1月18日(日):巡回そりの日
とある世界では今日は『水のそばの「もしも」に気づいたら、迷わず助けを呼ぶ』の日。 アルメリアでは『巡回そりの日』として、灯路と水門の様子を見回り、合図の手順を確かめる日。
朝の台所は、湯気の匂いより先に、窓の霜の白さが目に入った。フィオナは指先でガラスの端をなぞり、凍った線が途切れている場所を探す。そこだけ、夜の間に少し溶けてまた固まった跡があった。
「きょう、そり、くる?」 クリスが戸布の陰から顔を出す。頬が赤いのは、寒さと興奮が半分ずつだ。
「来る。だから、玄関の籠は動かさないでね」 フィオナが言うと、レオンがすぐに乗ってくる。
「ぼく、目印の札、見たい。昨日の“分ける印”みたいなの、またある?」
昨日の備え鈴の当番で、助け鈴と戸鈴と鈴玉の区別を札で徹底したばかりだ。音は似る。冬は戸布が厚くて、なおさら似る。だから今日は、音ではなく“手順”を確かめる日にする。
ルミナが卓の端に、小さな袋を置いた。布が二重で、口がきゅっと絞れる。
「備え袋の中身、巡回そりの人に見てもらいましょう。うちは家族が多いから、入れ過ぎがちなの」
「入れ過ぎると、取り出すのに時間がかかる」とグレゴールが淡々と言う。「危ないときほど、手は震える。震える手に、詰め込みは敵だ」
フィオナは頷き、袋の中身を広げた。温石用の布、乾いた布、短い蝋紙、昨日テオがくれた替え紐と、札の上に挟む蝋紙の束——合図を“見える形”にしておくためのもの。
「水門の合図も、これで分けられるかな」 フィオナが独りごとのように言うと、アストルが眉を上げた。
「水門の方は、灯路番所じゃなくて……」
「水門の係。助け鈴の合図先は衛兵所。灯路の相談は灯路番所」 フィオナは三つ、指を立てて言い切った。言葉にした瞬間、頭の中の線がまっすぐになる。
クリスが指を見て、まねをする。「みっつ。みず、へい、ひかり」 「だいたい合ってる」とレオンが笑い、ルミナがそっと付け足す。「合ってる、で十分よ」
戸鈴が鳴る前に、フィオナは外套を羽織った。
「私、ひつじ雲ベーカリーに寄ってくる。巡回そりの人、途中で立ち寄るって言ってたから」
アストルがにやりとする。「パンの名目で会いに行くやつだ」 「名目じゃない。必要だから」 フィオナは言い返して、玄関を出た。
灯路は昼でも淡く眠っていて、雪の白さに負けない程度に石の目が光っている。角の助け鈴の柱は、昨日拭ったばかりで、紐が乾いて真っ直ぐだった。
ひつじ雲ベーカリーの店先は、焼き上げの匂いが冷気を少しだけ丸めていた。テオが戸布を持ち上げ、顔を出す。
「フィオナさん。……あ、いや。フィオナ……さん」
ぎこちなさが、逆に真面目さになる。
「テオくん。昨日の……その、替え紐、助かった。今日は巡回そりの日で、備え袋を見直すから」
テオは奥から小さな包みを持ってきた。蝋紙で巻かれ、細い紐で結ばれている。
「これ、塩だけの丸パン。甘くない方が、急いでるときに喉が動くって、うちの親方が」
「……覚えてくれてたんだ」 言った瞬間、フィオナは自分の声が少し柔らかくなったのに気づく。
「約束したから」 テオが短く言って、紐の端を指で押さえた。結び目をきれいにするために、手袋を外していたらしい。フィオナも受け取るときだけ手袋をずらし、指先が触れた。
一瞬、熱い。
「……ありがとう」 フィオナが言うと、テオは耳のあたりを掻いて、視線を棚の方へ逃がした。
「巡回そり、もし札が濡れてたら、蝋紙、使うといい。あと……紐は、短いのが混ざると困るから、束を分けて」
“混ざると困る”。昨日と同じ言い方が、今日は違う場所に刺さる。
「うん。区別する」
店先を出たところで、道の向こうから、鈴の音ではない、低い擦れ音が近づいてきた。雪の上を滑る、そりの音だ。
巡回そりは、思ったより大きかった。前には厚い毛布を掛けた引き手がいて、後ろに箱が二つ。灯りのための小さなランタンが揺れ、脇に木札が束ねられている。
灯路番の腕章をつけた男が、フィオナに気づいて手を上げた。
「フレイメル家の方だな。備え袋の見直し、今日でいいか?」
