1月16日(金):口火をしまう日
とある世界では今日は『杯を置いて、喉と頭を一度だけ静かにする』の日。
アルメリアでは『口火をしまう日』として、町の家々が火打ち石と火口布の道具箱を冷まし、煤と油を拭き、札を付け直して棚に戻す日。
フィオナにとっての口火は、火だけじゃない。言葉だ。口から出た火花は戻せない。だから今日は、言い出す前に一呼吸だけ入れて、主語を拾い直す。そんな練習の日でもあった。
夕方の分校は、窓硝子の縁に白い結晶を並べていた。廊下の灯りは早めに点き、木床の冷たさが靴底から上がってくる。短札課題の札板を返されたとき、フィオナは自分の字をもう一度なぞった。
『火口箱は冷ましてからしまう』
今日の作中暦は、口火をしまう日。火を扱う家は、口火の道具を仕舞い、火の匂いを一度家から追い出す。冬の空気は油断すると一気に尖るから、火の段取りだけは尖らせない、という教えだと先生は言った。フィオナは頷きながら、別の「口火」を思い浮かべてしまって、指先を手袋の中で握り直した。
家に着いたのは17:20を少し回った頃だった。台所の鍋は昨日の赤実の蜜の香りをまだ残し、棚の一段目に厚い硝子瓶が鎮座している。蓋の金具は磨かれて、赤い点も消えていた。昨日、手で拭いて、乾かして、締め直して、漏れを止めた。その工程のひとつひとつが、今朝のフィオナの胸の騒がしさも少しだけ静めた気がする。
「帰ったよ」フィオナが声を掛けると、ルミナが振り向いた。「おかえり。手、冷えてる。湯気の前に手袋を外して」 「うん」
アストルは工房の戸口で、革手袋を干していた。アストルの視線が、棚の瓶に一瞬だけ寄る。寄ってから、フィオナの顔に戻る。「その瓶、減ったな」 「……減った」 「持っていくのか」 「持っていかない」
言い切ったのに、背中の温度が上がった。背中の温度は嘘をつく。レオンが居間から覗き込み、口角だけ上げる。「お姉ちゃん、昨日、店の窓、見てた」 「見てない」 「見てた」 「見てない」 クリスが椅子の上で小さく跳ねた。「おにいちゃん、あかい。びん、あかい」 「クリスは赤いのが好きね」ルミナが笑い、フィオナの逃げ道を作ってくれる。
逃げ道に乗ろうとした、そのときだった。玄関の籠に、薄い紙片が一枚差してある。灯り文ではなく、手渡しの走り書き。丸めた紙の端に、粉の匂いが付いている。
フィオナはそれを拾って開いた。
『口火、しまう? きょう。時間あったら。 テオ』
胸の奥が、すうっと冷えた。火の段取りの話だと分かっている。分かっているのに、昨日の指先の距離が勝手に混ざる。「昨日のことは、しまっておこう」みたいに読めてしまう。フィオナの頭は、勝手に比喩を引っ張ってくる。短札課題の札板が、掌の中で急に重くなった。
「フィオナ?」ルミナがフィオナの手元を覗き込み、何も言わずに頷いた。否定も肯定もせず、ただ鍋の火を弱める。家の音が、フィオナに考える時間をくれる。
フィオナは棚の瓶を手に取った。赤実の蜜煮を少しだけ、小瓶に移す。濡れ布で口金を拭き、乾いた布で二度拭きする。紐を通し、札を付けた。札には『残り火』とだけ書く。字は短く、主語も目的も省く。省くと読み違えが増えるのに、フィオナはまだ癖を直しきれていない。
外套を着るとき、アストルが玄関の閂を確かめながら言った。「帰りが遅れたら、角の助け鈴の柱の紐を引け。灯路番所まで音が届く」 「分かった」 「走るなよ。雪は夕方から速い」 アストルの言い方が、火の段取りみたいに優しいのが、余計に気まずい。
ひつじ雲ベーカリーの窓は、18:05の灯りでまだ温かい色をしていた。店先の戸鈴を鳴らす前に、フィオナは息を一つ入れる。口火はしまう日。だから、言葉の火花も一度落ち着かせる。
戸鈴が鳴り、テオが奥から出てきた。腕まくりした前腕に粉が残り、髪の先に白が付いている。「フィオナ。……その瓶、うちの分?」 「テオくん。昨日の、お礼。赤実、助かった」 「ありがとう」テオは瓶を受け取り、すぐ棚の端へ置いた。置き方が丁寧で、瓶が嬉しそうに見える。
