1月15日(木):残り火の祝い
とある世界では今日は『赤い粒が白い湯にほどける朝』。小豆と米の粥でからだの芯をゆるめ、これからの一年が健やかにほどけていくよう願う日。 アルメリアでは『残り火の祝い』として、雪の白の中で目立つ赤い果実を“残り火”に見立て、家の中へ連れて帰る日。
朝、台所の窓は、白い息で曇っていた。霜は細かく、硝子の端に薄い結晶を並べている。薪の匂いはするのに、指先はまだ冬の外気を覚えていた。
棚の一段目に、昨日もらった赤い果実がある。 干した赤実。袋の底で、小さな火種みたいに集まっている。
「……残り火、ね」 フィオナが独りごちると、背後でルミナが鍋を置く音を立てた。
「白の中の赤は、目が覚めるのよ。今日は、その赤を食卓に連れて帰りましょう」 「赤実入りの焼き菓子と、保存瓶と、パン」 フィオナが口に出して確認すると、ルミナは頷いた。「“残り火の甘さ”ね」
レオンが上着の紐を結びながら、台所の入口で立ち止まった。 「今日、赤いやつ食べる? ぼく、赤いの好き」 「食べる。でも先に学舎よ」 「わかってる。帰ったら、ぼく、混ぜる」
クリスは椅子の上で踵を揃え、指を一本立てた。 「わたし、びん、みる。あかいの、きらきら」 「見るだけね。舐めない」 「うん。みるだけ」
家族が出ていく準備をしている間、フィオナは保存瓶を取り出した。 赤実の蜜煮を作るための、厚い硝子の瓶だ。口に金具が付いていて、締めると蓋がぎゅっと押される。
――けれど。
棚板の上に、赤い点がいくつもある。 乾ききっていない、粘る赤。
「……漏れてる」 フィオナが瓶を持ち上げると、蓋の縁に薄い蜜が光った。夜の冷えで中身が縮み、朝の温度で戻りきらないまま、封のどこかがわずかに負けたのだろう。
ルミナが布巾を渡す。「今のうちに、原因を見ましょう。急に温めると、硝子が嫌がる」 「はい」
フィオナは瓶をいきなり火のそばへ置かず、洗い桶にぬるい湯を張った。瓶底を湯に触れさせ、布で肩を包む。温度差を小さくする。 赤は、焦らせると暴れる。だから、こちらが先に落ち着く。
アストルが外套を肩に掛けながら、台所へ首を突っ込んだ。 「お、残り火の仕込みか。……ん? それ、漏れてる?」 「うん。金具が負けたみたい」 「よし。あとで直そう。道具、出しておけ」
「学舎に遅れるわよ」とルミナが言うと、レオンは上着の紐を結び直し、結び目をもう一度だけ引いた。 「わかってる。今日は走らない。転ぶと留め具が外れるから」
アストルは外套の裾を整えながら笑った。 「いい判断。俺は下の工房へ。戻ったら瓶のほうを直すぞ」
グレゴールは玄関の方から声だけ投げた。 「段取りは胸ではなく、棚に貼れ。忘れるのは人だ」
午前、レオンは初等学舎へ行き、クリスは星粒ほいくえんへ行った。フィオナは分校へ向かう前に、瓶の赤い点を布で受け、桶のぬるい湯が冷めないように少し足した。あとはルミナに布と段取りを渡し、帰宅してから締め直す約束を置いて家を出た。
午後、分校の鐘が鳴るころ、風が強まり、石畳の灯路の溝に粉雪が溜まっていた。フィオナは分校の帰り足をそのまま星粒ほいくえんの門へ向け、迎えの刻限に間に合わせる。クリスの手を取って歩き出すと、角を曲がったところで初等学舎帰りのレオンとも合流した。
赤実の袋は冷えすぎると甘さが尖る。尖る甘さは、残り火じゃなくて火傷だ。フィオナは袋を外套の内側へ入れ直し、手の熱で少しだけ丸めた。
帰宅すると、台所の棚に置いておいた瓶は、ぬるい温度で落ち着いていた。蜜の赤は薄く、漏れは止まっている。
「やるぞ、修理」 アストルが工房から工具箱を引きずってきた。音を立てないように、最後は手で抱える。
フィオナは瓶を布の上に寝かせ、金具の留めを指で確かめた。 右側が、ほんの少しだけ甘い。
「冬は、金属が縮む。縮んで、戻るときに、片側だけ先に戻ることがある」 アストルはペンチを見せた。「だから、左右を同じだけ“戻す”」
手順は短い。けれど省かない。
1つ。蓋を外す前に、瓶口の蜜を拭き取る。滑ると力がずれる。 2つ。金具を外し、留めの軸を抜く。 3つ。蓋の裏の輪を確認する。
輪は、蜜蝋を含ませた布の輪だった。冬の乾きで硬くなり、角が立っている。
「これが硬いと、硝子の口の形に沿えない。沿えないと、隙間ができる」 フィオナが言うと、レオンが覗き込んだ。 「隙間って、悪いやつ?」 「悪くない。けれど、蜜は隙間が好き」 「じゃあ、ぼく、隙間きらい」
