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1月10日(土):百十の鈴札の日

とある世界では今日は『緊急の知らせ方を、まちのみんなで確かめる』日。アルメリアでは『百十の鈴札の日』として、灯路の角に立つ助け鈴の柱に鈴札(分ける印)を掛け直し、「迷わず、でも慌てず」を手の癖にする日だ。


朝の冷えは、戸布の隙間から細い刃みたいに入ってきた。頬が乾き、息が白くほどける。フィオナは台所で湯を沸かし、温石を一つだけ布に包む。家の中の段取りは整っている。そう思っていた。


居間の机の端に、白い紙包みがある。片方だけの耳当て。昨夜は白い紙で包んで、乱れないように置いた。


「それ、まだ返してないの?」 ルミナが鍋の湯気越しに言う。


フィオナは頷きかけて止めた。返す、という言い方が、いまの自分には強すぎる。借りているのか、預かっているのか、それとも――。


「……今日は、百十の鈴札の日だから」 言い訳みたいに聞こえたのが嫌で、フィオナはすぐ続けた。 「灯路の角の札、触って分かるように掛け直す日。ついでに、です」


アストルが工房から顔を出す。「ついで、って便利な言葉だな。よし、うちは札の予備を作るぞ」


レオンが目を輝かせた。「ぼく、三角つくる。いま危ないやつ」 「わたし、まる。あとで、ってやつ」 クリスが机に手をついて言い、ルミナが笑った。「二人とも、形は合ってる。今日は“分ける”日ね」


鈴札は、見えるだけじゃ足りない。霜で札が固くなる朝ほど、手袋越しに触って分かる縁の切り欠きが効く。


フィオナは厚紙を揃え、定規を当て、刃を入れる。三角、丸。切り欠きは小さく、でも確かに。指先でなぞると、ほんの一瞬だけ“欠け”が引っかかる。


「お姉ちゃん、これ、さわって分かる?」 レオンが自分の手袋の指で縁をなぞる。


「分かる。急いでるときほど」 フィオナが答えると、レオンは満足そうに頷いた。「じゃあ、ヒーローの札だ」


札を束ねて紐を通し、紙包みも上着の内ポケットへ入れる。温石は小さな巾着へ。外へ出る準備が整うと、胸の内側の熱だけが遅れてついてくる。


門を出ると、灯路は昼の顔をしていた。光は眠っているのに、石畳の目地の冷たさが足の裏から伝わる。


角の助け鈴の柱は、いつもと同じ場所に立っている。根元には願い石が埋め込まれ、霜が薄く乗っていた。


「まず、拭いてからね」 ルミナが言い、乾いた布で柱の縁を払う。フィオナは短い刷毛で溝を掃き、木べらで固い粒を外へ寄せた。年のはじめに願い石を撫でたときの手順が、そのまま出る。


そのとき、路地の向こうから戸鈴の音が小さく鳴った。ひつじ雲ベーカリーの戸口だ。厚手の戸布が揺れ、焼きたての甘い匂いが一瞬だけ外へ漏れる。


ひつじ雲ベーカリーの店先の灯り文箱の受け口に、紙が一枚、差さっていた。端の灯り刻印が、淡く点っている。角には、フィオナの受け取り刻印。――自分宛だ。


フィオナは息を止めた。引き抜く指先が、手袋の中で少しだけ震える。


灯り文には短い字。 ――「今日、角の鈴札を掛け替える。昼前、手が空く。来る?」


“来る?”の二文字が、雪の粒みたいに胸に落ちた。


「……行ってくる」 フィオナは家族に言い、言い方が硬くなったのに気づいて付け足す。 「札、渡すだけ。すぐ戻る」


ルミナは何も言わず、布をたたんで頷いた。アストルはわざと大きく息を吐く。「段取りは守れよ。迷子になるな」 「ならない」 フィオナは短く返し、歩幅を少しだけ速めた。