「それで」フィオナは紙片を指先で折り直した。「……口火、しまうって」 テオの眉がわずかに上がる。「うん。しまう。今日だし」 「今日だから、って」 「暦の話。口火をしまう日だから」 言葉が同じところをぐるぐる回る。フィオナの胸の中で、昨日の家の視線がまた動き出す。しまう、という字が、急に冷たい箱みたいに見えてきた。
フィオナは紙片を差し出した。「これ、見て。私、変に読んだ」 テオは受け取り、目を落としてから、口元を押さえた。「……ごめん。主語がない」 「主語?」 「火口箱。焼き窯の口火の道具。今日、しまう日だろ」 「……あ」 フィオナの頬が熱くなった。熱くなる場所が、今さらで、恥ずかしい。
テオは小さく咳払いして、紙片を折り畳んだ。「言い方が雑だった。昨日の……その、指先の距離が頭に残ってて」 「距離」 「うん。だから余計に短く書いた。短いと、取り違えが増えるのに」 彼がフィオナの癖を、そのまま返してくる。フィオナは笑うべきか、謝るべきか分からなくなって、結局、頭を下げた。「私も。勝手に比喩をくっつけた。ごめん」 「ごめんは要る。今日は、誤解をほどく日だ」テオは言って、目を逸らした。逸らし方がフィオナと同じで、胸が少し軽くなる。
「じゃあ、しまおう」テオが奥を指した。「火口箱。いま冷ましてる」
奥の焼き場は、昼の熱をもう失っていた。鉄板に触れると冷たく、粉の匂いだけが残っている。壁際に、小さな金属箱が置かれていた。蓋の留め具が硬い。マナ・フリーズで、金具が微妙に噛んでいる。
テオが指で留め具を押し、動かないのを見て舌打ちしかけ、すぐやめた。「……手、貸して」 「うん」
二人は留め具の周りを布で拭いた。粉と煤が混じった薄い膜が、指先にざらつく。拭いて、拭いて、息を当てる。フィオナの掌の熱を金具に移す。魔法は使わない。使うと早いけれど、今日は段取りの確認の日だ。
金具が少し緩み、かちりと音がして外れた。蓋を開けると、中には火打ち石と火口布、それから小さな油瓶が入っている。油瓶の札が濡れて波打っていた。
「札、今日の水でやった?」フィオナが訊くと、テオは頷く。「洗い場で転がした。すぐ拭いたつもりだった」 「つもり、は冬に負ける」フィオナは言い、自分でも偉そうだと思って、すぐ続けた。「私も、昨日つもりで赤い点を残したから」
乾いた紙を切り、札を作り直す。油瓶の首に紐を掛け、札を結ぶ。札には『油』。短く、迷わない字。濡れた札は火口箱の中で凍る前に捨てる。捨てる前に、原因を覚える。
火口布は広げて乾かし、火打ち石は煤を落として布で磨く。磨くと黒が薄くなり、石の角が戻る。テオが箱の底に乾いた砂を少し敷き直し、フィオナは油瓶の口を拭く。最後に、火口布を畳んで入れ、石を角が立たない向きに置いた。
「これで、口火はしまった」テオが言った。 フィオナは頷き、わざと軽く返す。「口火はしまった。話の口火は、しまわない」 テオが一瞬固まり、それから笑った。「しまわない。けど、主語は付ける」 「合意」フィオナは言い、指先で札を押さえた。札が揺れないように。
店先へ戻ると、棚の端で赤実の瓶が小さく光っていた。フィオナは外套の内側から、赤い糸の縫い目が目印の札袋を取り出す。「昨日の。乾かした。返しに」 テオは首を振った。「まだ持ってて。今日は札が多いだろ」 引き出しから、細い麻紐を二本と、蝋紙を小さく折った束が出てくる。「替え紐。それと、札が濡れたらこれを挟め」 「……いいの?」 「余り。戻さなくていい」 その言い方が、生活の約束みたいで、フィオナの胸の奥がまた少し熱くなる。フィオナが束を受け取ると、指先が触れて、息が止まった。手袋越しじゃない熱は、ずるい。
外へ出ると、灯路の光が低く道を撫でていた。帰り道、フィオナは札袋と蝋紙の束を外套の内側で確かめる。袋の縫い目の硬さ。紙の角のきちんとした折り。今日の合意の重さ。
家に戻ると、台所の棚に、フィオナの短札が立て掛けられていた。ルミナがフィオナの札板を見て言う。「今日は、ちゃんとしまえた?」 フィオナは頷き、札板の裏に新しく一行書き足した。
『言葉の口火は、主語を添える』
梁の上で、スノーが羽を伸ばしてから畳んだ。「火口はしまえ、口先はしまうな。主語を入れてから火を点けろ。明日は助け鈴の柱が鳴る、耳を閉じるな」




