2月3日(火):戸口祓豆の日
とある世界では今日は『季節の境目に入り込む厄を払い、家の内側を軽くする』日。アルメリアでは『戸口祓豆の日』として、豆を焙って戸口を清め、札袋で“通り道”を整える日。
夕食の皿が片づき、居間の灯りがいくつも低くなるころ、フィオナは台所の端の木箱を引き寄せた。分校の工房室の印が押された箱だ。中には、丸筒に取っ手がついた豆煎り器と、折り目のまっすぐな短札が一枚。
短札には、今日の課題が書かれている。
——戸口を守る「祓豆札」を作る。焙った豆を一握り。札袋に入れて、明日の朝に掲げる。
家でも同じように豆を焙って、戸口に撒く日だ。学院の課題と家の風習が重なるのは、一枚の札が二つの役目を背負うみたいで、落としたくない。
「わあ、まめ!」
先に気づいたのはクリスだった。椅子によじ登り、箱の縁を覗き込んで、頬を膨らませる。
「投げる?」
「投げるのは、焙ってから」
フィオナが言うと、レオンが腕組みをしてうなずいた。
「生だと、床が滑る。去年、ぼく、すべった」
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ。おしりが冷たかった」
言い方が真面目すぎて、アストルが笑いをこらえた。グレゴールは湯呑みを置き、豆煎り器を一度だけ指先で叩いた。
「今日は戸口祓豆の日、だな。外に追い出すのは、影と、冷えと、余計な迷いだ」
「影って、なに」
レオンが聞く。
「気づかないうちに、靴に付く泥みたいなものだよ」
グレゴールは言って、窓の外を見た。灯路の光が薄い霧ににじみ、道の端に小さな水たまりが残っていた。
フィオナは豆煎り器の口を開け、乾いた豆をすくって入れた。炉の上に置き、取っ手を回す。
一回、二回。
三回目で、手首に嫌な重みが来た。筒の中で何かが擦れる音。取っ手の戻りが遅い。フィオナは回すのをやめ、耳を近づけた。
「きし……」
音が短く鳴って、止まる。
「壊れてる?」
クリスが身を乗り出す。
「壊れてない。……たぶん」
言い切れなかったのが自分でも嫌で、フィオナはもう一度だけ回した。今度は取っ手が半拍遅れて、手のひらに返ってくる。焦げの匂いが、ふっと立った。
「止めて」
アストルがすぐに言った。声は穏やかなのに動きが速い。炉の火を絞り、筒を持ち上げる。
「焦げる前に冷ます。焦げは香りを壊す」
「……ごめん。学校の道具、なのに」
フィオナは短札を押さえた。返す前に、ちゃんと動くようにしないといけない。家の豆も焙らないといけない。
焦りが喉の奥で固まりかけたとき、レオンが口を開いた。
「ねえ、分解していい? ぼく、ネジ並べる」
「レオン」
グレゴールが諭すように呼ぶ。
「だって、いま、止めたままだと、明日、困る」
その言葉が、今日の短札より短く、正しかった。
フィオナは息を吐き、台所の隅の工具箱を引き出した。刷毛、布、ねじ回し、薄い金具抜き。並べる場所に黒い布を一枚敷く。
「落ちたら見つけにくいから、布の上」
「うん。ぼく、ここに置く」
レオンは布の端に指で四角を作った。そこが“ネジの場所”になる。
豆煎り器は熱が残っている。フィオナは掌で近づけて、まだだと判断し、短札の裏に段取りを書いた。
——冷ます。外す。掃く。合わせる。締める。回す。
熱が落ちた頃合いで、側板の留め金を外す。ネジは四本。一本ずつ、レオンの四角に置く。レオンは声に出して数えた。
「いち。に。さん。よん」
クリスも真似して言う。
「いち。に。さん。よん!」
「よん、は、ここで終わり」
フィオナが微笑むと、クリスは首を傾げて豆を指さした。
「まだ?」
「まだ。今は、中を助ける」
側板が外れると、内側の歯車と軸が見えた。歯の間に薄い紙片が挟まっている。札の端みたいな白。
「これ……分校の札片だ」
フィオナはピンセットでつまみ、そっと引き抜いた。紙は熱で端が茶色い。
