1月8日(木):片側ひらきの日
とある世界では今日は『片方を空けて一つの声を拾い、もう片方で暮らしの音を拾う』日。アルメリアでは『片側ひらきの日』として、言葉の取り違えを減らすために、聞いたことをその場で短く復唱してから動く日。
三学期の初日。朝の空気は硬く、戸布の端が指に冷たい。フィオナは玄関の籠を見て、昨日の夜に並べた鞄の位置をもう一度だけ確かめた。青札の束。赤札の束。緑札の束。束の結び目の向き。
「お兄ちゃん、むすび、まっすぐ」 クリスが言い、レオンの札束を指でちょんと押した。 「ぼく、まっすぐにした。もう一回、まっすぐにする」 レオンは二文で止めて、紐をきゅっと締め直す。
家を出る前に、フィオナはひつじ雲ベーカリーの方角へ小さく足を向けた。昨日の灯り文で「朝、短く寄る」と書いたからだ。
店先の灯路は、朝でも薄く息をしている。扉の内側から、焼き上がりの甘い匂いと、釜の乾いた音が漏れた。テオが戸布を持ち上げ、顔だけ出す。
「早いな」 「三学期だから」
それだけの会話のはずが、フィオナは自分の声が少しだけ軽くなるのを感じた。テオは何も言わず、棚の端から小さな包みを渡してくる。羊毛の耳当て。片方だけ。
「片方だけでいい。片方を覆って、もう片方を空けると、話し声が拾いやすい。外の音が少し落ちるから」 「……ありがとう」 「返事も短くていい。それで十分」
冗談みたいな言い方なのに、手渡しの指が丁寧で、フィオナの胸が勝手に温まった。
店先を離れると、朝の灯路は冷えて、足音が石に小さく響いた。番所の方角から、荷車のきしみが一度だけ聞こえる。交換石の設置が進んでいるのだろう。耳当ての羊毛は掌の中で柔らかく、片方だけ温かいことが、かえって気を散らしにくくしてくれた。
戻ると、ルミナが玄関で待っていた。フィオナの手の包みを見る。 「それ、片方だけ?」 「片方だけ」 「ふうん」 ルミナの声は平らなのに、口元だけが笑いそうで笑わない。
学院の廊下は、冬の石の匂いがした。始業の挨拶は短く、先生の声は乾いた板の上を滑るみたいに進んだ。
「提出札の色は、今期から青。下書きは赤。相談は緑」
フィオナは壁札で覚えた順番を、頭の中でもう一度並べる。青、赤、緑。呼吸に合わせて。
問題は、そのあとだった。
先生は黒板の端に、小さく追加を書いた。言葉は口でも続いた。
「今期は口頭連絡が増える。聞いたら、まず復唱。復唱してから札にする。札にしてから歩く」
復唱。札にする。歩く。 その順番が分かっているのに、教室の空気は初日でざわつき、誰かの咳と椅子のきしみが混ざる。聞きたい声が、ほかの音に押される。
隣の席のセラフィナが、髪を耳へかけ直した。その仕草に、フィオナは一瞬だけ目がいってしまう。
休み時間、セラフィナは小声で言った。 「先生、提出箱の場所も言ってた。私、最後のところ、薄かった」 「薄かった?」 「声が。みんなの音に負けて」
フィオナの胸が、少しだけ急ぐ。提出箱。場所。初日。
放課後、セラフィナは走るように先に帰った。伝言屋の窓口が混む前に、灯り文を出すのだと言って。
夜。家の台所で若菜の匂いが抜け、鍋の底が乾いたころ。戸口の内側の鈴玉が、控えめに鳴った。家用の受け箱に灯り文が差し込まれた合図だ。戸鈴ではない。店先の灯り文箱とも違う、家だけの小さな知らせ。
灯り文の差出人はセラフィナ。 『提出箱、先生が「緑」って言った気がする。緑が提出? 自信ない。ごめん』
フィオナの頭の中で、青と緑が入れ替わりそうになった。昨日、壁札を貼った手が、今日ここで裏返る。
「今夜も分ける」 フィオナは声に出し、机の上へ紙を三枚置いた。 紙の端を布で撫で、指に引っかからないように整える。三枚をまっすぐ揃えると、胸の中のざわめきも少しだけ並ぶ。
一枚目に「先生が言った言葉」。 二枚目に「自分が聞いた理解」。 三枚目に「明日の行動」。
紙を置くと、焦りが紙の外へ落ちる。
フィオナは、朝に受け取った片方の耳当てを出した。片方だけ、机の端に置く。置いただけで、気持ちが少しだけ整う。
灯り文に返す。
『復唱する。先生が言ったのは「提出箱が緑」? それとも「相談札が緑」? 言葉をそのまま書いて返して。』
返事はすぐではない。すぐではないことが、今夜は助かる。フィオナはその間に、黒板の内容を思い出して書いた。提出札の色。下書き札の色。相談札の色。提出箱の場所は、先生の箱、クラスの箱、学院の図書室の箱。
「言葉を短く」 フィオナは自分に言って、三枚目の「明日の行動」に二行だけ書いた。
・朝、掲示板の紙を読む。 ・不明なら、先生に復唱して確認する。
ルミナが湯呑みを置き、札を見る。 「いいね。歩く前に、読む。読む前に、復唱」
レオンが背中から覗き込み、耳当てを見つけた。 「それ、テオ兄の毛のにおいがする」 フィオナは息を詰めて、すぐ笑いに逃げた。 「鼻がいいね」 「ぼく、鼻もヒーロー」
クリスは耳当てを指でつんと押し、すぐ手を引いた。 「わたし、あったかいの、すき」
灯り文が光った。 『先生の言葉、思い出した。「相談は緑」って言った。提出箱は、先生の箱とクラスの箱と学院の図書室の箱。私、最後だけ薄くて、緑のところだけ大きく残った。ごめん』
フィオナは胸の針が抜けるのを感じた。
『確認できた。ありがとう。ごめんは要らない。明日は掲示板を一緒に読む。読む前に復唱。』
灯り文を閉じると、家の音が戻る。湯の沸く小さな音。子どもの呼吸。外で灯路が冷えに鳴る音。
フィオナは片方の耳当てを手に取り、手袋の横に置いた。明日の朝、片方だけ覆って、先生の声を拾う。もう片方で、家の足音を拾う。
梁の上で、スノーが羽を震わせた。「片方を空けるのは助けになるが、両耳を閉じるな。聞く順番を守れ。明日は鐘より早く動くぞ」




