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1月11日(日):鏡札ひらきの日

 とある世界では今日は『正月のあいだ棚に飾っていた丸い白を下ろし、刃物を避けて手で“開いて”食べ、これからの一年の無事を願う』日。 アルメリアでは『鏡札ひらきの日』として、静火の三日間に書いて伏せた鏡札を開き、甘い湯気の中で食べ札をほどかせて、言葉を身体にしまう日だ。


 台所の棚のいちばん上に、小さな木箱がある。フィオナは踏み台に乗って、その箱を両手で抱えた。木肌は冷たく、指先に冬が移る。 箱のふたを開けると、短い札が一列に並んでいた。家族の分。乾いて硬くなった紙が、灯りの下で薄く白い。


 ──けれど、そこに“空き”がひとつある。


 フィオナは視線を落とさないまま、外套の内ポケットへ指を入れた。布の奥に、折り畳んだ一枚。静火の二日目に裏返してから、ずっと裏のままの札だ。乾きはとっくに終わっている。隠しているのは湿りじゃなく、胸の熱の向き。


 彼女はその札を、箱の並びの端へ、裏のまま差し込んだ。指先が少しだけ汗ばむ。今日で“開く”日になると、分かっているのに。


「持ってきた?」 ルミナが鍋を火にかけながら訊いた。ふたの縁から湯気がすこし漏れる。甘い豆の匂いが、台所に薄く広がっていく。 「うん」 フィオナは箱を卓へ置き、札を崩さないように並べ直した。


 玄関の戸鈴が、短く鳴った。 アストルが戸布をめくって外を覗き、「あれ?」と声を落とす。戸口にいたのは人ではなく、薄い紙片がひらりと一枚。冷気に押されて、足元へ滑り込んだ。


「分校の連絡短札だ」 フィオナは紙片を拾い上げ、端の印を見て眉を寄せた。分校の生活指導で使う、連絡短札の印。 開くと、セラフィナの字だった。


『今夜、誓いの庭で準備。来られる? 先生が“今日中”って』


 胸がきゅっと縮む。 今夜。今日中。


 フィオナは反射で、明日の予定を頭に引っ張り出した。分校の掲示で見た、誓い灯の段取り。十五歳の節目の子が、言葉を火に結びつける日。準備は“前夜”ではなく、“当日”に寄せてあったはずだ。


「どうした?」 アストルが覗き込む。 「セラフィナが、誓いの庭の準備が今夜って……」 言いかけて、フィオナは止めた。焦りの言葉は、焦りの形にしかならない。


 彼女は棚から自分の小さな帳面を取り、ページをめくった。八日から始まった三学期。生活指導の短札課題の欄。そこに、明日の書き込みがある。


『誓い灯:当日夕刻/誓いの庭 集合は授業後』


「……“今夜”じゃない」 フィオナは声を落とした。 グレゴールが椅子から顔を上げる。「誤読か、伝達の欠けか。冬は文字も滑る」


 フィオナは紙片の裏へ、短く返事を書いた。 『掲示では“当日授業後”。今夜は各自の言葉を決めておく日。明日の門で一緒に確認する』


「返すの?」 レオンが机の端から覗き、目をぱちぱちさせる。 「うん。勘違いのままだと、セラフィナが冷える」 フィオナは紙片を折り、戸口の連絡籠へ入れた。縁に『分校』の札が結んである。明朝、配達の子が拾う。


「お姉ちゃん、すぐ、なおすね」 クリスが頷いた。 その一言が、焦りの角を少しだけ丸くした。


「さて」 ルミナが鍋の火を弱め、卓の上を片づける。 「鏡札ひらき。今日は“切らない”。“開く”」


 アストルが小さな木口きぐちを出した。握りやすい、短い槌。派手さのない道具だけれど、こういう日には主役になる。 「去年、刃を入れたら、父さんに睨まれたからな」 「睨んだのではない。観察したのだ」 グレゴールが淡々と返し、アストルは肩をすくめた。


 フィオナは札を一枚ずつ、卓に置いていく。硬い紙が、こつ、と小さく鳴る。どれも角が丸い。封じ札の縁を、指先で確かめると、薄い澱粉の感触がある。 食べ札として溶けるように作られた札だ。火と湯気の前提で、言葉を口に入れる。


 レオンの札が先に開いた。 アストルが木口で縁を軽く叩き、レオンが両手でゆっくり開く。


「……『灯路の縁を踏まない』だって」 レオンは照れたように鼻をこすった。 「こないだ、雪で滑って、縁の欠けに足とられたから」 「よく気づいてる」 フィオナは頷いた。灯路の縁は、冬ほど欠けが目立つ。踏まない意識は、町の怪我を減らす。


