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1月27日(火):合図旗の日

 とある世界では今日は『大勢が同じものを見て、同じ向きを向けるように。遠くからでも分かる印を決める』の日。 アルメリアでは『合図旗の日』として、家や学舎の合図布を点検し、色と結び目を整える日。


 朝の石畳は、灯路の淡い残り火みたいに冷たかった。霜が薄い膜になっていて、靴底が少しだけ鳴る。レオンは胸の前で細長い筒を抱え、歩幅をいつもより小さくしていた。筒の中身は、初等学舎の避難訓練で使う「組の合図旗」。自分の組が集まる場所を示す、目印の布だ。


「落とすなよ、組旗」アストルが冗談めかして言うと、レオンは真顔で頷いた。 「落としたら、組が迷う。迷うと、先生が数え直す。数え直すと、時間が延びる。だから、落とさない」


 理屈が並ぶのは、本人が焦っている証拠だった。フィオナは台所で、昨夜の灯り替えで拭いた盆を、今朝は別の役目に使う準備をしている。水鉢と砂、火受けの皿――危険の置き場を作る段取りは、今日は「合図の置き場」に変わった。


「旗、昨日のうちに乾かしたんだろ?」フィオナが聞く。 「うん。干して、裏も返して、ちゃんと乾いた。……はず」


 レオンは言い切れなかった。冬の乾きは、手触りで分かりにくい。表は乾いていても、折り目の奥に冷たい湿りが残ることがある。マナ・フリーズの空気は、布の隙間にまで入り込んで、乾いたふりをする。


「大丈夫。念のため、結び目だけ見せて」 フィオナが筒の紐をほどくと、布の端が少し硬い。指で押すと、ぱり、と小さく跳ね返った。


「糊、入れた?」ルミナが鍋を見ながら言う。 「入れた。先生が、『遠くで形が崩れないように』って」レオンは答え、すぐに続けた。「でも、入れすぎたかもしれない。旗って、きれいに広がらないと意味がないのに」


 その言い方が、もう半分失敗を想像している。フィオナは笑わずに頷いた。 「じゃあ、広がるか、試験しよう。学舎で困る前に」


 家を出る前、家の前の角――灯路の通り角に立つ助け鈴の柱まで歩く。柱の根元には願い石が埋め込まれていて、霜と砂を払う刷毛がいつも横に置かれている。レオンは刷毛で石の溝を掃き、柱の紐を避けるように、旗をそっと結びつけた。


「風、今日ちょっと横だな」 レオンは自分の手のひらを上に向け、空気の流れを確かめた。固有魔法の風は出さない。訓練の旗に勢いをつけたら、誰かの帽子が飛ぶ。ヒーロー心はあるけれど、最近は「段取りの邪魔をしない」のもヒーローだと学んでいる。


 旗を引く。布は……開かない。硬い折り目が、そのまま板みたいに残り、赤い印が半分しか見えない。


「うわ……」レオンは息を止めた。「これじゃ、組が見えない」


 クリスが後ろで、上着の袖を握っていた。 「わたしのえんも、きょう、ひなん。はた、ふる」短く言って、目をぱちぱちさせる。 「そう。だから、レオンのも、ちゃんと振れないと」ルミナが静かに言った。


 レオンは自分で旗を外し、筒に戻した。戻す手つきが早い。隠すみたいに。 「ぼく、学校で直す。時間、あるから」 「今日、午前の集合で一回やるよね」フィオナが確認する。 「……やる」 「じゃあ、午前の前に、できるだけ整えて持たせたい。いったん台所。折り目をほどこう」


 台所に戻ると、フィオナは盆の上に布を広げた。白地の端が、ところどころ毛羽立っている。糊が乾いて、繊維が立った跡だ。レオンは自分で塗った糊の量を思い出して、肩を落とした。


「原因は、糊そのものじゃないかもしれない」フィオナは指先で折り目をなぞった。「折り目の中に、湿りが残って凍った。それで、糊が布の奥で固まり直した。だから板みたいになる」 「じゃあ、乾かし直せばいい?」 「うん。でも、ただ温めるだけだと、端が縮む。順番が要る」


 フィオナは水鉢にぬるい水を作り、布の折り目だけを軽く湿らせた。全部を濡らさないのは、赤い印を滲ませないためだ。次に、乾いた布で挟み、上から木の板を当てて押す。圧をかけて折り癖をほどく。魔法は最後の「乾かし」にだけ使う。物理で形を戻してから、整える。


「ねえ、糊の袋は?」とルミナ。 「棚の上」レオンが指差す。 「それ、たぶん冷え過ぎたわ。冬の糊は固まるのよ。次からは、使う分だけ温石のそばに置いて。台所の段取り札に書いておく?」


 レオンは頷いた。自分の失敗が「次の手順」に変わるのが、少し救いになる。


 布の折り目が柔らかくなったところで、端の補強をする。糊で硬くしたぶん、縫い糸に負担がかかるからだ。フィオナは赤い糸ではなく、薄茶の丈夫な糸を選び、針先に蝋を軽く引いた。


「目立つ糸じゃないんだね」レオンが言う。 「旗は遠くから見るもの。近くの飾りは邪魔になる」フィオナは針を進めながら言った。「それに、ほつれは端から始まる。端を守れば、印が守られる」


 そこへ、戸鈴が鳴った。テオが焼きたてのパンを届けに来たのだ。頬が冷えたままなのに、息だけが甘い匂いを連れてくる。


「おはよう。……あ、旗?」テオが盆の上を見て目を丸くした。 フィオナは少しだけ視線を逃がし、「合図旗の日だから」と短く言う。言い切る速さが、照れの速さと同じだった。


 テオは籠から小さな包みを出した。「うちの仕込みで使う麦粉糊、少し分けるよ。今朝、固くなりにくい配合にした。旗にも使えると思う」 「助かる。ありがとう、テオくん」 「……うん。結び目の紐も、細いのより少し太いのがいい。寒い日は、指が言うこと聞かないから」


 レオンはそのやり取りを見て、にやりとしそうになったが、今は自分の旗のほうが先だと我慢した。


 補強が終わると、フィオナは乾かし魔法を「弱く」かけた。布全体を温めない。折り目の奥の湿りだけを逃がす。レオンは横で、時間を測るように数を数えた。急ぐと、また癖が付く。


「……今だ」フィオナが言い、二人で布をふわりと持ち上げる。空気を入れて、折り目を一度だけ大きくほどく。白地がちゃんと波打った。


 クリスが、そっと近づいて言った。 「わたし、きらきら、しない。はた、みえなくなる」 フィオナは驚いて、目を細めた。「うん。今日は、それが一番えらい」 クリスは頷き、代わりに小さな札に、ひらがなで書いた。 『みえる』 札を裏返して、盆の縁に置いた。


 再び助け鈴の柱へ。今度は、布がすっと開いた。赤い印が真ん中に落ち着き、風に合わせて揺れた。


「これなら、誰でも分かる」レオンの声が戻った。「よし。ぼく、学校で『旗は見せるための道具』って言う。……ヒーローっぽく」 「その前に、先生に一言、失敗も伝えなさい」ルミナが笑う。「段取りは、格好より先よ」 「分かってる。ぼく、報告する」


 レオンは筒を抱え直し、今度は紐の結び目を指で二回確かめてから歩き出した。フィオナは玄関で見送って、ふと盆の端の空札に気づく。明日、今日の糊の配合と結び目の形を札に写しておけば、次の冬に迷わない。


 梁の上で羽をたたんだスノーが、鼻で笑うように言った。 「旗ってのは自分の誇りじゃない。迷うやつの目のために、まっすぐ開け。」



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