2月10日(火): | 帳守りの日
とある世界では今日は『数字をそろえて書き残し、見えない抜けをなくす』日。アルメリアでは『帳守りの日』として、店と家の帳面を一度だけ開き、線が飛んでいないか確かめて、明日の段取りを軽くする日。
朝の灯路は、夜よりも静かだ。石畳の溝に残った水が細く光り、靴底を引くたびに冷たい音がする。雪解け水はまだ透明なのに、町の空気はもう湿り気を運び始めていた。紙と糸にとって、いちばん油断しやすい季節の入り口だ。
フレイメル魔具修理店の工房で、フィオナは帳面を二冊、机の中央に置いた。「依頼」と「家」。背表紙の角を指で押すと、いつもより柔らかい。湿った紙は、閉じたままでも少しずつ形がずれる。
「今日は、帳面?」台所からルミナが声を投げる。 「うん。昨日の彩札が効いたぶん、こっちの抜けが怖い」 「抜けは、あとで倍になるやつね」
フィオナは「依頼」の帳面を開き、昨日の頁を探した。テオくんのエプロンの補強。糸と当て布は家の在庫から出した。代金を取らない仕事でも、「使った」は残しておく。残す線が、次の線の目印になる。
……けれど、そこにあるはずの一行が見えない。
指先で頁の端を撫でると、紙の重なりに小さな段がある。綴じ糸が、ほんのわずか浮いている。頁が抜けたのではない。奥へ滑り込んだだけだ。気づかないまま重ねれば、抜けは本当に抜けになってしまう。
「姉ちゃん、さがしてる?」外套の紐を結びながら、レオンが覗き込んだ。 「うん。昨日の、糸の分」 「背が、ゆるい。ここ」レオンが背表紙を軽く押す。「湿ってると、糸がふくらむ」
言い方が、昨日の「入口で止める」に似ていた。段取りは、家の中で育つ。
「まず、落ち着かせる」フィオナは頷いた。
火は使わない。焦げも波打ちも、帳面の敵だ。戸布を少しだけずらして空気を入れ替え、帳面の下に薄い板を敷く。上から板を重ね、重しをそっと置く。急がない圧で、紙の形だけを戻す。
その横に、彩札を三枚並べた。
『落ち着かせる』 『探す』 『締める』
クリスがぴょこっと顔を出す。「ふだ!」 「これは、おしごとの じゅんばん」フィオナが言うと、クリスは胸を張った。 「わたし、みるだけ!」
ルミナが小さく笑い、別の札を渡した。『みるだけ』。クリスはそれを握って、ずっと見ている。
帳面を開き直すと、三枚奥に昨日の頁がいた。そこに、空欄がひとつ。糸の本数を書き忘れている。
「抜けたのは、材料じゃなくて、私の線」
フィオナは鉛筆を持ち直し、帳面の余白に小さく算盤のような点を二列打った。数を数えるためではなく、目を戻すための足場だ。目が滑るとき、人は「見たつもり」になる。見たつもりの隙間に、抜けは入り込む。
「姉ちゃん、そこまでやる?」レオンが感心半分で聞く。 「数字は、揃ってるだけだと安心しない。どこで揃えたかを書かないと」 「……学校の連絡帳も、同じだな。書いたつもり、ってやつ」
レオンの言葉に、ルミナが台所から「いい気づき」とだけ返した。
「だから帳守りの日、なのよ」ルミナの声は、鍋のふたの音と一緒に落ち着いていた。
フィオナは欄を分けた。『材料(家)』『材料(依頼主持込)』『貸し出し』。ひとまとめにしていた所ほど、気持ちが曖昧になって抜ける。抜けを見つけたら、欄を作って守る。
次に、綴じ直しだ。針箱の蝶番は静かで、蓋を開けても音が立たない。昨日までの手入れが、今日の手つきを支える。太めの針と麻糸を選び、蜜蝋を一度だけ擦る。
「穴は増やさない。もとの穴を拾う」
綴じ糸を切り、背の折り目をそろえて、同じ穴へ針を通す。糸を引く強さは半分。紙が鳴かないくらい。締めすぎれば、次に湿り気を抱えたとき裂ける。ほどよく締めて、ほどよく逃がす。帳面も布と同じだ。
戸鈴が一度鳴った。
ひつじ雲ベーカリーのテオくんが、布袋を抱えて立っていた。粉の匂いと、朝の蒸気の名残。 「おはようございます。……昨日のエプロン、助かりました。で、えっと……帳面、見てもらえますか」 「もちろん。入口で一つだけ、払ってからね。今日は紙に厳しい」
テオくんはすぐ玄関で外套を払ってから工房へ入った。昨日の札が、今日の手を迷わせない。
注文帳は角がふやけて、文字の線がところどころ薄い。書き直せば速い。でも書き直すと、別の抜けを作る。テオくんは帳面を抱えたまま言った。 「この線、残したいです。読める形に、戻したい」
フィオナは頷き、蝋紙を一枚取り出した。防湿の薄い紙だ。頁の間に差し、裏移りと湿りを止める。それから、ふやけた角に乾いた布を当てて、水分を吸わせる。擦らない。押して、離す。線を守る触り方。
「背も、ゆるい。締め直すね」 「手伝います。穴、押さえます」
二人で背をそろえ、針を通す。テオくんが穴の縁を押さえ、フィオナが糸を引く。その瞬間、同じ穴の近くで指先が触れた。ほんの一拍。紙の冷たさとは違う温度が、指に残る。
フィオナは目を伏せ、代わりに言葉で強さを揃えた。 「……半分。鳴かないくらい」 「はい」
レオンがわざと咳払いをした。「テオ兄、線、まっすぐ引けよ。抜けると怒られるぞ」 「ぼくが怒るみたいに言わないで」フィオナが返すと、レオンは肩をすくめた。 「姉ちゃん、明日、祝日だろ。段取り、増えるじゃん」 「だから今日、帳面を軽くしたの」
結び目を背の内側へ沈めると、注文帳はきゅっと形を戻した。見開きの中心がそろい、文字の並びが読みやすくなる。テオくんが掌で背を撫で、息を吐いた。 「これなら、明日も朝から書けます」 「明日は、みんな少し早い。灯りの準備があるから」
ルミナが台所で鍋を置く音を立てた。音だけなのに、背中に「気づき」の視線が乗る。フィオナは振り向かず、帳面に今日の線を足した。欄を分けたこと。糸を何本使ったか。蝋紙を一枚入れたこと。書き終えると、紙の端が机に馴染む。
梁の上でスノーが首を傾けた。 「線を守るなら、湿りも守れ。明日の灯りを見たいなら――床板のきしみも、今夜のうちに聞いておけ」