ひつじ雲ベーカリーの工房は、昼前の静かな忙しさの匂いがした。粉の甘さと、木の熱。 テオが袖をまくり、作業台の端を指で叩いた。「来てくれて助かる。鈴札、去年のが固くてさ」


フィオナは紙包みを差し出す。「予備。切り欠き、深めにした」


テオは三角を一枚、手袋越しに触って確かめる。目を上げずに言った。 「分かる。これなら急いでても迷わない」


その言い方が、昨夜の自分の言葉と同じで、フィオナは耳まで熱くなった。


「……じゃあ、角へ」 逃げるみたいに言うと、テオは笑って頷いた。「うん。今日の仕事は、鈴が主役だ」


二人で角へ戻る。助け鈴の柱の紐は、霜で硬くなっていた。


柱の側面に、灯路番所の点検札が掛かっている。『今日は点検日。試すのは一度。異常は番所へ連絡』――短い字が、風に揺れていた。


「試すのは、一回だけ」 フィオナが言う。 「引いたら、必ず戻す。戻らないと、鳴りっぱなしになる」


テオが頷き、紐の端を軽く引いた。 鈴の音は、短く、澄んだ。


――のはずだった。


紐が、戻らない。指を離しても、引かれたまま、少しだけ張っている。


フィオナの背中に、冷たい汗が走った。鈴は緊急の合図。今日が点検日でも、鳴り方が“長い”のはよくない。


「止める」 フィオナは紐を手で戻し、柱の留め具を確かめる。霜が結び目に噛んで、動きを鈍らせている。砂も混じっている。


テオが息を呑む。「ごめん」 「謝らない。直す」 フィオナは言い切り、温石を布越しに結び目へ当てた。熱で溶かすんじゃない。固さの角を落とすだけ。


ルミナが乾いた布で結び目の外側を押さえ、アストルが刷毛で砂を掃き落とす。家の三人の手が、勝手に段取りを組み替える。


「戻す動きが、最後にいる」 フィオナは紐の通り道を指で示す。「ここに、引っかかりができてる。霜の膜」


テオが小さく頷き、結び目をほんの少しだけほどく。ほどきすぎない。ほどくのは“戻る分”だけ。


「じゃあ、札を掛け直す」 フィオナは束から丸い鈴札を選び、柱の見やすい位置へ掛けた。丸=あとで相談。今日の点検は“危ない”じゃない。


次に三角の札。紐のすぐそばへ。縁の切り欠きが指に触れるよう、向きを揃える。


そして最後に、短い段取り札を一枚だけ。 “触る→引く→戻す” 文字は少なく、でも順番は崩れない。


「順番って、札にすると強いね」 テオが言い、フィオナは頷いた。「人の頭は、急ぐと抜けるから」


もう一度だけ、試す。 今度は紐が、きちんと戻った。鈴の音は短く、息の長さに追いつかない。


フィオナは肩の力が抜けるのを感じた。危険が消えた、というより、危険と区別する手順が手に戻った。


「……ありがとう」 テオが言う。粉の匂いの手が、札の束を受け取る。


フィオナは紙包みに触れ、内ポケットを確かめた。耳当てはまだそこにある。


「それ、返しに来たんだろ」 テオが小声で言う。


フィオナは首を振り、すぐ言い直した。「……返す、じゃなくて。明日、ちゃんと話す」


言ってしまってから、自分で驚いた。明日、という約束が、口から出た。


テオは一拍おいて、笑った。「明日は鏡札ひらきの日だ。うちも札を開く。終い際、店先で待つ」


「……うん」 フィオナは頷き、視線を鈴札へ逃がした。三角と丸が、冬の光の中で静かに揺れている。


帰り道、灯路の角を曲がるたび、フィオナは指先で手袋の中を確かめた。切り欠きの感触。順番の感触。約束の感触。


梁の上で、スノーが外気を吸い込み、嘴を鳴らす。「百十の札は、勇気じゃなく段取りだ。……明日の鏡札は、覚悟じゃなく手つきで開けろよ」

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