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2月1日(日):写し声の日

 とある世界では今日は『遠くの声と形を、同じ刻にいくつもの窓へ届ける』日。 アルメリアでは『写し声の日』として、広場の掲示板の脇で町の知らせを読み上げ、離れた角でも聞こえるかを確かめる日だ。声は糸のように細い。けれど糸が結ばれれば、町は一つの布になる。


 朝、台所の鍋が温まり、湯気が窓の内側を曇らせた。フィオナは曇りを布で拭き、戸口の内側の受け箱を見た。箱は空だ。


 昨日、灯り文の約束は届いた。テオくんは来て、短い言葉で「来る」と言った。


 それでも胸の奥は、まだ少しだけ冷たい。言葉が届くのと、心の口が同じ速さで整うのは別だと、知っているから。届いた言葉の続きが、今日のどこかでまた戻るのか。それとも、戻らないままでも暮らしは進むのか。決めきれない沈黙が、薄い湯気みたいに胸を揺らす。


「きょう、ひろばのひ、だよね」クリスが椀を抱えたまま言った。 「うん。声を届ける日。だから、耳もきれいにする日」ルミナが笑って、クリスの耳当てを整えた。 レオンが箸を置く。「声が届くかって、風で変わる。霜があると、音が吸われる。昨日の灯路も、鳴り方が鈍かった」


 アストルは工房の棚から、ねじ回しと刷毛を一本ずつ選んだ。


「広場の掲示板の読み上げ口金は、去年の秋に替えた。冬の霜に弱い革を使ってないはずだが……今日は念のため、油と乾いた布も持つ」


 フィオナは自分の手袋を見た。指先は温い。けれど心は、温め方を探している。


 戸布が揺れ、戸鈴が控えめに鳴った。訪ねてきたのは灯路番所の見習いで、息が白く途切れている。


「広場の掲示板の読み上げ筒が、詰まりました。今朝、試し読みをしたら、広場の外へ抜けなくて。板の文は読めても、声が渡れません」


 アストルが頷く。


「読み上げ筒だけか。掲示の合図鈴は鳴るか」


「鳴ります。呼び紐も動きます。助け鈴の柱とは別の合図鈴です」


「なら、中だ。霜か、粉か、革の縮みだな」


 レオンが立ち上がる。「ぼく、反対側で聞き役する。届くかどうか、距離で変わるから」 「走りすぎない」ルミナが釘を刺す。 クリスは椀を置き、両手を挙げた。「わたし、きく。おおきいみみ」 フィオナは笑いそうになって、すぐ息を飲んだ。大きい耳が必要なのは、声を出す側より、受ける側だ。


 広場へ向かう石畳は、灯路の薄い光が昼にも残っていた。噴水のそばに、広場の掲示板がある。板の横に、読み上げ筒の口金がひとつ付いている。口金は真鍮で、縁に白い粉がこびりついている。粉は霜の粉か、パンの粉か、見分けがつかない。


 アストルは指先で縁をなぞり、顔を近づけた。


「冷たすぎる。内側が結露して、そこで凍った」


 フィオナは解析眼を開き、筒の内側の影を追う。光が途中で歪む。そこに薄い膜がある。膜は声を飲む。声だけを飲むのではない。息の温度も、言葉の端も、いっしょに。


「外して乾かす」


 アストルが決めた。ねじを外す音が、こつこつと硬い。口金の下から革の輪が現れ、輪の端が縮んで反っていた。霜が革を締め、隙間を作り、そこへ湿りが入り込んだのだ。


 レオンが身を乗り出す。


「だから声が逃げたんだ。筒の中で息の回りが乱れる」


「よく見てる」


 アストルが言い、革輪を布で包んだ。


「でも触るな。手の温度で形が歪む」


 掲示板の裏には、番所が使う小さな火鉢があった。番所の人が火を起こし、アストルは金具と革輪を離して置いた。乾くまでの間に、筒の内側を刷毛で掃く。霜の粉が舞い、鼻の奥がつんとする。


 フィオナは細い棒に布を巻き、筒の曲がりの奥まで押し入れた。布が引っかかる。引き出すと、白い粉が布に筋を作っていた。粉の中に、甘い香りが混ざる。


「パンの粉だ」フィオナが言った。


 見習いが照れた。


「朝、向かいの焼き窯が……広場の風が、運びました」


「匂いは歓迎だが、粉は詰まる」


 アストルが言い、筒の口に薄い麻網を当てる枠を作り始めた。枠は木。網は麻。風を通し、粉だけを止める。


 そのとき、広場の端にテオが現れた。灰色の外套の肩に霜が点々と付いている。フィオナは喉が鳴るのを感じた。声が出る前に、胸が先に揺れた。


 テオは近づき、目だけで事情を読んだ。


「写し声の日だって、伝言屋の前で聞きました。手が足りない?」


「足りる……と言いたいけど」


 アストルが真面目に言う。


「支えが一人いると助かる。枠を付ける間、筒を持っていてくれ」


 テオが頷き、読み上げ筒を両手で支えた。手袋越しに真鍮が鳴らないよう、力を均す。フィオナはその指の動きを見て、昨日の短い言葉を思い出した。言葉は短いほど、手つきで続く。


 作業が終わり、革輪は火鉢の熱を吸って柔らかさを戻した。アストルは輪を元の位置へ戻し、ねじを順に締める。締める順番を変えると、口金が歪む。歪めば声が曲がる。


「試しだ」


 アストルが掲示板の脇に立った。フィオナは広場の北角へ歩き、レオンは東角へ走り、クリスはテオの外套の裾を掴んで西へ進む。見習いは番所の柱のそばで耳を澄ました。


 アストルが息を吸い、短く言う。


「本日の知らせ。正午、礼拝堂の前で、迷子の白い猫の札を受け付ける」


 声は筒を抜け、広場の石畳を滑り、灯路の角で跳ねた。フィオナの耳に、言葉の輪郭が残った。残ったのは音だけではない。息の温度も届いた。


 レオンが手を挙げる。


「聞こえた。さっきより明瞭。跳ね返りが減った」


 クリスが跳ねて、短く叫ぶ。


「きこえた。ねこ、しろい」


 テオが笑い、フィオナの方へ視線を送った。視線は声より静かで、けれどまっすぐ届く。


 昼。家に戻ると、ルミナが粥ではなく、薄い麦のスープを用意していた。今日の冷えには、飲む熱が要る。テオくんも椀を受け取り、手のひらで温める。


「声って、不思議だね」


 フィオナは言った。


「同じ文でも、届く形が違う」


「形は、受ける側の器で変わる」


 テオが答えた。


「でも、今日は器の方も直した。だから届いた」


 その言葉が、フィオナの胸の奥の氷をほどいた。器を直す。読み上げ筒を直すのと同じ手つきで、心の口も整える。


 食後、テオは小さな布袋を差し出した。中で乾いた豆が鳴る。


「3日に炒るって聞いた。家で余った分。手間が減る」


 フィオナは受け取り、袋の口を結び直した。結び目は堅くしない。明日、すぐ解けるように。今日の修理と同じだ。


 梁の上で、スノーが羽をたたみ、片目で広場の方角を見た。 「写した声は戻らない。明日の朝は耳を空けて、受ける器を整えろ。」



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