届かぬ呼び名
放課後の図書館は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
私は窓際の机に腰掛け、一冊の厚い文献をめくっていた。薬学の本――地方に伝わる古い薬草の調合法をまとめたものだ。
この手の書物は、いずれ実家に戻ってからでも手に入れられないわけではない。だが、選定や取り寄せにはどうしても時間がかかる。
書庫の整理や保管の申請も含めれば、簡単に読めるような環境ではない。
だからこそ、この学園にいる間に、ここにしかない資料を読んでおきたかった。
在学期間は限られている。おそらく、あと一年ほどで退学し、静かに実家へ戻る予定だ。
今しかない時間を、無駄にはできない。
誰にも邪魔されず、静かに集中できるこの図書館が、私はとても好きだった。
――だったのだけれど。
「アルトレイン嬢」
背後からかけられたその声に、心臓が跳ねた。
振り返らずとも、誰の声かはすぐにわかってしまう。
静かで、どこか温度を孕んだ、王太子レオナルト殿下の声。
私はゆっくりと振り返り、背筋を伸ばした。
「……殿下。何か御用でしょうか」
できるだけ平静を装ったつもりだった。けれど、喉の奥が乾いて、声が少しかすれてしまったかもしれない。
殿下は本棚の陰から姿を現し、静かに私の机へと近づいてきた。今日もその瞳には、あたたかさと共に、どこか探るような光が宿っていた。
「偶然だ。誰もいないと思っていたのだが……運が良かったようだ」
そう言って、少しだけ微笑まれる。
穏やかで、誰にでも向けられるようなものではないと、なぜか直感してしまうような笑み。
……よくない。これは、よくない。
「殿下、私は読書の途中でして。お時間を頂戴するのは……」
やんわりと辞退の意を伝えると、殿下はふと机の上の文献に視線を落とした。
「地方薬草の調合法……珍しい本を読んでいるのだな」
「はい。薬草については多少心得がございますが、こうした書物は実家で取り寄せるとなると時間がかかりますので……今のうちに目を通しておこうと思いまして」
「……なるほど。君は、賢い方だ」
その言葉に、私は思わず本に視線を落とした。
褒められるようなことをしたつもりはない。なのに、心の奥がくすぐったくて、なんとも居心地が悪かった。
「……もし差し支えなければ、君の隣を使わせていただきたい」
予想外の申し出に、私は一瞬だけ戸惑う。
「読書の邪魔はしない。静かに本を開いているだけだ。……ただ、君のように静かな空間を、私も好ましく思う」
その声音は穏やかで、けれどどこか誠実さがにじんでいた。
「……どうぞ」
それ以上断る理由も見つけられず、私は小さくうなずいた。
殿下は静かに腰を下ろし、手にしていた本を開く。ページをめくる音すら控えめで、言葉どおり、静かに読書に没頭されているようだった。
だけど……気配というのは、不思議なものだ。
視線を向けなくても、意識をしていなくても、隣にいる気配はどうしても消えてくれない。
本に集中しているふりをしながら、私は幾度となく、意識を逸らす努力を繰り返していた。
「アルトレイン嬢」
静かな声が再び名を呼ぶ。
私はそっと顔を上げた。
「……名前で呼んでも?」
一瞬だけ、時が止まったような錯覚がした。
それは、何気ない問いの形をしていたけれど、明らかに一線を越えようとするものだった。
「恐れながら、それはご遠慮いただけますか」
できるだけ丁寧に、けれどしっかりと。
殿下の視線が、少しだけ揺れた気がした。
けれどすぐに、静かな笑みに戻っていた。
「了解した。無理強いはしない」
そう言って、殿下は本を閉じ、静かに立ち上がった。
「それでは、また」
「……ごきげんよう」
私は礼をし、殿下は何も言わずに図書館を後にした。
その背中を見送りながら、何か言いそびれたような気がしてならなかった。
けれど、何を言えばよかったのか分からない。
もう一度文献に視線を戻しても、文字はなかなか頭に入ってこなかった。
そして、誰もいない静かな廊下に出た王太子は、誰にも届かぬ声で、ひとつだけ言葉をこぼした。
「……セレナ」
その声音は、わずかに甘さを滲ませていた。
まるで、大切な宝物を確かめるように。