 クリスの札は、ルミナが開いた。 「これは……『てぶくろ さき』」 クリスが胸を張る。 「てぶくろ、さき。おてて、いたくない」


 グレゴールの札は、言葉が短かった。 『実験は、昼にする』


「それ、守れる?」とアストルが言う。 「守る努力をする。夜は家族が眠る」 グレゴールはそれだけ言い、鍋の湯気を眼鏡越しに眺めた。


 札は、開いた順に、小皿へ置かれる。 そして、食べ札の薄い部分を、甘い汁へ浸す。ふにゃりと柔らかくなったところを、口に入れる。言葉を噛むのではなく、溶かして飲み込む。


「……おいしい」 レオンが小さく言った。 「甘いのは、守りやすいのよ」 ルミナが笑う。


 フィオナは、自分の札を最後に残していた。 手が勝手に遅くなる。遅れているのは手なのに、心の方がそれを正当化する。


「フィオナも」 ルミナが促した。


 フィオナは札を卓の中央に置いた。封じ札の縁が、ほんの少しだけ波打っている。乾かす途中で、裏返したせいだ。紙の裏が卓に張りつき、冬の冷えで固まった。


 ──このまま木口で叩けば、言葉が欠ける。


 フィオナは“解析眼”を使わずに、段取りだけで勝つ方を選んだ。 まず温石。布で包み、札の縁へ当てる。 次に鍋の位置。湯気が届くように、卓の端へ寄せる。 最後に時間。数十呼吸、待つ。


「待てるの、えらいな」 アストルがからかい半分で言いかけ、ルミナの視線に気づいて咳払いした。 「……いや、本当に。焦ると破る」


 紙が少しだけ、ほどけた。 フィオナは木口を使わず、指の腹で縁を押した。柔らかくなった澱粉が、冬の硬さを手放す。


 開く。


 中の文字は、思ったよりまっすぐだった。


『終い際は、言い訳を増やさない』


 心臓が一拍だけ跳ねた。 約束を薄めない。言葉の濃さを守る。 ……誰に向けた札か、家族に説明する必要はない。けれど、フィオナ自身には分かってしまう。


「それ、いい札だね」 ルミナが、何も訊かずに言った。 アストルは口を開きかけ、閉じた。レオンは“へえ”とだけ頷き、クリスは甘い汁をもう一口すくって満足げにした。


 梁の上で、スノーが片目を細める。 「ふん。大人は札が短いほど、顔が赤い」


 フィオナは何も返せず、食べ札を汁へ浸した。 甘い湯気の中で言葉がほどけ、舌に残るのは、豆の温度だけ。


 食卓が片づくと、フィオナは外套を羽織った。 「どこ行くの?」レオンが訊く。 「用事。……終い支度が終わる前に戻る」 その言い方に、自分で少し笑ってしまった。


 外は、灯路の光が低く流れていた。足音が、石畳で小さく響く。 ひつじ雲ベーカリーの戸布が揺れ、店先の灯りが、ほんのりあたたかい色をしている。


 店の中では、テオが箒を動かしていた。終い支度の手つき。扉を開けると、粉の匂いがふっと強くなる。


「あ」 テオが顔を上げ、すぐに笑った。 「来た。……寒くなかった?」


「遅くなって、ごめん。鏡札ひらきで」 言い終えて、フィオナは自分の言葉の端が少し丸いことに気づく。


「うちも、だよ」 テオは箒を壁へ立てかけたまま、フィオナの胸元をちらりと見た。 「……それ、まだ持ってた?」


 フィオナは外套の内ポケットから、白い紙で包んだ耳当てを出した。 「借りたまま。返す、って言い方が、まだ強くて。……でも、今日で終わらせる」


 テオは受け取らず、作業台の端を指で叩く。 「ここ、ほつれてる。今、縫う。刃物は使わない――今日は“開く”日だし」


 針と糸が出てくる。ほつれの端を指で押さえ、糸を通す動きは粉を扱うときと同じで、急がないのに速い。 縫い終えると、薄い板札をひとつ、糸で包みの端に留めた。指で撫でると刻みが二段。向きが迷わない。


「手袋のままでも分かる。覆う側と、空ける側」 テオはそう言って、照れたように目を逸らした。


 フィオナは板札を指先で確かめ、胸の奥で何かがほどけた。 “同じ段取り”が、言葉じゃなく形で渡されると、恥ずかしさより先に、ありがたさが来る。


「助かる。……明日、分校で誓い灯があるの」 「十五のやつ?」 「うん。友だちが、少し勘違いしてて。朝、門で合わせる」


 テオは少し考えて言った。 「誓いの庭、夕方は風が落ちる。灯りが揺れにくい時間」


 フィオナは頷いた。 「じゃあ、明日は……遠回りしないで行く」


 テオが、声を出さずに笑う。粉と湯気の匂いの中で、その笑い方だけが残った。


 帰り道、灯路の光は変わらず低いのに、足元だけ少し明るい気がした。約束は、守ると道になる。


 梁の上のスノーは、フィオナの外套の肩にふわりと降りて、鼻先で板札を一度つついた。「開いた札は飲み込め。……飲み込んだなら、明日の足も、ちゃんと前へ出せ」

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