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2月20日(金):戻り札の日

 とある世界では今日は『遠い境を越える紙には、名と日付と印が要る』日。アルメリアでは『戻り札の日』として、備え袋の底を確かめ、戻り札の印影が擦れていないか灯りに当て、歩く前に“帰り道の順”を静かに整える。


 王立魔法学院分校から戻ったフィオナは、手袋を外しながら台所の戸布をくぐった。鍋の湯気は薄い。昼の雪解けで床が少し湿り、夜の冷え戻りがそれを固くする。足裏が落ち着かない季節だ。


「おかえり」ルミナが言った。「今夜、月灯りの間は混むわよ」


 棚の端に、昨日の掲示札の写しが置かれている。『月灯りの間 冬の芝居 今夜』。紙の角が揃っていて、誰かが丁寧に扱った形だった。


「行く?」とレオンが聞いた。


 フィオナは頷きかけ、止めた。答えは胸の中で先にできているのに、口へ出すと形が変わりそうで怖い。


「……仕事が先」


 そう言った瞬間、戸鈴が鳴った。風ではない。人の手の音だ。


 入ってきたのは、月灯りの間の受付係だった。帽子の縁に粉のような白いものが付いている。舞台の飾りの粉か、外のマナ・ポーレンか、区別がつかない。


「フレイメル魔具修理店さん、助けてください。刻印器が……印が伸びます」


 受付係は小さな木箱を机へ置いた。蓋を開けると、掌ほどの刻印器が収まっている。押し板と、薄い刻印板と、底に赤い布。


「席札に押す印が、滲んで読めなくなるんです。見せ札が通らないと、入口が止まります」


 アストルが顎で促す。「フィオナ、見立て」


 フィオナは刻印器を手に取った。重さはあるのに、押し板が軽く浮く。留め金が少し遊んでいる。指で押してみると、布が湿りすぎている感じがあった。湿りは印を広げる。乾きは印を欠けさせる。真ん中だけが要る。


「試し印、紙ある?」


 ルミナが控え帳の端紙を差し出した。フィオナは一度だけ押した。印は輪郭の外へ薄く流れ、文字の角が丸くなった。


「原因を三つに分けます」フィオナは言う。「布の湿り、押し板の圧、刻印板の座り」


 受付係が息を詰める。レオンが椅子の背に手を置いた。「直る?」


「直す」


 まず留め金。フィオナは小ねじを外し、押し板の左右の支えを見た。片側だけ削れて、板が斜めに落ちる。斜めの圧は、布の湿りを一方向へ押し出す。


「当て布が要る」


 ルミナが古い蝋紙を一枚ちぎった。フィオナはそれを細く折り、削れた側の支えの下へ挟む。紙は圧の不足を埋める。ねじを戻し、板を押すと、沈み方が均一になった。


 次に布。赤い布は柔らかすぎる。冬の間、暖かい部屋に置かれたせいで、水気を吸って膨らんだのだろう。


 フィオナは布を取り外し、両手で挟んだ。絞るのではなく、押して吸わせる。


「熱を当てない」ルミナが釘を刺す。「急ぐほど、布が歪む」


「分かってる」


 フィオナは乾き布に移し、掌で数を数える間だけ圧を置いた。そこへ小さな乾かし魔法をひと息。湯気ではなく、湿りの偏りだけを整える程度。


 最後に刻印板。溝に粉が入っている。白い粉は舞台の装飾用だ。細かく、湿りと混じって泥のようになっている。


 フィオナは針金刷毛で溝をなぞり、角を潰さないように粉を掻き出した。拭き取り布を一度だけ当て、板を戻す。


「試す」


 二度目の試し印。輪郭は止まり、角が立った。


 受付係の肩が落ちる。「読めます……これなら通る」


「入口の横で、布を蓋付きの箱に入れてください」フィオナは言った。「開けっぱなしだと、外の粉が入る。次に滲む」


 アストルが笑った。「段取りも一緒に直すのが町の修理だ」


 受付係が頭を下げる。「今夜の席、ひとつ、空けます。いえ、ふたつ。お礼です」


 ルミナが目だけでフィオナを見る。逃げ道を塞がない視線だ。


 フィオナは受け取らずに言った。「代金でいい。席は……」


 その先が詰まった。


 戸鈴がもう一度鳴った。今度は粉の匂いが先に入ってきた。


 テオが木箱を抱えて立っている。小さなパンの包みだ。


「こんばんは。入口が止まると聞いて、休憩の分を早めに」


 テオの目が机の試し印へ落ちる。「直りました?」


「うん」フィオナは言い、次の言葉を探した。あなたが来ると、心が早く動く。そんなことを言う札はない。


 テオは受付係へ向き直り、丁寧に言った。「印が通るなら、客席も落ち着きます」


 受付係が頷く。「帰り道も、灯路番が点検を強めます。戻り札を忘れずに」


 戻り札。旅に出る札ではない。帰りたい場所を、迷わず指さすための札。


 フィオナは胸の内側へ手を当てた。備え袋はある。中身もある。けれど今夜は、それだけでは足りない気がした。


 テオが小さく笑う。「芝居、行くなら。帰り、川沿いは冷えます。広場側を通りましょう」


 それは誘いの形をしているのに、押してこない。


 フィオナは短く頷いた。「……うん。広場側」


 約束は小さい。けれど紙に書かなくても、刻印みたいに残る。


 夜、月灯りの間の入口で、受付係は滲まない印を一枚ずつ確かめた。刻印器は静かに仕事をする。客の列はほどけ、外の冷えも入口の灯りに吸われていく。


 フィオナは席に座り、膝の上の備え袋の角を指で整えた。隣の席から、粉の匂いが薄く漂う。テオの包みの匂いだ。


 舞台が始まる直前、彼は小声で言った。「印、きれいですね。あれなら、迷子にならない」


 フィオナは返事の代わりに、袋の紐を一度だけ結び直した。言いかけた言葉は、喉の奥で形を保つ。


 梁の上でスノーが客席を見下ろし、鼻先を鳴らした。 「旅札は遠くへ行くためのもの。戻り札は帰りたい場所を、迷わず指さすためのものだ」


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