1月9日(金):問答札の日
とある世界では今日は『問いを立て、答えを探し、言葉のすれ違いを遊びの形でほどく』日。アルメリアでは『問答札の日』として、聞きたいことを札に書く前に「それは相手に聞いていい問いか」を一息ぶん確かめる日。
朝の学院の掲示板は、紙が一枚増えていた。フィオナはセラフィナと並び、指先で行をなぞる。
「提出は青。下書きは赤。相談は緑」 「うん。昨日の緑は、相談の緑だった」
セラフィナの肩が、やっと下りた。 「ありがとう。今日、ちゃんと眠れた」 「よかった」
それだけ言って、フィオナは前に進む。胸の奥の針は、いったん抜けた気がした。今日の荷物は軽い。軽いはずだった。
放課後。星粒ほいくえんの戸布をくぐると、温い空気と石鹸の匂いが混ざって迎えた。クリスは走り寄ってきて、両手を上げる。
「わたし、きょう、もんだい、つくった」 「問題?」 「なぞ。あてて」
そこで言葉が止まる。胸の前で、小さな紙を握っていた。紙の角がふにゃりと曲がっている。
帰宅してから、夕餉の支度を進めるうちに、家の中の温度が少しずつ整った。竈の火は静かで、鍋の中の湯気は薄い。
外套を脱ぐと、ポケットの底で羊毛が指に触れた。片方だけの耳当て。朝、手袋の横に置いたまま、結局つけずに持ち歩いてしまった。 揃いにならないものは、揃わないまま理由を持っている。フィオナは耳当てを手袋の横へ戻し、白い紙で包んだ。隠すためではなく、乱れないために。
その包みを見て、ルミナの目が一度だけ止まった。問いはまだ出ていないのに、家の中の空気が少しだけ“気づいている”形になる。フィオナは見られたことに気づいたふりをせず、鍋のふたを閉めた。
食後、レオンが机の端に両肘をついた。
「今日はクイズの日。家でもやる」 「家でも?」 「うん。ぼく、問答札、作る」
フィオナは笑いそうになって、手を止めた。「問答札」という言い方が、口の中で自然に転がった。
レオンは紙束を取り出した。赤札、青札、緑札の余り。そこへ白い紙を数枚、そっと混ぜる。
「白は何?」 ルミナが聞く。
「答えたくない札」 レオンはそれだけ言って口を閉じた。
フィオナの喉が、わずかに鳴った。白い紙が、一枚だけ光って見えた。
アストルが椅子を引き、手のひらで机の上をさっと払う。 「よし。出題者は、意地悪をしない。答える側は、逃げる札を使ってもいい」
家の決まりは、いつも簡単な文で作られる。
レオンが札に、文字を大きく書き始めた。鉛筆の先が紙を掠り、細い線が増える。フィオナは横で、紙の端を揃え、角を折り、束をきちんと四角にする。整える手つきは、落ち着く。
最初の札は、クリスが握っていた紙だった。
「もんだい。『おみずは、どこにある?』」
「桶」 アストルが答える。
クリスは頷いた。 「せいかい」
声が誇らしげで、家の中が少し明るくなる。
次はルミナ。 「問い。『灯路の光が薄いとき、最初に確かめるのは何?』」
フィオナは答えを言う前に、息を一つ置いた。 「灯路番所の掲示。次に、交換石の搬入。次に、区画の境目」
ルミナが口元だけで笑う。 「当たり。言葉が順番になってる」
レオンの番が来た。 彼は札の束を切り、いちばん上を引いた。引いた札を見て、少しだけ目を泳がせる。それから、思い切ったように読む。
「お題。『今朝、姉ちゃんの手袋の横にあった“片方の耳当て”は、どこから来た?』」
フィオナの手が止まった。 紙の角が、指に刺さる。
レオンは悪気のない目をしている。たしかに、ただの問いだ。けれど問いは、ときどき刃になる。家の中でさえ。
「……それは」
声が迷子になった。答えの前に、胸の熱だけが先に出る。
ルミナが静かに言う。 「レオン。その問いの意図は?」
レオンは肩をすくめた。 「知りたいだけ。姉ちゃん、朝、ふにゃって笑ってた」
フィオナは息を詰める。「ふにゃ」という言葉が、的確すぎて刺さる。
アストルが、机の上の白札を指で押した。 「使っていいぞ」
フィオナは白札を取り、手のひらで一度だけ撫でた。 「今は、答えたくない」
言えた。言えたことで、胸の熱が少し落ちる。
レオンが目を丸くした。 「ごめん。ぼく、いじわる、してない」
「知ってる」 フィオナは短く返す。短いほうが、嘘にならない。
ルミナが続けた。 「なら、決まりを一つ足そう。家の問答札は、相手の『今』を勝手にこじ開けない」
フィオナは頷いた。 「問いは、相手の明日の支度になる形で」
アストルが両手を打ち合わせる。 「合意。札に書いて貼る」
フィオナは新しい紙を取り、太い字で二行だけ書いた。
『問う前に、意図を言う。』 『答えたくない札は、責めない。』
書いて、貼る。貼った瞬間、胸の中の揺れが、家の外へ出ていった気がした。
貼った場所は、玄関脇の壁札の隣だ。青・赤・緑の札の少し下。明日、鈴の音に反射で動きそうになったときに、いちばん先に目に入るところ。家の決まりは、見える場所に置いて初めて、手の癖に勝てる。
クリスが札を見上げる。 「わたしも、しろ、ほしい」
「作る」 レオンはそれだけ言って、白い紙を一枚渡す。
その後の問答札は、少しだけ優しくなった。
「出題。『明日、百十の鈴札の日。鈴が鳴ったら何をする?』」 アストルの問いに、フィオナはすぐ答える。
「止まる。聞く。走る前に、誰が鳴らしたか確かめる」
ルミナが頷く。 「その通り。明日は鈴の音が増える」
夜が深まり、灯路の光が窓の端へ滲んだころ。フィオナは机の隅に置いた“片方の耳当て”を見た。触れれば、羊毛が柔らかい。触れなければ、問いのまま残る。
フィオナは引き出しの札入れを開け、灯り文の束を指で分けた。端に小さな灯り刻印。角に、伝言屋の窓口で押してもらった受け取り刻印――『ひつじ雲ベーカリー/テオ』の印。 宛名を書いてからでないと、これはただの白い紙と変わらない。
フィオナは一枚を選び、短く書いた。
『今日は問答札の日。片方の耳当て、ありがとう。明日、店先に寄ってもいい? 答えたくなければ、白札でいい。』
折ると、灯り刻印はまだ眠ったまま暗い。起きるのは、受け取る側の刻印と合ったときだけだ。
フィオナは外套を羽織り、戸布をそっと抜けた。夜の灯路は冷えて、足音が石に小さく返る。 ひつじ雲ベーカリーの店先の灯り文箱の受け口の縁に指を添え、紙を滑り込ませる。戸鈴は鳴らさない。箱の中へ落ちた音だけが、静かに答えた。
梁の上で、スノーが尾を揺らした。「問いは刃にも橋にもなる。明日は鈴札の日だ。迷ったら鳴らせ、鳴ったら確かめろ」




