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2月12日(木):青粉の手当て日

 とある世界では今日は『青いカビの薬が、初めて人の傷に届いた』日。アルメリアでは『青粉の手当て日』として、家や学び舎が「手当て箱」を開け、粉の瓶の口と、ふたの締まりを確かめる日。


 昼前の初等学舎は、靴底の水気の匂いがした。雪は残っているのに、陽の角度だけが少し変わっていて、廊下の石が湿りやすい。マナ・ポーレンが窓際で薄く舞い、光の中で粒が見えたり消えたりする。


「レオン、きょうの当番。手当て棚、見てきて」


 担任が指したのは、教室の裏の小さな棚だ。布箱が並び、木札で『包帯』『止血布』『粉』と書いてある。昨日が学び灯の祝日で休みだったせいか、棚の中はいつもより静かに眠っている。


 レオンは胸を張って棚を開けた。中の金具が冷えている。粉の瓶を一本、取り出す。首が短い、ふりかけるための瓶だ。


 振ってみる。


 最初の一振りで、紙の上に青みのある粉が少し落ちた。次の一振りで、何も出ない。


「……あれ?」


 瓶を逆さにしても、口の中で詰まった感じがする。力を入れれば出る気がして、レオンはつい、強く振りそうになった。けれど、粉が塊で出たら、膝を擦った子が泣く。塊は痛い。担任の「まず見る」が頭に引っかかり、レオンは瓶のふたを慎重に外した。


 内ぶたの裏に、青い点がひとつあった。針の先ほどの小さな、青。


「湿ってる……」


 昨日までの閉じた空気が、棚の中に残っていたのだろう。初等学舎の廊下は今朝から湿りが強い。泥の季節の入口で、町のあちこちが、いつもより柔らかい。


 担任が後ろから覗き込み、声を落とした。


「青いのは、粉そのものじゃない。箱の方の湿りが映ったんだね。今日は外遊びもあるし、手当てが要る。レオン、持って帰って直せる?」


「……うん。ぼく、直す」


 言った瞬間、喉が少し乾いた。直せなかったらどうする。今日、誰かが転んだら。ちょい焦りが、胸の真ん中に小さく灯る。


 昼休みの校庭は、雪解けが薄く広がり、踏むたびに泥が重い。案の定、転びそうになる子がいて、担任が先に「歩幅を小さく」と声をかけた。レオンは、粉の瓶を鞄の奥にしまい、外側から押さえた。


 放課後、レオンはまっすぐ家へ帰った。路地の灯路は昼でも淡く、境の線を細く引いている。濡れた石の匂いがする。手の中の瓶が、やけに重い。


 工房の戸を開けると、ルミナが鍋のふたをずらして湯気を逃がしていた。フィオナは机の端で、昨日の棚板に貼った乾き布を剥がしている。学び灯の祝日に整えた棚は、もう落ち着いた色に戻りつつあった。


