2月5日(木):灯球連盟の日
とある世界では今日は『同じ球を追う者が、決まりごとと道具を揃えて、走りを一つにする』の日。アルメリアでは『灯球連盟の日』として、分校の灯球稽古に持つ袋を点検し、縫い目と結び目を整えてから眠りにつく日。
「灯球連盟の日だからさ。道具、ちゃんと整えないと」 王立魔法学院分校の帰り道、分校の同級生が肩から下げた革袋を少しだけ持ち上げて見せた。中で白い球が、灯路の残り明かりを受けて薄く青く光る。夜の稽古でも見えるよう、芯に小さな灯り刻印が入った灯球だ。
「整ってないのは、球じゃなくて……手袋のほう」 同級生の声が、言い訳みたいに細くなる。袋の底から出てきた捕球手袋は、親指の付け根が裂け、縁に泥の粒が噛んでいた。雪解けの泥濘、マッド・スライドの泥は重く、そこにマナ・ポーレンが混じると、乾きかけでも細かなざらつきになる。
「明日の稽古、指導役がね。“連盟の日は、手入れの出来で走りが決まる”って」 “走りが決まる”のところで、同級生は笑うふりをした。フィオナはその笑いを、見ないことにした。代わりに裂け目に指を当て、縫い糸の端をつまむ。糸は湿りを含んで、ほどけやすい。
「今夜、直せる?」 問いが落ちた瞬間、胸の内がひゅっと狭くなる。夕餉の支度、クリスのお迎え、レオンの課題の声、店の小さな直し物の山。それでも、裂け目の形ははっきりしていた。やることは、逃げない。
「直す。……でも、乾かしてから。今のまま縫うと、糸が負ける」 言い切ると、同級生の肩が少しだけ下がった。「お願い。明日の朝、取りに来る」
家に着くころ、灯路は夜の色に切り替わり、石畳の光が低く柔らかくなっていた。玄関の戸鈴が鳴り、ルミナが「おかえり」と台所から声を投げる。レオンは走ってきて、革袋を見つけた。
「それ、灯球? 姉ちゃん、夜の稽古、やるの?」 「やらない。直す」 「じゃあ、ぼくも見る!」 「見るだけね」 フィオナは釘を刺し、革袋を工房の卓へ運んだ。
まずは湿りを追い出す。温石を布で包み、手袋の内側に当てる。熱で革が少し柔らかくなると、泥の粒が浮く。刷毛で払うと、粒がぽろりと落ちた。裂け目の縁には、細い砂と花粉の膜。細挟みで一つずつ抜き、縫い穴の周りを木のへらでならす。ここで急ぐと、明日また裂ける。
「解析眼、使う?」 アストルが扉口から覗いて言った。フィオナは頷き、短く息を吸う。視界が少しだけ澄み、革の内側の繊維の向きが見えた。切れているのは端の三本。糸だけで引っ張れば、残りもほどける。
「当て革、要る。厚すぎないやつ」 「棚の二段目、鹿革の端がある」 アストルの指示は手早い。ルミナは台所から、乾いた布と小瓶を持ってきた。「広場の点検で使った油の残り。縫ったあと、縁だけ薄く」
フィオナは裂け目に沿って糸をほどき、当て革を裏側に差し込む。針に蝋引き糸を通し、縫い穴を一本ずつ拾う。革が温いうちに、針を返す。手元で糸がきゅっと締まり、縁が揃う。レオンが息を呑んで見ているのが、背中でも分かった。
「姉ちゃん、職人みたい」 「仕事だから」 言った瞬間、口の中が少しだけ甘くなる。今日の“職人”は球のほうの話でもあるのに、口から出たのは自分の足元だった。
戸鈴が控えめに鳴った。ひつじ雲ベーカリーのテオくんが、粉袋に使う目の詰まった布を腕に抱えて立っていた。頬が少し赤いのは外気のせいか、炉の熱の名残か。
「こんばんは。遅い時間にごめん。これ、余り布。花粉の季節、袋を分けたほうがいいって思って」 「助かる。入って」 ルミナが「いらっしゃい」と言い、テオくんは靴を揃えて頭を下げた。「お邪魔します」
レオンが顔を出す。「テオ兄! きょう、粉のにおい、つよい」 「うん。今日は粉が舞った。だから余り布も増えた」 クリスが遅れて覗き、「ておおにいちゃん」と言って手を振る。テオくんは目尻を下げ、指先だけで小さく振り返した。
テオくんは卓の上の手袋を見て、目を瞬かせた。「灯球の手袋?」 「分校の子の。明日の朝までに」 フィオナが言うと、テオくんは頷き、布を二枚、卓の端へ置いた。
「マナ・ポーレン、縫い目に入ると厄介だ。球と手袋を同じ袋に入れると、擦れて粉が押し込まれる。内袋を二つ。ひも口だけでいい」 「……間に合うかな」 「切るのは僕がやる。縫うのは、あなたが速い」 言い切る声が、いつもより少しだけ小さい。フィオナは返事を急がず、針を置いて布を手に取った。目が詰まっていて、粉が通りにくい。
布の端を折り返し、口になる側だけ二重にする。縫い代を揃え、角を落として袋の形を決める。テオくんが布を押さえ、フィオナが針を走らせる。肩が近い。近いのに、邪魔はしない距離だ。糸を引くたび、温石の熱とは別の温かさが、指先の奥へ残る。
「ぼく、ひも通す係、やる」 レオンが言い、細いひもを手に取った。クリスは真似をして、「わたしも」と短く言う。ルミナが笑って、二人へ短いひもと、先の丸い通し針を渡した。
「きゅって、むすぶ?」 「そう。ほどけない結び目で」 フィオナは言いながら、自分でも結び目を作った。道具を守る結び目。明日の走りまで、持たせる結び目。
内袋が二つ、卓に並ぶ。球の袋と、手袋の袋。乾いた布で袋の内側をもう一度なで、粉の残りを落とす。手袋の縫い目の縁へ、油を薄くのばす。革の色が少しだけ深くなり、裂け目の跡が目立たなくなる。
革袋に、二つの内袋を収める。最後に短い札を一枚、差し込んだ。字は短い。けれど手順は迷わない長さにする。
『泥は乾かしてから払う。花粉は濡らさず落とす。縫い目を引っ張らない』
テオくんが札を見て、「分かりやすい」とだけ言った。その言い方が、褒め言葉を小さく畳んで渡すみたいで、フィオナは視線を上げられなかった。
「朝、分校の近くを通る。渡しに行くなら、一緒に行こうか」 「お願い。……助かる」 「うん。任せて」 その“任せて”が、結び目より軽いのに、ほどけにくい感じがした。
夜更け、灯路の光が窓の縁をなぞる。外は雪解けの水が流れ、どこかで泥が沈む音がする。フィオナは工房の棚に革袋を置き、指先の糸の感触を拭った。明日の朝、ちゃんと渡せる。そう思うと、胸の狭さが少し戻って、代わりに静かな重さが残った。
梁の上でスノーが羽を整え、下を見て鼻で笑った。「プロってのは派手な投げ合いじゃない。縫い目が切れそうな場所を先に見つけて、花粉が入る前に袋を分けられる奴のことだ」




