1月12日(月):誓い灯の日
とある世界では今日は、雪の上を「滑る」ことが、大人のまねごとではなく、まじめな練習になる日。短い板と革紐を整え、転ぶ前に雪を読む目を覚える。
アルメリアでは『誓い灯の日』として、十五の子が、火に結ぶ言葉を一枚だけ書き、夕暮れの庭で小さな灯に預ける。翌日、その言葉は箱に入れて一年眠らせる。
朝の町は、雪が固く鳴った。灯路の石畳は薄い氷膜をまとい、踏むたび靴底が小さく軋む。路地の角では、子どもが短い板を足に結び、坂の白い筋を滑っていた。転びそうになって、両腕で風を抱え込み、笑い声だけが先に走る。今日は、滑ることが許される日の顔をしている。
フレイメル家の台所では、鍋の湯気が窓を曇らせていた。ルミナが匙で豆の汁をひと混ぜし、アストルは膝の上で革紐を引いている。レオンの短い板の留め具だ。 「ほら、踵はここ。締めすぎるなよ」 「分かった。ぼく、今日は転ばない。」 「転ぶのも練習だ」アストルは言い、すぐ言い直した。「転ぶ前に、雪を読むのが練習だ」
クリスは椅子の上で足をぶらぶらさせた。 「わたしも、すべる。」 「クリスは、広場の端だけね」ルミナが優しく釘を刺す。 「はーい」
フィオナは外套の内側を指で確かめた。昨日、テオが縫い留めてくれた板札。手袋越しでも、切り欠きが分かる。胸の奥が少し熱くなり、彼女は息を小さく吐いた。
テーブルの端には、誓い灯に結ぶ紙片が一枚ある。乾かしておいたはずなのに、縁がわずかに反っていた。フィオナは板札の上にそっと置き、上から掌で押さえる。木の平らさに紙が従い、反りがゆっくりほどける。 「それが今日の札?」ルミナが訊いた。 「ううん。言葉は……まだ」 「なら、段取りだけ先に整えなさい。言葉は、火に渡す前がいちばん騒がしいから」
梁の上で、スノーが羽をたたんで欠伸をした。 「十五の火遊びか。滑って口を切るなよ」
門へ向かう途中、フィオナは助け鈴の柱の根元の願い石を横目に見た。撫でるのは年始に一度だけ。代わりに、板札の角を指でなぞり、自分の順番を確かめる。
分校の門に着くと、セラフィナが息を切らして追いついた。頬は赤いのに、目が揺れている。 「待って、フィオナ。火に結ぶ言葉、もう決めた?」 「まだ。あなたは?」 「みんな、もう書いてるって。早く決めないと、置いていかれそうで」
フィオナは瞬きを一つして、頭の中で札を並べた。決められない。怖い。答えが違うと、仲がほどける。そういう音がする。 「私は、夕方まで待つよ」 「え、ずるい。見せてくれないの?」 「見せない。見せたら、違うものになる」
言った瞬間に、言葉が硬くなった。セラフィナの肩がほんの少し下がる。氷の薄い割れ目みたいに。
教室では、3学期の短札課題が黒板に貼られていた。『短い札に、今日の段取りを一つだけ』。フィオナはその紙を見上げ、喉の奥で息を整える。段取りなら書ける。誓いはまだ怖い。でも、段取りは今日の体だ。
昼休み、彼女は小さな紙片に「門で待つ」とだけ書いて、机の端へ置いた。書いたことで、足元が少し滑りにくくなる気がした。隣の席のセラフィナは、紙を握りつぶしそうな手をしている。
夕方、誓いの庭。灯路の先の空が藍に沈み、雪精が光の縁をふわりと揺らした。十五の列が並び、それぞれの誓い灯に小さな火が宿る。風が落ちる、とテオは言っていた。確かに、揺れるのは炎より先に自分の心だった。