「ただいま。これ……初等学舎の」


 レオンが瓶を出すと、フィオナの目がすぐに口元へ行った。


「湿りで詰まったね。青い点もある」


「青いの、こわい?」


「怖いときは、触り方を決めればいい。怖いまま、振り回すのがいちばん危ない」


 フィオナは布を敷き、瓶を置いた。アストルが横から顔を出し、わざと明るい声を出す。


「お、粉ふり器か。詰まりは三つ。粉が固い、口が狭い、湿りが入ってる」


「三つともかも」レオンが言うと、自分でも情けなくなって黙った。


 グレゴールが椅子に座り、眼鏡の奥で瓶を見た。


「詰まりは罪じゃない。経路が塞がっただけだ。塞がった理由を分けて考えろ」


 フィオナが頷く。「分ける。まず、瓶。次に、ふた。最後に、粉」


 彼女は小さな工具箱から、細い刷毛と、短い回し具を出した。瓶の口の金具はねじ式で、内側に薄い網が入っている。ここが詰まりやすい。


 レオンは、昨日テオ兄がくれた乾き袋を思い出し、鞄からそっと出した。小さな布袋で、中に乾いた粒が入っている。湿りを吸うための袋だ。


「これ、入れたら……だめ?」


 ルミナが眉を上げ、フィオナが笑った。


「いい発想。でも、そのまま粉の中に入れると、粒が混ざる。入れる場所を作ろう」


 ——場所を作る。


 その言葉が、レオンの焦りを少しだけほどく。直すのは、魔法ではなく、場所と手順だ。


 フィオナがねじを回す。回し具が滑り、きれいに噛まない。


「……あ」


 レオンの心臓が跳ねる。フィオナが失敗した、と思った。けれどフィオナは眉ひとつ動かさず、すぐ手を止めた。


「角が丸い。力を増やす前に、噛む角を戻す」


 彼女は回し具を替え、ねじ山に合う幅を選び直す。今度は噛み、金具が静かに緩んだ。小さな失敗は、音を立てる前に回収できる。


 外れた網の上に、青みのある粉が薄く固まっている。青い点は、内ぶたの紙の端にあった。紙は少し波打ち、ふたの縁に隙間ができている。


「ここから湿りが入った」


 アストルが指先で縁を押す。「ふたの当たりが弱い。緩んだのか、縁が痩せたのか」


 グレゴールが言う。「早春は木も布も動く。冬の乾きで縮み、雪解けで膨らむ。その往復が、ふたの縁を先に疲れさせる」


 フィオナは薄い革の端切れを出し、円を測った。ふたの内側に入る大きさで、当たりを増やす輪を作る。革輪が、ふたの隙間を埋める。


「レオン、ここ押さえて。指はねじから一節、離す」


「一節、ここ」


 レオンは言いながら、指の位置を直した。昨日の棚板の手入れで覚えた距離だ。フィオナは革輪をはめ、内ぶたの紙を新しい蝋紙に替える。蝋紙は湿りを弾く。


 次は乾き袋の場所。


 ルミナが小さな布片を二枚出した。「粉の上じゃなくて、ふたの内側に、薄いポケットを作る。粉が触れない場所」


 フィオナが針を持ち、縫い目を短く入れていく。レオンは針の動きを追い、心の中で数えた。速さじゃない。均一。


 ポケットができると、乾き袋がぴたりと収まった。ふたを閉めると、袋は粉に触れないまま、瓶の中の空気だけを乾かす。


 最後に、網を刷毛で掃く。固まりは細かく崩し、粉は紙の上へ戻す。青い点は、内ぶたの紙ごと捨てる。手当て箱に、余計なものを残さない。


「試す」


 フィオナが言って、白い紙を一枚敷いた。瓶を傾け、軽く振る。


 さら、と粉が落ちた。


 もう一度。


 今度も、同じ量が落ちた。塊はない。詰まりはない。


 レオンの肩が、ようやく下りた。


「これなら、転んでも大丈夫」


「転ばないのが一番。でも、転ぶ日は来る。その日に備えるのが、手当て箱だ」グレゴールが言う。


 ルミナが湯気の椀を机の端に置いた。「青いものは、時々、人を助けるきっかけにもなる。でも、助けになる形に整えないと、ただの湿りよ」


 レオンは瓶の側面を見た。古い刻印が、薄く残っている。読めないけれど、町の印に似た角がある。指でなぞると、段が小さく引っかかった。


「これ、どこの印?」


 フィオナが覗き込む。「……昔の灯路番の印かもしれない。明日、学校へ返すとき、担任にも見せてみよう」


 レオンは頷き、瓶を両手で包んだ。直したふたは、きちんと閉まる。乾き袋の重みが、ふたの内側で静かに働いている。


 梁の上でスノーが首を傾けた。「薬が効くかどうかは運もある。だが、ふたを閉める手順は運じゃない。古い印が気になるなら、直した後に磨け。手順のあとに、物の顔が出る」


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