1月13日(火):言葉箱の日
とある世界では今日は『灰色の息の記念日』。薄紙に包まれた短い火が、売り物として生まれついた日だという。
アルメリアでは『言葉箱の日』。昨日、誓い灯で火に預けた言葉を箱へ移し、蓋を閉じる。風が来ても、消えないように。
朝、フレイメル家の台所は鍋の湯気で白かった。ルミナが布巾を干し、アストルは工房へ降りる前に、炉の灰をならしている。レオンは板の留め具をまだ触りたくてうずうずして、クリスは椅子の上で背伸びをした。
フィオナは、昨日テオから受け取った言葉箱を両手で抱えて、卓に置いた。薄い木の箱は冷たく、蓋の縁がきゅっと硬い。マナ・フリーズの朝は、木も紙も、先に縮む。
「まず、箱を部屋の温度に馴染ませよう」ルミナが言った。 「馴染ませる?」 「冷たいまま閉めると、結び目がゆるむの。紙も箱も、同じ速さで落ち着かせる」
フィオナは頷き、蓋を少しだけ浮かせて、内側の空気を入れ替えた。昨日の誓いの熱が、胸の小袋に畳んで入れた紙片にまだ残っている気がして、指を離すのが惜しい。言葉はまだ声にならないのに、箱だけが先に口を閉じたがる。
棚の上から、スノーが羽をたたんで欠伸をした。 「閉める前に、箱の腹を空にしておけ。湿りは敵だ」
その言い方が可笑しくて、フィオナは笑いかけ、途中で止めた。今日は笑うと、言いそうになる。
そこへ、階段の下から乾いた匂いが上がってきた。グレゴールが地下室で、冬物の毛布に虫が寄らないよう、香り葉を少しだけ炊いている匂いだ。煙は薄く、けれど鼻の奥に残る。
クリスが鼻を動かした。 「おにおい。あったかい。」 「おじいちゃんの、香り葉よ」ルミナが答える。「遊びじゃないから、触らないでね」
その直後だった。クリスが卓に手をつき、背伸びの勢いで箱の蓋に指先をかけた。朝のパンの蜜が、うっすら手に残っていた。
フィオナの胸がひゅっと縮む。 「クリス、だめ」 声が強くなったのが自分でも分かった。クリスの目が丸くなる。指が止まり、蓋は半分だけずれたまま固まった。
ルミナがすぐに間へ入った。 「フィオナ、言い方を柔らかく」 フィオナは息を吸って、言い直した。 「クリス、それはね。お姉ちゃんの言葉を寝かせる箱。起こすと、泣いちゃう」 クリスは唇を尖らせた。 「ことば、ねる?」 「ねる」フィオナは頷いた。「だから、そっと」
蓋の縁には、小さな指の跡が残っていた。蜜の薄い光りが、木目の上にだけ浮く。拭けば取れる。けれど、紙片に触れてからでは遅い。
フィオナは板札を取り出し、卓の端に置いた。切り欠きの向きが手袋越しでも分かる札だ。板札の上に乾いた布を敷き、箱をその上に移す。木が冷えたまま卓に触れないようにする段取り。
「拭こう」アストルが工房へ行きかけて戻ってきた。「水は少なめ。あと、乾かす順番だ」 ルミナが布巾を一枚、さらに乾いた布を一枚、重ねて渡した。 「一枚目で取って、二枚目で残さない」
フィオナは指の跡だけを狙って、木目に沿って拭いた。蜜はすぐに消えた。次に、乾いた布で同じところを押さえる。押さえるだけで、木の冷たさが少しだけ丸くなる。最後に、箱の内側を覗き、香り葉の煙が入り込んでいないか確かめた。
「大丈夫」フィオナが言うと、レオンが肩を落とした。 「ぼく、見張るって言えばよかった」 「見張りは偉いけど、今日は段取りが偉い」アストルが笑った。「置き場所を決めるぞ」
ルミナは棚のいちばん上、前に木箱を置いていた場所の横を指した。 「ここ。子どもの手が届かない。暖炉の熱が直接当たらない。煙も溜まりにくい」 フィオナは短い札に『さわらない』と書き、箱の横に立てた。文字は簡単だ。言葉箱の中身より、ずっと軽い。
登校の鐘が鳴る前に、フィオナは外套を羽織り、分校へ向かった。棚の上の箱は、家の湯気の中でゆっくり温度を合わせていくはずだ。授業の間、黒板の文字を追いながらも、彼女の頭の隅には『さわらない』の札が立っていた。帰りの鐘が鳴るころ、空気は少し緩み、指先の感覚も戻っていた。
放課後、フィオナはひつじ雲ベーカリーへ向かった。目的は一つ。箱を結ぶ紐に、蜜蝋を少しだけ借りること。冬の糸は固く、結び目がほどけやすい。蜜蝋を擦っておけば、糸が落ち着く。
戸布をくぐると、粉の匂いと熱が頬をほどいた。テオが作業台で紙包みを揃え、指先で角をぴしっと合わせている。 「テオくん、蜜蝋、少しだけ分けて」 テオはすぐ頷いた。 「うん。これ。糸も一緒に」
彼は小さな塊を布に包み、細い麻糸を添えて渡した。糸は乾いて軽い。 「指が冷えてると、結び目が戻るんだ。閉める前に、手のひらで温めとくと落ち着く」
フィオナは受け取りながら、昨日の言葉を思い出して喉の奥が熱くなる。
「誓いの言葉、まだ言えない?」テオが、目線を外して言った。 「言えない」フィオナは正直に答えた。「言うと、煙みたいに逃げそう」
テオは笑いそうになり、真面目なまま頷いた。 「逃がしたくないなら、箱だよね。……じゃあ、箱の外の言葉は、こっちが預かる」 「外の言葉?」 「……ありがとう」テオくんは小さく言って、すぐ言い直した。「いや、言わせたいんじゃなくて。今日、ちゃんと閉められたら、それでいい」
フィオナは返事を探して、見つからなかった。代わりに、糸を握る指に力を入れた。握れば、言わずに済む。
夕方、雪精が灯路の縁で光を振った。家に戻ると、箱はもう室温に馴染んでいた。フィオナは麻糸に蜜蝋を擦り、糸が白く艶を持つまで何度も指でならす。次に、紙片を一度だけ開き、文字を声にせず目で追う。折り目を新しく作らないよう、元の折りを確かめて戻す。
箱に入れ、蓋を閉める。糸を回し、結び目を作る。結び目は三つ。指で触って、同じ硬さになっているか確かめる。明日の『三つの灯の札の日』に向けて、三つは縁起が良い。
クリスがつま先立ちで見上げた。 「ねた?」 「ねた」フィオナは頷いた。「起こさない」 「わたし、まもる」クリスは胸を叩いた。「さわらない」
棚の上に箱を置くと、家の中の音が一段落ちた気がした。フィオナは息を吐き、ようやく泣きそうになっている自分に気づく。泣かない。泣いたら、箱が濡れる。冬でも、涙は温い。
梁の上のスノーが首を傾げた。 「煙は空へ逃げるが、言葉は箱で逃げ場を失う。失わせるなら、明日まで責任を持て」




