1月14日(水):三つの灯の札の日
とある世界では今日は『愛と希望と勇気の日』。氷の白の中で、置き去りにされた命が見つかった日だという。アルメリアでは『三つの灯の札の日』として、家の窓辺に三つの小さな灯を並べ、札で意味を分けて、冬の夜を迷子にしない日になっている。
朝の台所は、湯気が薄く壁を撫でていた。ルミナが鍋をかき回し、アストルは工房へ降りる前に炉の灰をならしている。フィオナは棚のいちばん上を見上げ、昨日の言葉箱を指先だけで確かめた。結び目は三つ。硬さは同じ。開けるのは、一年後。
レオンが椀を抱えて言った。 「今日の灯、ぼくが真ん中にしたい。いちばん強いやつ」 「真ん中は強いんじゃなくて、落ち着くの」ルミナが笑う。
クリスは椅子の上で小さく跳ねた。 「わたし、ひだり。みぎ、こわい。」 「左右が怖いなら、今日は札で分けるのが向いてる」アストルが頷いた。
三つの灯は、毎年同じ場所に出す。居間の窓辺の木枠に、短い横木を渡し、三つの小さな灯の器を吊るす。灯の器は、薄いガラスに魔脈を受ける刻みが入った、古い魔具だ。
フィオナが戸棚から包みを取り出すと、ガラスが乾いた音を立てた。去年の煤が縁に薄く残り、刻みの溝が少し曇っている。 「先に、拭こう」フィオナは言った。「札より、ガラスのほうが誤読する」
ルミナがぬるい湯を張り、アストルが柔らかい刷毛を出した。フィオナは灰をほんの少しだけ指でつまみ、布に移す。灰は研ぐためじゃない。脂の角を落とすための粉。
ガラスの縁を木目に沿って拭き、溝は刷毛で撫で、最後に乾いた布で押さえる。水気を残すと、夕方に凍って灯が曇る。湯気の届く棚に並べ、乾きの順番を札に書いた。刷毛と布は、使った順に同じ棚へ戻した。
『拭く→乾かす→吊るす』
三つの灯の札は、本来、意味が決まっている。左は愛、真ん中は希望、右は勇気。今日はそれを、声に出す代わりに札に書いて確かめる。札に書くのは、もう少し生活の形に寄せた短い語だ。
愛は、守る。 希望は、待つ。 勇気は、踏み出す。
フィオナは分校へ向かう途中、その三つを頭の中で並べ直していた。守る、待つ、踏み出す。分けるだけで、冬の息が少しだけ軽くなる。
授業のあいだ、雪精が窓の外で光を揺らし、黒板の白が冷たく見えた。帰りの鐘が鳴るころには、灯路の影が少し長くなっている。
放課後、フィオナはひつじ雲ベーカリーへ寄った。戸布をくぐると、粉と熱が頬をほどく。テオが作業台で札束を揃え、端を指でそろえていた。
「フィオナ、来た」テオが顔を上げる。 「札を借りたい。穴を開けるやつも」 「三つの灯の札?」
言い当てられて、フィオナは頷いた。
テオは引き出しから小さな器具を出した。札の端に一穴だけ、同じ位置に開けるための穴あけ器。冷えでばねが少し硬くなっている。 「これ、昨日から噛む。押す角度がずれると、札が裂ける」
フィオナは指でばねの戻りを確かめた。確かに、戻りが遅い。 「油?」 「油は染みる。粉に移る。だから、温めてから、動くところだけ拭く」
テオは布を渡し、器具の軸だけを指で示した。フィオナは息を整え、布で軸の露を拭い、手のひらで数十呼吸だけ温めた。すると、ばねの戻りが素直になる。
「これでいける」テオが言い、札を一枚、試しに穴を開けた。
きれいな丸。
テオは短く息を吐き、穴あけ器を道具棚の同じ段へ戻した。
フィオナは肩の力を抜いた。 「ありがとう」 「うん。今日、札、三つだもんね」
その言い方が、まるで自分の胸の中を見たみたいで、フィオナは視線を外した。三つ。守る、待つ、踏み出す。
テオが続けた。 「札の印、うちのと同じにする? 左が“焼き上がり”、真ん中が“冷まし”、右が“包み”」
フィオナは一瞬、頭の中が止まった。左が愛、真ん中が希望、右が勇気。その並びと、テオくんの言う並びが、重なってしまった。
「……違う」フィオナは思わず言って、すぐ言い直した。「違うの。印の意味が」
テオの眉がわずかに上がる。 「ごめん。勝手に同じだと思った」
誤解の形が、ここにあった。印は同じでも、意味は違う。
フィオナは札を一枚取り、指先で三つの位置を示した。 「左は守る。真ん中は待つ。右は踏み出す。三つの灯は、そう分ける日」
テオは数秒だけ黙り、それから頷いた。 「じゃあ、うちの印は仕事用。フィオナの印は、帰り道用」
言い方が柔らかくて、フィオナの頬が熱くなる。 「……帰り道用、って」 「夜は冷える。迷わないほうがいい」テオは言い、少しだけ声を落とした。「迷うの、嫌いだろ」
フィオナは返事の言葉を探し、見つけられなかった。代わりに、穴あけ器を握り直した。
家に戻ると、灯の器は湯気の棚で乾いていた。ガラスの曇りが取れ、刻みの溝が薄く光を返している。フィオナは短い札を三枚、並べた。
左の札に『守る』。 真ん中の札に『待つ』。 右の札に『踏み出す』。
言葉は短い。けれど、短いほど嘘が混ざりにくい。
レオンが横から覗いた。 「もっと、かっこいいのがいい。勇気は“突撃”だ」 「突撃は、帰って来られる突撃だけ」アストルが笑った。
クリスは札を指でなぞった。 「まつ。これ、あったかい?」 「待つのは、冷たいときもある。でも灯を置くと、少しだけ丸くなる」ルミナが答えた。
三つの灯の器を吊るし、札を通して結ぶ。結び目は小さく一つ。指で引いて確かめる。左から順に火種を入れ、窓辺に並ぶ光を見た。
外の灯路はまだ眠っているのに、室内の三つが先に夕方を作る。
フィオナは最後に、真ん中の灯の前で、息を吸った。踏み出す札は右にある。それでも、踏み出すのは口のほうだ。
「今日、テオくんの言い方が……」
言いかけて、止めた。言葉が足りないまま出ると、誤読が増える。
ルミナが何も言わず、鍋の蓋を少しだけずらした。湯気が上がり、フィオナの言いかけをふわりと隠す。
夕食のあと、戸鈴が鳴った。テオだった。紙包みを一つ持っている。 「これ。明日用」
包みの口を開けると、赤い乾いた実が少しだけ入っていた。雪の白の中で目立つ赤。 「残り火の祝い、赤実を入れるって聞いた。うちの分けたやつ」
フィオナは包みを受け取り、頷いた。 「ありがとう。明日、火の色が増える」
テオは笑って、手を引っ込めた。指先が触れそうで触れない距離が、窓辺の灯みたいに残る。
梁の上で、スノーが三つの光を見下ろした。「印は同じでも意味は違う。違うからこそ、並べて確かめろ。三つ灯して迷わないなら、冬も少しは歩きやすい」




