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2月24日(火):月灯り面の日

 とある世界では今日は『顔を隠した正義の味方が、はじめて電波に乗った』日。アルメリアでは『月灯り面の日』として、子どもたちが小さな面を作り、声と息を整えて「だいじょうぶ?」を言う練習をする。面は、正体を隠すためではなく、息の速さを揃えるための道具だ。


 祝日の次の朝は、家の段取りが戻る日でもある。窓辺の冠灯は外され、金紙は箱へ。短札は乾いた順に束へ戻され、玄関の籠には洗って乾かした手袋が重ねられていた。


「きょう、ほいくえん」クリスが靴を抱える。


「走らない。溝は濡れてるから」ルミナが言い、紐を一度だけ結び直した。雪解け水が増える朝は、泥が薄く伸びる。マッド・スライドの入口は、いつも足元から始まる。


 卓の端に、白い布が細く揃えて置かれていた。フィオナが、出掛ける前に縁を縫い留めた布だ。布の角には小さな月形の紙が一枚だけ縫い込まれている。


「それ、なに?」クリスが指を伸ばす。


「口当て布。粉が舞う季節になってきたから」フィオナは針を仕舞いながら言った。「鼻と口を守る。息が早いと咳が出やすいし、目も擦りやすいから」


「おめん!」クリスの声が弾む。


「面の日だしね」ルミナが頷く。「でも、強いのは派手なところじゃないよ。息を落とせるところ」


 梁の上でスノーが片目だけ開けた。 「面を付けるなら、余計に吸え。息を止めるのが一番危ない」


 レオンは鞄を肩に掛け、戸口で振り返る。「ぼく、掲示の当番が近いって先生が言ってた。町の紙も増える時期だって」


 フィオナが頷いた。「学舎の掲示は、読む人の足元も整える。泥の季節は特に」


 それぞれが出る。家は一度静かになり、炉の火だけが残った。


 星粒ほいくえんでは、窓辺に紙の面が並んでいた。星粒ほいくえんの先生が言う。「今日は月灯り面の日。困ってる人がいたら、近づきすぎずに、落ち着いた声で聞いてみようね」


 クリスは口当て布を付け、胸を張った。面を付けると、声が少しこもる。そのこもりが、逆に自分の声をよく聞かせる。


 午前の遊びのあと、昼寝の支度が始まった。部屋の隅の「おひるね音箱」が、いつもの柔らかい音を流す。眠るための魔具ではなく、眠りへ向かう音を助ける箱だ。


 けれど今日は、音が途切れ途切れになった。柔らかいはずの揺れが、短く切れて、落ち着けない拍子になる。寝るはずの子が目を開け、隣の子が身を起こす。先生の肩が少しだけ固くなった。


「……音箱、変だね」


 クリスの胸が熱くなった。さっき、自分の口当て布をいったん外して、音箱の上にそっと置いたのだ。箱の口が見えないようにして、「まもる」と言えば、強い人みたいになれる気がした。布の内側の粉が、箱の小さな音孔に落ちたのも見た。


「わたし……のせた」


 先生は叱らず、しゃがんで目を合わせた。「教えてくれてありがとう。守りたかったんだね。でも音箱は、息の通り道が命。ふさぐと、眠れなくなる子が出ちゃう」


 迎えの刻限より少し早く、先生は短い札を書いた。『おひるね音箱の音が詰まる。口当て布の粉が入ったかもしれない。星粒ほいくえん 担当より』


 午後、ルミナが迎えに来ると、先生は包みと札を渡した。「今日中に直るなら助かります。でも無理はしないで」


「見ます。触りすぎないで、まず落ち着かせます」ルミナが受け取り、クリスの手を握った。


 フレイメル魔具修理店へ戻ると、店の戸鈴が鳴り、ちょうどフィオナも分校から帰ったところだった。包みを見るなり、彼女の目が真面目に細くなる。


「音の詰まり。粉なら、まず掃いて、乾かす」


 工房の作業台に包みを置く。フィオナは瞳守り板を灯の枠に挟み、解析眼で音孔の縁を追った。見えない粉が、縁の内側に薄く貼りついている。


「水は使わない。木が膨れると、もっと詰まる」アストルが言い、細い刷毛を差し出した。


 フィオナは蓋を全開にせず、点検口だけを開けた。刷毛で粉を集め、乾いた布で受ける。次に、音孔の縁を木べらで軽くなぞり、通り道だけを戻す。やることは少ない。少ないほど、箱が嫌がらない。


「おわり?」クリスが覗き込む。


「終わりじゃない。ここからが今日の解決」フィオナは首を振った。「粉は取れたけど、音の癖はまだ残る。すぐ鳴らすと、また詰まりの拍子を覚える」


 ルミナが棚から厚手の布袋を一つ出した。内側が柔らかい当て布でできた袋だ。「音休め袋。中で揺れを休ませる。触らずに待つための道具」


 フィオナは音箱を袋へ入れ、口を紐で一度だけ結んだ。固く結ばない。息は通し、揺れだけを落ち着かせる。


 砂時計が棚の前に置かれた。砂が落ちる間は触らない、と見える形で決めるためだ。


 待つ間に、口当て布も整え直す。ルミナがぬるい湯で布をくぐらせ、粉だけを流す。月形の紙は濡らさない。フィオナが指で押さえ、形が崩れないようにする。洗い終えた布は、戸布の近くの紐に吊るされた。直風は当てない。乾きは急がない。


 砂が半分ほど落ちた頃、レオンが初等学舎から帰ってきた。札を読んで眉を寄せる。「音の通り道、だね。ぼく、こないだ笛でやった。詰まると、変な拍子になる」


「覚えてたなら、今日のヒーローは合格」アストルが言い、すぐ声を落とした。「……ほら、派手じゃないほうのな」


 砂が落ち切った。フィオナが袋から音箱を出し、蓋を少しだけ開ける。試しの音は、いつもの柔らかい揺れへ戻っていた。音が長く、途切れない。眠りへ向かう、静かな坂道の音。


 クリスの肩が落ち、同時に口の端が上がった。「もどった」


「戻したのは、待ったから」ルミナが言う。「次は、置き場所も戻そうね」


 夕方、三人で星粒ほいくえんへ包みを届けた。先生は門の内側で受け取り、札を読んで頷いた。「助かりました。クリス、明日は“守る”を、声でやってみよう」


 帰り道、灯路番所の掲示板に新しい紙が貼られていた。回覧の刻限が、明日から少しだけ早まるらしい。レオンが読んで顔を上げる。「ぼく、明日、掲示の係だ。読みやすい高さに貼らないと」


 梁の上でスノーが、乾きかけの口当て布を一瞥して嘴を鳴らした。


「面は隠すためじゃない。息の道を整えるためだ――混ざった拍子は、削るより先に静けさで休ませろ」



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