係の先生が布紐を配り、紙片を結ぶよう促した。セラフィナの指が止まる。結び目が作れない。紙に書いた言葉が、火へ行く前に凍っている。 「フィオナ……私、変だよね」 「変じゃない。手が冷えてるだけ」 「違う。あなた、昨日……誰かと、決めたんでしょ」
その瞬間、誤解の形が見えた。見せないと言ったのは、隠しているから。隠すのは、誰かと先に結んだから。そう聞こえたのだ。
フィオナは外套の内側から板札を取り出した。木の角で、布紐を押さえる。自分の指の震えを、板に預ける。 「決めたのは、順番だけ。言葉は、まだ火に渡してない」 「でも……」 「昨日、テオくんに助けてもらった。だから、風が落ちる時間も知ってる。それだけ」
彼女は一拍置き、手袋を外した。自分の掌でセラフィナの指先を包み、息を吹き込む。火属性の適性は、ここではただの生活の熱だ。 「少しだけ、温めるね。」 「……あったかい。」
指が動くようになったところで、フィオナは短札課題の紙片を差し出した。 「これ、今日の段取り。今だけ見せる」
紙には、たった四文字。『門で待つ』。誓いじゃない。今日の手順だけ。
セラフィナは紙を見て、肩から息を抜いた。 「私ね、みんなが強そうで……先に決めないと、置いていかれるって思ってた」 「置いていかれない。火は逃げない」フィオナは言い、すぐ言い直した。「逃げないように、順番を作ればいい」
二人で布紐を結び直した。結び目は三回、指で確かめる。ほどけない。手順は嘘をつかない。最後に、セラフィナの紙片が火のそばでふっと柔らかくなる。凍っていた言葉が、熱で息をした。
家に戻ると、食卓の上に湯気が立っていた。ルミナが鍋を置き、アストルが椀を配る。レオンは板の留め具を誇らしげに見せ、クリスは匙を口に運びながら目を丸くした。 「お姉ちゃん、火、こわくなかった?」 「怖かった。でも、渡した」 「何て書いた?」レオンが身を乗り出す。 「言えない」フィオナは笑って首を振った。「明日、箱に入れるまでは」
クリスが匙を止めて言った。 「わたし、あした、はこに おやつ いれる。」 「入れるのは言葉よ」ルミナが言うと、クリスは眉を寄せた。 「ことば、あまい?」
レオンが吹き出し、フィオナもようやく笑えた。
ルミナはそれ以上訊かず、頷いた。 「言葉は、閉じても消えない。閉じるのは、守るためよ」
夕食のあと、フィオナは外套を羽織って家を出た。灯路の光が雪の表面で細く伸び、足音が短く返る。ひつじ雲ベーカリーの灯りが、粉の匂いと一緒にこぼれていた。
戸布をくぐると、テオが小さな箱を持って出てきた。薄い木で、角が丸い。 「明日の言葉箱。木が乾いてるやつを選んだ」 「……用意してたの?」 「冬は湿りやすい。紙が反る前に、箱のほうを整えたかった」
テオは蓋を外し、内側を乾いた布でひと撫でした。継ぎ目の粉を払う。角の当たりを指で確かめ、蓋が引っかからないように軽く擦り合わせる。 「ここが尖ってると、紙が欠ける。」 「そんなとこまで見るんだ。」 「言葉は軽いけど、紙は軽くない。」
箱を受け取るとき、指先が触れた。手袋越しでも分かる熱。フィオナは一瞬だけ息を止め、すぐに笑おうとして失敗した。テオも同じ顔をして、目だけで謝った。
「今日、どうだった」 「誓いは……火に渡した。まだ言えないけど」 「言えないままでいい。箱は、言えないのを預かる道具だ」
帰り道、フィオナは箱を抱え、胸の奥に小さな熱をしまった。明日、言葉は箱へ入る。入れた瞬間、逃げなくなる。その代わり、開ける日が決まる。
梁の上で、スノーが外気を嗅いで嘴を鳴らす。「火に預けた言葉は戻らん。箱に押し込むな、ちゃんと眠らせてやれ。




