1月2日(金):札書きの日/静火の三日間(2日目)
とある世界では今日は『年が明けて、はじめて筆を入れ、今年の始まりを確かめる』日。 アルメリアでは『札書きの日/静火の三日間(2日目)』として、台所の棚に「今年の段取り札」を書いて並べ、家の手順をそっと整える日。
台所の窓は、外の冷えで固く閉じたようだった。ガラスの向こうに灯路の淡い光が見える。昨日よりも、少しだけ落ち着いた色だ。
「じゃあ、机はこっち向きね。風が当たらないように」 ルミナが卓を壁際へ寄せ、厚手の戸布を少しだけ引いた。居間ほど広くない台所は、手元仕事のための部屋になる。
フィオナは硯に水を落とし、墨をする。擦る音は小さいのに、静けさの中だと、ちゃんと聞こえる。 マナ・フリーズの冬は、墨もゆっくりになる。少し濃く、少し粘り、筆先の気分まで変えてしまう。
「ねえねえ、きょうは“いっこだけ”だよね?」 レオンが半紙を抱え、早く書きたくて足先だけ跳ねた。 「うん。ひとり一枚ね。棚に並べる札は、読みやすいのがいちばんだから」 フィオナが答えると、レオンは頬を引き締めた。「ぼく、よめるやつ書く。みんなの役に立つやつ」
クリスは筆を見上げて、両手を大きく広げた。「わたし、まる書く。まる、きれい」 「まるも立派よ。形がきれいだと、気持ちも整うもの」 ルミナは笑い、クリスの前に紙を一枚だけ置いた。
アストルは、とっておきの顔をして、机の端に小さな木の台を置いた。左右に細い溝があり、真ん中に薄い金属板が挟まっている。 「新作、“筆温め台”!」 「アストル、声が大きい」とグレゴールが言い、眼鏡の奥で台を観察した。「熱源は……温石か。小型で済ませたな」 「墨が冷えて、筆先が固くなるだろ? だから、先に温めておけば、みんな気持ちよく書ける」 アストルは得意げに胸を叩き、すぐ肩をすくめて声を落とした。「今日は札書きの日だしな。静火の三日間だ、ひそひそでいこう」
フィオナは台を見て、指で木肌をなぞった。表面は滑らかだ。けれど、その“すべすべ”が怖い。新作は、たまに家の中で小さく暴れる。 「安全は?」 「熱は弱め。触っても平気」 アストルは言い切り、ルミナが念のため、温石を布に包んで机の下へ置いた。熱が逃げないように、全体の温度を穏やかに整えるための、いつもの手つき。
「じゃあ、最初はフィオナ。字がいちばん安定してる」 アストルに促され、フィオナは筆を台の溝に寝かせた。毛先がほんのり温まる。……温まる、はず。
いざ書き出すと、最初の一画で違和感が走った。筆先の片側だけ滑り、もう片側が引っかかる。 線が途中で痩せ、墨が一瞬かすれた。
「あ」 フィオナの声が、思ったより鋭く出てしまった。
アストルが肩をすくめる。「え、いまの、筆?」 レオンが覗き込み、目を丸くした。「お姉ちゃん、まちがえた?」 「間違いじゃない。……筆先が、片方だけ固い」 フィオナは深呼吸し、紙を押さえる手に力を入れ直す。落ち着けば、書ける。けれど“落ち着け”を一回言い直す必要がある日は、心が少しだけ刺さる。
アストルは台をひっくり返し、底を見た。「そんなはず、ないんだが……」 グレゴールが淡々と告げる。「“そんなはず”は、たいてい壊れている合図だ」 「父さん……もう少し、やさしく言ってくれ」 「やさしく言う。直せる範囲だ」
ルミナが小さく手を合わせた。「責めない。今は直そう。フィオナ、札は後で書き直せる」 フィオナは頷き、半紙をそっと脇へ寄せた。乾く前に触ると、余計に滲む。滲みは心にも似ている。
「よし、ばらしてみる」 アストルが言った。 「私も手伝う」 フィオナは袖をたくし上げ、道具箱を引き寄せた。父の“新作”を責めたい気持ちはない。けれど、家族の札が台無しになるのも嫌だった。