クリスは輪を指で触りかけて、すぐ手を引いた。 「かたい」 「うん。だから柔らかく戻す」
ルミナが小鍋に湯を張り、輪を布ごと沈めた。蜜蝋が溶けきらない温度で、ゆっくり。 フィオナはその間に、瓶口を乾いた布で拭き、細い刷毛で溝の粉を払った。溝に粉雪が残ると、そこがまた“口”になる。
輪が戻ったら、軽く絞って、水気を飛ばす。蜜蝋の匂いがふわりと上がった。
「よし、戻った」 アストルが留め金具の左右を見比べ、ペンチでほんの少しだけ曲げて張りを揃える。力を入れすぎると、今度は硝子が負ける。
「締めすぎない。締め足りないもだめ。……ちょうど、だ」 その言い方が、妙に真面目で、フィオナは笑いそうになった。父はいつも、道具の前だけ妙に冴える。
蓋を戻し、輪を座らせ、金具を左右同じ速度で下ろす。 瓶は横に寝かせ、蜜が縁へ触れるのを待つ。
「いま、待つ」 フィオナが言うと、レオンが頷いた。 「ぼく、待てる。ヒーローは待てる」
三分。 蜜は縁に触れたが、赤は広がらなかった。
「……勝ち」 フィオナが呟く。
そのとき、戸鈴が鳴った。
「こんにちは。ルミナさん、アストルさん。修理の相談で」 戸口にはテオが立っていた。外套の肩に雪が白く積もっている。
「テオくん」 フィオナが呼ぶより早く、クリスが声を上げた。 「テオおにいちゃん! あかいの、ある?」 「ある。けど、先に靴、拭かせて」 テオはにこりと笑い、玄関の布で自分の靴の雪を落とした。
レオンが腕を組む。 「テオ兄、今日は残り火の日だろ。パン、赤いやつ?」 「店でも焼く。けど、赤実は扱いが難しい。水分が暴れる」
アストルが肩を叩いた。 「ちょうどいい。うちでも瓶が暴れた。見ていけ」
テオは台所へ入ると、瓶の赤を一目見て、すぐ声を落とした。 「……封が勝ったんですね。いい締め具合です」 「でしょ」 フィオナが言いかけて、言葉の端を飲み込む。褒められると、体温が勝手に上がる。
ルミナが頷いた。「今日はこの赤を、食卓へ」 テオは丁寧に頭を下げた。「手伝わせてください。焼きの加減、店のほうが見慣れてる」
その一言で、家の空気が少しだけ弾んだ。 レオンが、わざと大きく咳払いをした。 「お姉ちゃん、残り火ってさ。家に連れて帰るんだよな」 「そう」 「へえ。昨日、誰が連れてきたんだっけ」
フィオナは鍋の湯を見つめたまま答えた。 「……雪が運んだのよ。たぶん」
テオが口元を押さえ、笑いを堪えた。アストルは何も言わない顔をして、何も言わないまま目だけで“ほらな”をする。 ルミナは布巾を畳み直し、淡々と宣言した。 「今日は赤の扱いが主役。煽るのは後」
作業は、赤を暴れさせないことから始まった。 赤実は刻まず、湯気で戻して水気を切る。砂糖と油で先に“受け”を作り、そこへ赤を落とす。
テオが言う。「受けを作ってから入れると、果汁が走りにくい」 フィオナは頷き、手を動かした。
レオンは木べらを持ち、混ぜる係を宣言する。 「ぼく、一定で回す。速くしない」 「いいよ。速くすると空気が入りすぎる」
クリスは赤実を一粒だけ皿に並べ、指先で数えた。 「いち、に、さん。……のこりび、ちいさい」 「小さいほど、よく目立つ」 フィオナが言うと、クリスは胸を張った。「わたし、みつける」
焼き上がりの匂いが広がると、外の冷えが台所の戸布の向こうへ退いた。 赤は生地の中でほどけ、切ると断面に小さな点として残る。 白の中の赤。 それは確かに、残り火だった。
夕餉の卓に、赤実入りのパンと、赤実の保存瓶が並ぶ。 ルミナは薄い皿に蜜を落とし、パンの端を少し浸した。 「甘さが尖ってない。よく戻したわね」
テオは帰り支度をしながら、袋を一つフィオナへ差し出した。 赤い糸で縫われた、小さな札袋。
「瓶に結ぶ札袋です。店の余りだけど、赤が落ち着く」 「……ありがとう」
レオンがにやりとする。 「お姉ちゃん、赤が落ち着くって」 「レオン」 ルミナの一声で、レオンは口を閉じた。閉じた口の端だけが、まだ煽っている。
テオが玄関で靴を履き、振り返る。 「明日は、口火をしまう日ですね。火口は乾かして、袋に戻しておくと安心です」 アストルが頷く。「うちも明日、火の道具を整える。……残り火の次は、仕舞い方だな」
戸が閉まると、赤い札袋だけがフィオナの掌に残った。 小さくて、温い。
梁の上でスノーが首を傾げ、赤い点々の残る棚板を見下ろした。 「白い外で見つけた赤を、わざわざ家に持ち帰る。……人間は面倒だ。だが、その面倒で冬を越すなら、まあ悪くない」




