2月21日(土): 根ことばの日
とある世界では今日は『生まれた家で最初に覚えた言葉を、誰かの前で恥ずかしがらずに残す』日。 アルメリアでは『根ことばの日』として、月読み文庫へ短い詩や子守歌を持ち寄り、紙の上に「読み方」を添えて回す日になる。
夕方、王立魔法学院分校の宿題を片づけたフィオナは、台所の卓に小さな札束を置いた。輪を通す穴が空いた、厚紙の札だ。角がきれいにそろっているのに、順番だけがばらばらで、字面の温度まで散って見える。
「それ、文庫の?」とルミナが鍋をかき回しながら聞いた。
「司書ミレーユから。今夜の読み聞かせ用の札」フィオナは札束の上に指先を置き、そっと押さえた。「読み方の札が混ざった。間違えると、本人が困る」
レオンが椅子を引いて覗き込む。「読み方って、発音の? 意味も?」
「発音と意味。町の言葉と、外の言葉が違うときのための札」
クリスが手を伸ばし、すぐ引っ込めた。「それ、なくしたら、かなしい?」
「なくさない」フィオナは即答してから、少し柔らかく言い直した。「なくさないように、今から整える」
札束の上に、墨が薄くにじんだ一枚がある。読み方の欄が途中で途切れ、最後の一文字だけが読めない。フィオナの胸が、そこだけ冷える。
アストルが工房から顔を出した。「静かな危機ってやつだな。道具は壊れてないのに、段取りが崩れる」
グレゴールが湯気の向こうから言った。「言葉が崩れると、名前も崩れる。まずは分類だ。声の前に、紙の順を整えよ」
ルミナが木皿を三つ並べた。「「読む人」「読み方」「意味」。三つに分けて、そろえて戻す」
フィオナは頷き、札を一枚ずつ見て、皿へ置いた。読む人の札には所属が書かれている。仕立て屋、湯屋、灯路番所、ひつじ雲ベーカリー。読み方札は小さく、意味札はさらに薄い。
「同じ字でも、読みが違うのがある」レオンが言った。「だから、束の見分けが先。色を決めよう。読む人は白、読み方は青、意味は赤。穴に通す糸も色を合わせれば、混ざりにくい」
「いろ、ある」クリスが棚から糸箱を抱えてきた。「あお。あか。しろ。きいろ、いらない?」
「今日は三つで足りる」フィオナは糸箱を受け取り、笑いそうになって飲み込んだ。小さな手が持ってきた段取りが、今日の解決に一番近い。
まず、札の穴の周りを確かめる。紙が薄い札は、穴が裂けかけている。フィオナは端切れの紙を小さな輪に切り、穴の周りに貼って補強した。糊は少なめ。乾きは急がせず、魔法は一息だけ、湿りの偏りを整える程度に留める。
次に、色糸。白糸は読む人札、青糸は読み方札、赤糸は意味札。三束に分け、束の端を同じ長さでそろえ、結び目の位置を同じにした。結び目は急がない。ほどけないように、指の腹で形を決める。
「しまう箱も決めろ」グレゴールが言った。「戻す場所がない整頓は、散らかりの前借りだ」
フィオナは棚の下から、薄い木箱を一つ出した。去年の冬、替え紐を入れていた箱だ。内側を乾いた布で拭き、三つの仕切りを入れる。白、青、赤。札の束がぴたりと収まる幅にする。箱の蓋には小さな札を貼り、文字をそろえた。
クリスが指で札を押さえ、「しろ」「あお」「あか」と声に出して確かめる。その声が、箱の中の紙を落ち着かせるみたいに響いた。
それでも、読めない一文字だけは残った。
フィオナは札を持ち上げ、灯りへ透かした。解析眼の熱を上げすぎない。紙の繊維の影を拾うだけでいい。けれど、最後の一画が欠けていて、読みは決まらない。
「聞けばいい」ルミナが言った。「今日の札は、声のためにある」
「……聞く」フィオナは頷いて、外套を手に取った。
ひつじ雲ベーカリーの粉の匂いが、路地の角から先に届いた。テオは戸布の内側で紙包みをそろえ、角を合わせていた。作業の音が小さいのに、店は忙しそうに見える。
「フィオナ」テオくんが顔を上げる。「今夜、文庫の会、行くんだよね」
「うん。……これ、読み方の札」フィオナは問題の札を差し出した。「ここ、最後が読めない。あなたの札だから、教えてほしい」
テオは札を受け取り、指先で字の端をなぞった。笑わない。眉だけが少し動く。
「これ、うちの村の言い方だ。最後は「ぬ」」テオくんは声を落として、ゆっくり音を置いた。「母が、毎朝そう言った。短くて軽いけど、ちゃんと残る」
「……ぬ」フィオナは真似して、すぐ口を閉じた。音が逃げないように、喉の奥で押さえる。
テオくんが少し笑った。「もう一回。舌、もう少し前」
「ぬ」今度は少しだけ形になった。
「うん。合ってる」テオくんは頷いて、札を返した。「意味札は、どう書く?」
フィオナは息を吸い、言いかけた。「あなたの——」そこで止まる。代わりに、墨を整える言葉を選んだ。「あなたの村の、軽い「ありがとう」。って」
テオくんはそれで十分だと言うみたいに、紙包みを一つ差し出した。「帰り道、冷えるから。手がかじかむ前に食べて」
フィオナは受け取り、札束を抱え直す。「……ぬ」
今度の音は、逃げなかった。
月読み文庫の灯りは、雪解け水の匂いの上に薄く浮いていた。司書ミレーユが机に札を並べ、フィオナが色糸で束を分けて差し出すと、目を丸くした。
「混ざらない。読み方も、意味も、戻れる」ミレーユは札箱を胸に当てた。「いい整頓ね。声が迷子にならない」
読み聞かせが始まる。町の言葉、外の言葉、古い言葉。どの声も、今夜は同じ灯りの下に置かれた。テオの番になり、彼が短い詩を読んだ。最後に、小さく「ぬ」と添えると、客席がふっとほどけて笑った。笑いは揶揄ではなく、受け取った合図の笑いだった。
帰り道、フィオナは外套の内側で、赤糸の意味札を指でなぞった。自分の言いかけた一行は、まだ紙に落ちていない。けれど、落とす場所は決まった。札箱の一番上の、青い束の先頭。明日、そこへ書けばいい。
梁の上でスノーが本の匂いを嗅ぎ、目を細めた。 「根の言葉は、誰かの喉で生き返る。隠すほど育つものじゃない。温めたら、そのまま渡せ」




