7月2日(木):長麺湯道の日
とある世界では今日は『長い麺を食べ、麦の実りと働いた手をねぎらう』日。アルメリアでは『長麺湯道の日』として、長いものを茹でる前に、湯の道と箸の道、器を置く順番を分けて、夕食を急がせない日。
木曜の夜、フレイメル家の台所は、白い湯気で少しにぎやかだった。
七月に入ったばかりなのに、外はまだ梅雨の湿りを持っている。灯路の光は窓の外で淡く、台所の床には昨日置いた足元の紐がそのまま残っていた。玄関小棚の足手逃げ道札も、静かにこちらを見ている。
ルミナは大きな鍋に湯を沸かし、アストルは長麺を入れた木箱を抱えていた。箱の蓋には、粉袋の麦束印が押されている。
「今日は長麺湯道の日だからな。長いものを長いまま、気持ちよく食べる」
アストルが得意そうに言うと、クリスが両手を広げた。
「ながいの、すき」
「うん。今日は長いの」
レオンは鍋の前に立ちかけて、すぐ半歩下がった。昨日、スノーが言った言葉が頭に残っている。
長いものを茹でる前に、湯の道と箸の道を分けろ。
鍋の前にはルミナ。湯切り布は流しの横。器はまだ戸棚の中。箸は食卓の端。クリスは湯気を見たくて、台所戸口のすぐそばにいる。
「このままだと、みんな同じ場所へ来る」
フィオナがすぐ頷いた。「湯の道と、人の道が重なってる」
「箸も、器も、まだ道がない。茹でる前に分けよう」
アストルは長麺の箱を抱えたまま止まった。「入れる前でよかったな」
「入れてからだと、急ぐしかなくなる」
ルミナは火を細くし、鍋の湯を少し落ち着かせた。「では、今日は止まるところからね」
レオンは小さな紙を四枚切った。
『湯』 『箸』 『器』 『待つ人』
クリスが札をのぞく。「わたし、まつひと?」
「うん。でも、ただ待つんじゃない。安全に待つ人」
「安全、まつ」
「そう。昨日の続き」
まず湯の道。鍋から流しまで、湯切り布を運ぶ場所を空ける。床の紐の内側には物を置かない。アストルの工具布が台所戸口に少し出ていたので、フィオナが黙って工房側へ戻した。
「父さん、置いたか?」
「置いたね」フィオナが言った。
「気づいたなら、まだ直る」アストルは両手を上げた。
次に箸の道。長麺をすくう長箸は、食べる箸と混ぜない。レオンは長箸を台所小机の右側へ置き、食べる箸は食卓へ置いた。クリスの短い箸は、器の横へ。
「長箸を食卓へ置くと、誰かが取りそうになる。食べる箸を鍋の近くに置くと、湯気で湿る」
「箸にも場所がいるのね」ルミナが言った。
「うん。長い箸は仕事の箸。食べる箸は席の箸」
クリスが短い箸を指さした。「わたしの、席の箸」
「そう」
最後は器の道だった。ルミナが大きな器を出し、フィオナが家族の小鉢を並べる。けれど、そのまま食卓へ置くと、クリスの手が届く場所に熱い器が来てしまう。
レオンは少し考えた。「熱い器は奥。冷たい薬味皿は手前。クリスの席には、先に空の小鉢を置く」
「からっぽ?」
「麺が来るまで、空っぽ。先に置いておけば、あとで熱い器に手を伸ばさなくていい」
「からっぽ、いる」
「いる」
半箱札で覚えた言葉を、クリスは得意そうに言った。
鍋の湯が落ち着いたところで、長麺を入れる番になった。アストルが箱を開ける。麺は白く、細く、束の端が少し湿っていた。梅雨の空気を吸ったらしい。
「くっついてる」フィオナが言った。
「手で引っぱると切れる」レオンは麺の端を見た。「先に長さを分ける。全部を一度に入れると、鍋の中で同じ場所に寄る」
ルミナが浅い盆を二つ出した。レオンは麺を無理にほどかず、束ごとに少し離す。長い束、短めの束、端の折れた束。折れたものは、クリスの小鉢用にする。
「わたし、みじかいの?」
「短いけど、ちゃんと長麺。食べやすい長さ」
「たべやすい、ながい」
「そう」
ルミナが長箸で麺を湯へ入れた。レオンは横から手を出さない。湯の道はルミナの道。アストルは湯切り布を持つ。フィオナは器を見る。クリスは待つ札の前に立ち、両手を後ろに回している。
湯の中で、麺がゆっくりほどけた。
急いでかき混ぜない。底に沈む前に、一度だけ長箸を入れ、鍋の縁に沿って道を作る。白い線が重ならず、湯の中で広がっていく。
「線みたい」クリスが言った。
「食べる線だね」
「からまらない?」
「今のところ、からまらない。湯の道があるから」
茹で上がると、ルミナが火を止めた。アストルが湯切り布を流しに広げ、フィオナが器を受ける位置を空ける。レオンは足元の紐を見て、誰もそこへ入っていないことを確かめた。
湯切りは静かだった。熱い湯は布を通り、受け桶へ落ちる。白い湯気は上へ逃げ、床へはこぼれない。アストルが布の端を絞ろうとして、ルミナに見られ、すぐ手を止めた。
「絞らない。麺がつぶれる」
「言う前に止まったぞ」
「えらい」クリスが言った。
アストルは少し照れた。「ありがとう」
器へ麺を分ける。大人の器、フィオナの器、レオンの器、クリスの小鉢。薬味皿は手前。熱い器は奥。長箸は台所へ戻し、食べる箸だけが食卓に残った。
レオンは長麺札を書いた。
『湯の道は、鍋から流しまで空ける』 『長箸と食べる箸を分ける』 『熱い器は奥、空の小鉢は先』 『折れた麺も、食べやすい長さにする』
フィオナが札を読んで、少し笑った。「折れた麺も大事にするんだ」
「短くなっただけで、食べられるから」
「それ、いいね」
食卓につくと、湯気は少し落ち着いていた。外の灯路が、窓の向こうでしっとり光っている。七月二日の夜は、六月より少しだけ夏に近い匂いがした。
クリスは小鉢の麺を見て、嬉しそうに箸を持った。「わたしの、たべやすい、ながい」
「そうだよ。ちゃんと君の長麺」
アストルが一口食べて、深く頷いた。「これはいい。長いものを長いまま食べるには、先に短い段取りがいるんだな」
グレゴールが眼鏡を押し上げた。「長さとは、物理量である前に、扱いの約束だ」
「おじいちゃん、今日は麺がのびる前に短く」フィオナが言った。
「……うまい」
「短い」
家族が小さく笑った。長麺は急がなくても、ちゃんと湯気を残している。湯の道、箸の道、器の順番。分けたから、同じ食卓に集まれた。
食後、レオンは玄関小棚に長麺札の控えを足した。半箱札、足手逃げ道札、四音札の隣だ。札が増えても、昨日作った空きはまだ少し残っている。
クリスは自分の短い箸を布で拭きながら言った。「ながいの、また、たべる」
「また食べよう。そのときも、湯の道から」
「ゆのみち、はしのみち」
梁の上で、スノーが長麺札を見下ろして嘴を鳴らした。「長いものほど、先に道を分けろ。湯も箸も気持ちも、同じ手元へ寄せれば絡まる。……明日は冷たい渦を急がす前に、器の支えと手の冷えを見ろ」