木の台の裏側は、思ったより簡単な作りだった。薄い金属板に、左右から銅の細片が触れている。小さなねじが二本。 「片側だけ固いってことは、熱が片側に寄ってる」 フィオナはねじの頭を見て、指で軽く揺らした。
ゆるい。
「……ここ、動いてる」 「うそだろ」アストルの声が小さく沈む。 グレゴールが頷く。「冬は収縮する。木も金属も、寸法が変わる。ねじは、たまに負ける」
フィオナはねじを外し、銅片を一度外した。接点に薄い白い膜がある。湿気が冷えて、極薄の結露になっていた。 「拭くね」 ルミナが乾いた布を渡す。 フィオナは接点を拭き、銅片の端を少しだけ磨いた。乾いた音がする。ここだけは、冬の冷えが役に立つ。
アストルが覗き込み、声を絞った。「ごめん。朝に、急いで作った。ねじ、ちゃんと締めたつもりだった」 「うん。だから今年は、“つもり”を減らす札にしよう」 フィオナの言い方は少し固かった。すぐに気づいて、息を吐く。 「……でも、作ってくれたのは助かった。手順だけ、整えよう」
ねじを締め直し、銅片の位置を左右同じだけ寄せる。金属板が中央にまっすぐ収まるよう、フィオナは目線を低くして確認した。 グレゴールは道具箱の中から薄い紙片を出し、台の内側へ挟む。「絶縁の紙だ。接点の暴れを抑える」 「おじいちゃん、それどこから」 「地下室だ」 「それはそれで怖い!」 レオンが叫びかけ、ルミナに口元を押さえられた。
組み直し、筆をもう一度寝かせる。 フィオナは毛先に指を近づけ、左右の温度を確かめた。今度は、均一だ。
「よし。使い方も変えよう」 ルミナが言った。「温め台は“書く前に長く置く”じゃなくて、“最後に少し整える”にする。筆先は水と手で戻る」 「最後に整える……」 フィオナは頷き、筆を軽く水で洗い、指先で毛を揃えた。温め台に短く置き、すぐ引き上げる。毛先が柔らかく戻る。
書き直しの一画は、滑らかだった。線が途切れず、墨の濃さも安定する。 フィオナは肩の力が抜けるのを感じた。道具が直ると、心の角も、少し丸くなる。
「できた!」 レオンが札を掲げた。 『くつは そろえる』 一文で、家が動く。
クリスは半紙に大きな丸を描き、もう一つ小さな丸を重ねた。「これ、ひかり。ここ、まもる」 「丸、きれい。これなら誰でも分かるね」 ルミナが笑うと、クリスは胸を張った。「わたし、よめる。ここ、あったかい」
アストルは自分の札に『工具は戻す』と書き、書き終えた瞬間に、そっと視線を逸らした。昨日の玄関で止まった足が、まだ胸に残っているのだろう。 「……うん。これがいちばん効く」
グレゴールは迷った末に『確認してから直す』と書いた。 「父さん、それ、昨日の合言葉じゃない?」とアストルが言う。 「昨日の合言葉は、今年の合言葉にしてもよい」
札は台所の棚板の上へ、一列に並べられた。乾くまで触らない。乾く前に、言い訳もしない。 フィオナは最後に自分の札を書いた。筆先が静かに動く。文は短い。けれど、胸の内側の温度だけは、文章より長い。
乾かすために棚へ置くとき、フィオナは自分の札だけ、裏返した。
「お姉ちゃん、なんで?」 レオンが首を傾げる。 フィオナは一拍おいて、答えた。「……まだ内緒。先に並べていい?」 「いいよ。ぼく、見張る」 レオンは素直に頷き、棚の前に立った。
梁の上で、スノーが羽を静かに畳む。墨の匂いを嗅ぐように嘴を鳴らし、目を細めた。 「裏返した札は、乾いたら表にしろ。冷えたまま立ち止まるな。……表にする瞬間くらいは俺が見張ってやる」




