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2月22日(日):猫真似の戯れ日

 とある世界では今日は『小さな同居人の気まぐれを愛し、柔らかな足音に倣って過ごす』日。 アルメリアでは『猫真似の戯れ日』として、歩幅を小さく、足音を軽くし、笑いながら身の回りの段取りを整える日。


 昼の雪解けが、石畳の目地にまだ残っていた。泥は薄く広がり、風が吹くたびに、花粉みたいな細いマナがきらりと舞う。フィオナは工房の戸を閉め、備え袋の紐だけ確かめてから通りへ出た。明日が祝日で、家に人が増える。パンの予備を少し多めに買う、それだけの外出だ。


 灯路の角で、レオンとクリスが「猫歩き」を競争していた。二人とも頬に細い炭線を引き、ひげの真似をしている。 「お姉ちゃん見て。ぼく、音しない」 「わたしも、しない。ねこ、つよい」 二人は得意げだが、足元は危うい。フィオナは笑いながら、先に注意を置いた。 「足は静かでも、視線は前。泥は滑るよ」 「うん! ねこ、前みる!」 レオンが返事をして、すぐ石畳の乾いたところへ誘導した。今日は真似をする日で、整える日でもある。遊びの形が、ちゃんと安全へ寄る。


 ひつじ雲ベーカリーの前は、いつもより紙の匂いが強かった。店先の台に、薄茶の袋が積まれ、肉球の印が並んでいる。ところが、印が滲んでいる袋も混じっていた。 「……あ、フィオナさん」 テオは粉のついた指で前掛けを押さえ、少しだけ困った顔をした。声は丁寧なのに、目線が一度、袋の山へ逃げる。 「こんにちは。忙しそうですね」 「はい。今日だけの袋なので、きれいにしたくて。……でも、うまく乾かなくて」 テオが見せた印は、輪郭がぼやけ、肉球の丸がつながっている。かわいいのに、惜しい。 「湿り気が残ってます。雪解けの湿りとマナ・ポーレンが混じって、インクが重いのかも」 フィオナは言ってから、胸の奥が少し熱くなった。口が先に走る癖が、彼の前では急に恥ずかしい。


「フィオナさん、解析眼……使いますか?」 「いいえ。今日は、目と手で足ります」 フィオナは袋を一枚取り、指先で紙の湿りを測った。裏側がわずかに冷たい。乾きが遅いのは、置き方の問題だ。


「台の上、全部同じ向きです。乾く面が、互いに塞がっています」 「……言われてみれば」 テオは頬を掻いて、すぐ手を止めた。「すみません。焦って、積んだだけでした」 「焦る日ほど、猫みたいに区切りましょう。小さく、順番に」 フィオナはそう言い、空いている木箱を指さした。「これ、使えます?」 「パン籠です。空です」 「じゃあ、乾き籠にします」


 フィオナは籠の底に蝋紙を敷き、さらに乾いた布を一枚かませた。湿りが回らないように、下へ逃がすためだ。次に、袋を三つの山に分ける。 「きれい」「少し滲み」「やり直し」 言葉は短く、迷いを減らす。テオが頷いて、札を書く紙片を用意した。彼の字は細いのに、角が立たない。そこに、なんでもない嬉しさが混じる。


「印を押したら、まず一枚ずつ広げて、この籠へ。重ねるのは、完全に乾いてから」 「それだと、時間が……」 「時間は、動かせます。動線を変えましょう」 フィオナは店の奥を見た。焼き窯の熱が、扉の隙間から穏やかに漏れている。 「窯の近くに、乾き棚を一段だけ借りられますか。熱に近すぎない位置で」 「はい。ここなら、パンも守れます」 テオが棚を拭き、フィオナは袋を一枚ずつ移した。滲んだ袋は、捨てない。肉球の印の部分だけ切り取り、小さな札にする。袋の口に結ぶと、今日だけの目印になる。


「それ、いいですね」 テオの声が少し明るくなる。「無駄が減る」 「整えると、残せます」 言いながら、フィオナは自分の指先が、彼の指先の近くにあるのに気づいた。紙片を渡すとき、手の甲が軽く触れた。熱い。冬の名残の冷えがあるのに、そこだけ熱い。 「……すみません」 先に謝ったのはテオだった。フィオナは首を振り、視線だけ袋へ戻す。 「大丈夫です。手は、仕事のためにあります」 言った瞬間、また恥ずかしくなる。言い方が固い。猫みたいに柔らかく言えたらいいのに。


 作業は、静かに回り始めた。印を押す。広げる。乾き棚へ。切り取る。札にする。結ぶ。 テオは途中から、印を押す力を少し弱めた。フィオナが気づいて、短く言う。 「紙が湿る日は、圧を減らす。輪郭は、あとで出ます」 「はい。……教わることばかりです」 「今日だけです。明日は、テオの番です」


 夕方の鐘が鳴るころ、袋の山は「きれい」の側へほとんど移った。肉球札の束も揃い、結び紐は絡まない長さに切り直された。 テオは小さく息を吐き、フィオナの前に、焼きたての小さなパンを一つ置いた。耳の形が三角で、表面に粉が薄く残っている。 「猫……です」 「かわいい」 フィオナは言ってから、すぐ咳払いをした。かわいいと言うと、彼まで含まれそうで怖い。


「これ、袋の余り紙で作ったんです」 テオは肉球形の小さな札を一枚差し出した。工具袋に結べる穴が開いている。 「今日の、お礼。……もし、邪魔でなければ」 「邪魔じゃないです」 フィオナは受け取り、指で穴の縁を撫でた。紙なのに、ちゃんと形がある。 「じゃあ、約束。来年は、最初から乾き籠を作っておきます。フィオナさんに手伝わせない」 テオは言って、すぐ目を逸らした。「……手伝ってもらえるのは嬉しいけど、頼りすぎも、よくないので」 フィオナの胸が、軽く跳ねる。嬉しいと言われた。そこだけ、肉球みたいに柔らかい。 「来年まで待たなくても、来週、棚を一段作り替えます。必要なら、言ってください」 「はい。言います」 テオは短く答え、耳が少し赤い。フィオナも赤い気がする。二人とも、パンの粉を言い訳にした。


 家に戻ると、ルミナが台所で鍋の火を落としていた。アストルは戸口の泥を拭き、グレゴールは椅子の背へ布を掛け直している。日曜の夕方は、家の中が次の週へ向かう音を立てる。 クリスが駆け寄り、フィオナの工具袋に結ばれた肉球札を見つけた。 「ねこの あし。だれの?」 「今日の印。お店で、もらったの」 「わたし、さがす。あしあと、ある?」 クリスは戸口の外を指さした。泥の上に、小さな点が続いている。猫のものか、誰かの遊びか、まだ分からない。


 レオンが身を乗り出す。「明日も休みだし、朝に見に行こう。ぼく、地図つくる」 「足跡は、見るだけね」とルミナが念を押す。「追いかけるのは、必ず大人と一緒」 「うん」 クリスは頷いたのに、目だけはまだ外へ残っている。


 梁の上のスノーが、いつの間にか窓側へ移っていた。外の冷えをまとっているのに、羽根は濡れていない。フィオナは一瞬だけ、どうやって移ったのか考え、すぐ考えるのをやめた。今日は「真似」の日だ。分からないものを、無理にほどかない。


 スノーは肉球札を一瞥し、嘴を鳴らす。 「足跡は嘘をつかない。……明日の道は、俺が先に踏んでおいてやる」


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