、私と共に。……エスコートを、受けてはくれないだろうか」
断れば、私の望む平穏は維持できるかもしれない。
けれど、これを逃せば、私は「真の意味で健康な未来」を永遠に失うことになる。
「……拝見、させていただきます」
ようやく絞り出した声に、殿下は満足げに、けれどひどく深い笑みを浮かべた。
「ありがとう。……待っているよ。誰にも邪魔されない場所で、君と二人になれる時間を」
立ち去る殿下の背中を見送りながら、私は震える手で許可証に触れた。