グレゴールが覗き込み、眉を寄せる。
「工房室で札を書いて、切ったときの屑か。歯車の間に落ちると、軸がずれる」
アストルが首を振る。
「掃除はしても、季節が変わると滑りが変わる。今は凍りがほどけ始めてる。湿りは紙を貼りつかせる」
フィオナは刷毛で歯車の間を払った。舞った粉が灯りの中で小さく光り、鼻がむずがゆい。
「……魔力花粉だ」
グレゴールが言った。
「もう?」
「もう。見えないだけで混ざってくる。だから余計に、道具は乾いた状態にしておく」
アストルが小瓶を寄こした。油ではなく、薄い蝋を溶かしたもの。指先にほんの少し取り、軸の付け根に塗る。
「多いと豆に匂いが移る。ひと息分だけ」
フィオナは頷き、真似して塗った。軸の輪留めを少し緩め、位置を戻す。歯車の噛みが真っ直ぐになった。
「……回してみる」
豆を入れずに取っ手を回す。重みがない。音も、短い呼吸みたいに静か。
「いい」
レオンが言う。
「まだ、組む」
フィオナはネジを戻した。一本ずつ、対角に締める。
「に、いち、さん、よん、じゃなくて……」
「こっちと、こっち。交差」
レオンが両手で斜めに線を引く。去年の尻より、ずっと役に立つ記憶だ。
最後に蓋を閉め、豆を入れる。炉に戻し、火を弱めて、取っ手をゆっくり回す。
今度は、豆が筒の中で転がる音だけがする。匂いが焦げではなく、香ばしさに変わっていく。
「いいにおい」
クリスが嬉しそうに言った。
「おに、こない?」
レオンが考えてから言う。
「影は、道具のすき間から入る。だから、塞ぐ」
グレゴールが笑った。
「その言い方は、学院の先生みたいだな」
豆が焙り上がると、フィオナは布の上に広げて冷ました。冷めたところで札袋を出す。
札袋は小さな布袋で、縫い目に赤い糸が一本走っている。中に豆を一握り入れ、口を細紐で縛った。
「これ、明日の分校にも?」
アストルが聞く。
「うん。先生に渡す。朝、掲げるって」
「家の分も、作った?」
「作る。今」
二つ目の札袋に豆を入れながら、フィオナは短札を一枚切った。戸口に結ぶ札だ。
——灯を内へ。冷えを外へ。
レオンが赤い布を頭に巻いて戻ってきた。
「ぼく、鬼役」
「鬼は外へ追い出す役なのに、なんで自分からやるの」
フィオナが言うと、レオンは胸を張った。
「追い出される練習。来年はもっと上手に追い出される」
アストルが頷き、クリスの手のひらに豆を三粒だけ載せた。
「クリスはこれだけ。いっぱい投げるのは、大きい人の役」
「さんつぶ!」
戸口の前に立つと、外の冷えが頬を刺した。灯路の明かりが道を細く照らし、水たまりの表面に薄い氷が戻りかけていた。
フィオナは戸口の木に札袋を結び、短札を添えた。指がかじかむが、紐はほどけない。
「いくよ」
アストルが言う。
レオンが鬼の顔をして構える。クリスが豆を握りしめ、口を丸くする。
「——影は外! 灯は内!」
豆が戸口から外へ散り、石畳に跳ねた。レオンは大げさに倒れ、クリスが笑う。
「もういっかい!」
「一回でいい。足りない分は、明日、札で補う」
戻って戸を閉めると、家の中の暖かさが戻った。焦りで固かった肩が、少しだけほどける。
台所の隅に置いた豆煎り器は、もう静かだ。紙片ひとつで止まっていたのに、戻してやれば、ちゃんと回る。
「明日、立春だって」
グレゴールが湯呑みを持ち上げながら言った。
「春って、まだ寒いのに」
フィオナが返すと、アストルが頷く。
「暦の春は、手順の春だ。道具を回せるようにする。戸口を整える。そういう小さな動きが先に来る」
フィオナは明日の段取りを頭の中で並べた。分校へ札袋を持つ。豆煎り器を返す。今日の短札を提出する。
やることは多い。けれど、ひとつ直したら、次が見える。
梁の上でスノーが首を傾げ、静かに言った。「春は戸口じゃなく、軸の真ん中から入る」