「はい。あと、水門札も確認したくて」 フィオナが言うと、男は苦笑した。
「そこなんだ。札が一枚、濡れて文字が薄い。……冬は雪が溶けて、夜に凍るだろ。箱の角に溜まる」
彼が札束をほどくと、確かに一枚だけ、端が波打っていた。字が読めるか読めないかの境目。境目は、急ぐときにいちばん危ない。
「札を“読む”じゃなくて、“触って分かる”に寄せましょう」 フィオナは言って、備え袋から板札の小片を取り出した。札板の端材を切っておいたものだ。
男が目を細める。「板札、か。触覚のやつだな」
「はい。水門の係、衛兵所、灯路番所。行き先が違うから、切り欠きの形も違う方がいい」
アストルの工房で使う小刀が頭に浮かんだ。けれど今は手元にない。フィオナは代わりに、巡回そりの箱の縁に結わえられた細い金具を見つけ、道具として借りる。
「これ、少しだけ外せますか」
男が頷き、留め具を外す。フィオナは金具の角で板札に浅い筋を付け、乾いた布で削り粉を払った。一本、二本、三本。形は単純でいい。単純が、急ぎに強い。
きゅっ、と金具が板を擦る音が一度だけ鳴った。
そのとき、そりの側面で、革の留め紐がぱちん、と弾けた。凍って硬くなっていたらしい。ランタンが少し傾き、灯りが雪の上に斜めの影を落とす。
「うわ、やった」 灯路番の男が舌打ちしかけて、咳払いで隠した。
フィオナは息を吸い直す。「替え紐、あります。あと、蝋紙も。結び目が濡れると、また凍りますから」
「手が足りない。……誰か」 男が言いかけたところで、背後から声がした。
「手、貸す」
振り向くと、テオが店先の戸布を押さえたまま立っていた。さっきまでの照れが嘘みたいに、目が真っ直ぐだった。
フィオナは一拍遅れて頷く。「お願いします」
作業は速かった。まず濡れた革を乾いた布で拭い、硬い部分を指で揉んで“曲がる”ところまで戻す。次に替え紐を通す穴を確認し、凍り粉を爪先で落とす。紐を通す順番を、フィオナが口で固定する。
「外側から。次は内側。結びは二回。最後に余りは短く」
テオが紐を引き、フィオナが結び目を抑える。指が近く、息が当たる。
「……熱い」 フィオナが思わず言うと、テオが小さく笑った。
「冬だから。手が冷たいと、結び目が逃げる」
笑ったのに、真面目だ。真面目さが、また胸を変なところで温める。
結び目の上に蝋紙を小さく当て、上からさらに紐を回した。濡れが直接結びに届かないようにする、簡単な“覆い”だ。
「これなら夜に凍っても、ほどくときに割れない」 フィオナが言い、灯路番の男が頷いた。
「助かる。……巡回そりは、速さが命だ。合図も、荷も、迷うと遅れる」
昨日の言葉が、今日の形で返ってきた。
フィオナは板札の切り欠きを三つ並べ、札束の上に置いた。
「これが水門の係。これが衛兵所。これが灯路番所。迷ったら、触って確かめる」
クリスが駆けてきて、板札に触れる。「ごつごつ。みず、これ?」 「そう。水のそばの“もしも”」 フィオナが言うと、クリスは真剣な顔で頷いた。「みたら、いう」
レオンも寄ってきて、そりの箱を覗く。「ぼく、覚えた。形で分けると、間違えにくい」
灯路番の男は板札を受け取り、箱の内側の釘に掛けた。揺れない位置。手が届く位置。目線より少し下。
「フレイメル家、さすがだな」
「さすがは言い過ぎです。ただ……当番は、手順が要るから」 フィオナが答えると、横でテオが小さく頷いた。
巡回そりが出発の姿勢を取る。雪の上に、細い二本の筋が伸びていく。
フィオナは備え袋を抱え直し、テオの包みを上に載せた。軽いのに、そこだけ温度が残っている気がする。
「パン、ありがとう。……備え袋に入れて、明日も乾く場所に置く」
「うん。乾く場所、ちゃんと」 テオはそれだけ言って、また耳を掻いた。
巡回そりが角を曲がると、灯路の光が昼の雪に負けず、細い道筋を残した。
梁の上から見下ろしていたスノーが、ひとつだけ羽を震わせて言う。「水の“もしも”は速さがいる。だが速さは、派手な勇気じゃなくて——札の切り欠きみたいな地味な手順から生まれるんだよ」




